7-3 分水嶺(2)

仏蘭西フランス語を? 西郷様の私学校で? 俺がですか?」

 突然目の前に現れた、突然の西郷隆盛の誘い。晋祐はつぶらな目を目一杯見開き驚いた。


「また、利良殿と酒を飲みたいなぁ」

 北からの涼しい風が晋祐の頬をくすぐり、散切り頭を照らす太陽の光は穏やかになった。

 秋の空は、驚くほど高く澄み渡る。

 長すぎる薩摩の夏は偏西風にさらわれるように、終わりを告げようとしていた。

 廃藩置県により、例外なく薩摩藩においても版籍奉還がなされた。

 薩摩藩は薩摩国となり、鹿児島県へと生まれ変わったのである。

 藩士時代、勘定方で手腕を振るっていた晋祐は、県となった組織で出納業務を行っていた。時代は変わっても、やる事は変わらない。遠い東京で活躍する利良を思いながら、毎日忙しい業務に取り組んでいた。

 久しぶりにのんびりと。

 庭で寒蘭やえびねの手入れをしていた晋祐は、地面を覆う大きな人影に驚いて顔を上げた。

 そこにいたのは、恰幅の良い大きな男・西郷隆盛である。

 背の高い利良よりもひと回り大きく見えるのは、身長の割に華奢な利良の二倍はありそうな体躯のせいだと。西郷を頭のてっぺんから爪先まで眺めた晋祐は、一人納得して頷いた。

 政変と体調不良により西郷が下野したことは、利良からの手紙で知ってはいる。

 晋祐はそれを表立って口にすることはなかった。

 しかし、西郷ほどの有名人を血気盛んな若者がほっとくはずもない。あれよあれよという間に、西郷を慕う者で構成された私学校が出来上がってしまった。

 そして、今。目の前にいきなり現れた渦中の西郷は、思いの外顔色も良いように思える。

 晋祐は西郷に簡単に挨拶をすると、有馬家の床の間へと案内した。

 襖を隔てた向こう側から蒲鉾の蒸し上がるいい匂いが漂う。すると、後ろを歩く西郷の腹の虫が、賑やかに音を立てた。

「……あげー(※ あぁ)」

「……」

「良か歳になっせぇ。腹ん虫も抑えられんこつぁ、げんねかぁ(※ はずかしぃなぁ)」

「蒲鉾、召し上がられますか?」

「良かとな?」

「えぇ、そりゃもう。沢山召し上がってください」

「じゃ、遠慮なくいただきもす」

 晋祐は西郷を床の間に通すと、キヨのいる炊事場へと急いだ。

「キ、キヨさん!!」

 晋祐は、勢いよく襖を開けてキヨの名を呼んだ。何を興奮しているのか? 息を切らせて慌てる晋祐に、キヨは小首を傾げて振り返った。

「晋祐様、どげんしやったと?」

「さ、西郷様が! いらした!」

「あら、何の御用じゃろかい」

「そ、それは……よく、わからないけど。と、兎に角! 蒲鉾を召し上がりたいそうだ!」

「んだもしたん(※ おやまぁ)! 味は、醤油で良かどかい」

「あぁ、大丈夫だ! すぐ! すぐに準備してくれないか?」

「分かいもうした! すぐ準備をいたしたもんそ」

 キヨの頼もしい返事を聞いた晋祐は、一つ頷くとまたせわしく廊下を移動する。落ち着かぬ胸の音を鎮めるように。晋は床の間の前に膝をつき、深く息を吸った。そして、襖の引き手に手をかける。

「西郷様、お待たせしております」

「あぁ、よかよか。堅苦しい話っば、しにきた訳じゃねで」

「はい」

「しかし、庭をよう手入れしぃちょんなぁ。見事みごてもんじゃ」

 床の間に足を崩さず座る西郷は、縁側から見える庭を見て言った。

「ここで月見酒をするのが、好きなんです」

「ほぉーっ! そいは良かなぁ! ここで庭どん眺めっせぇ焼酎そつば飲めば、さぞ美味うめかろたっ」

「はい。昔はよく時間ときを忘れてしまうほど。ここで、川路利良と飲んでいたんです」

「川路殿、かぁ……。また懐かしい名前が出っきもしたなぁ」

 西郷は丸い顎を指でなぞりながら、何やら考えるように呟く。西郷の胸中が読めぬまま、体に詰まった興奮を吐き出すように、晋祐は小さく短く息を吐いた。

 その時、襖の向こう側から「失礼いたしもす」というキヨの声が響く。

 スッと襖が開き、キヨが深く頭を下げた。

 手には柘植のお盆。黒千代香くろぢょかと猪口、醤油が添えられた蒲鉾がのったお盆を西郷と晋祐の前に差し出される。

「ごゆっくり、おじゃったもんせ(※ していってくださいね)」

「あいがとさげもす!」

 西郷は満面の笑顔で「あいがとさげもす!」と言うや否や、蒲鉾を醤油につけて頬張った。

美味んまか!」

 次々と蒲鉾を平らげる西郷に頭を下げ、キヨは襖の引き手に手をかけた。

 西郷は庭を眺めから、次々と蒲鉾と焼酎を口に放り込む。まるで、初めから蒲鉾を食べにきたような西郷の振る舞い。あまりにも上機嫌に蒲鉾を食す西郷に、晋祐は完全に話しかける時期を逸していた。

「じゃった! 肝心なこっを忘れちょった!」

 大きな目を更に大きく見開き、突然、晋祐に向き直る。同時に、晋祐はほっとした。

「有馬殿、俺が私学校を立ち上げたことは知ぃちょっどが?」

「はい。存じ上げております」

「そこで、仏蘭西フランス語を教えっくいやはんどかい」

仏蘭西フランス語を? 西郷様の私学校で? 俺がですか?」

 突然目の前に現れた、突然の西郷隆盛誘い。晋祐はつぶらな目を目一杯見開き驚いた。

若二才わかにせには、大いに外の世界ば見っじかなならん。やっで、有馬殿に仏蘭西語を教えっもろっちな」

 晋祐は悩んでいた。

 版籍奉還と同時に、若二才が笑い切磋琢磨し合う造士館が無くなった。せっかく学んだフランス語を教える機会を失ってしまったのだ。

 賑やかな声が響いていた造士館は、実にひっそりと佇まいのみ残す。

 晋祐はうれいていた。

 新しい時代になったにも拘らず、稚児や若二才から、学問の場を取り上げてしまう。

 そんな結果となった今の状況が腹立たしい。そして、何もできない己に仕方がないと、言い聞かす。

 後悔しかない晋祐の前にいる西郷は、直視できない程に眩しかった。前を向き私学校まで立てた西郷を、晋祐は真っ直ぐに見ることができなかったのだ。

「どけんじゃろかい、有馬殿」

「……暫く、考えさせてもらえないでしょうか?」

「何が不満なこっがあっけ?」

「いや、そう言う訳ではなくて」

「なら、決まりじゃ!」

「え!?」

「じゃ! 明日からよろっしゅ頼んみゃげす」

「え!? あっ……ちょ! 西郷様!」

「いやぁ! うんまか蒲鉾までご馳走になっせぇ! さらには仏蘭西語の教鞭までとってもろちなんざ! 今日は良か日じゃぁ」

「いや、まだ! やるなんて……」

奥方うっかた様にも、よろしゅっ伝えっくいやい」

 西郷は上機嫌に言った。そして「よっこらしょ」大きな体を揺らして立ち上がると、ゆっくりとした足取りで玄関へと進んでいく。

 いきなり、教鞭を取ることになってしまった。更にそれを拒否することができなかった。

「あら? 西郷様は帰りやったと?」

 ぼんやりと佇む晋祐に、襖の隙間から顔を出したキヨが声をかける。

「あ……あぁ、そうみたいだ」

「そうみたいって……晋祐様、どげんなさったと?」

「なんか……うん。短い時間に色々あったからな」

 そうポツリというと、晋祐は縁側の向こう側にある庭に目を向けた。陽光に輝く寒蘭の葉が、眩しいくらい反射して、晋祐は思わず目を細める。

 眩しい感覚は、利良の屈託のない笑顔を思い出させた。

(利良殿。お前なら、どうする?)

 西郷の下野に追随する、かつての薩摩藩士の中には、政府に対し反撃を窺う者も多い。件の私学校も、反政府の思想が根底にある者達に、拝み倒されたものだと、まことしやかに言われていた。

 いつか、沈殿し燻る彼らの導火線に火がついたら……恐らく。真っ先に先鋒を切って祭り上げられるのは、維新の立役者である西郷だ。

 そういう考えは杞憂であると思ってはいるが、万が一。西郷が腰を上げ、万が一、反旗を翻すことになれば……。

 いつも新しい事を成す時は、心躍っていたはずなのに。どうにも前向きになれない晋祐は、静かに心の声を利良に投げる。

(きっと、利良殿の敵となる。利良殿、お前なら……どうする?)

 そう心の中で、何度も繰り返し己の中の利良に何度も問いた。


✳︎ ✳︎ ✳︎


「……」

「川路、どげんかしたとか?」

 大久保利通の随行として皇居に参内していた利良は、ふと晋祐に呼ばれた気がして振り返った。

 前を歩く大久保が鋭く眼光を光らせて利良を見る。

 前年の火事により赤坂に移った皇居。

 今きた道を振り返る利良は、困った顔をして頭を掻いた。四ツ谷濠を眼下に、見渡すは青い空ばかり。当たり前だが、晋祐の姿形はもちろん、気配すらない。

 それでも、確かに。晋祐の声が聞こえた気がした。いつものように、力強く溌剌はつらつとしたものではない。微かに迷いを含んだ呟きにも似た声を。

 利良は短く息を吐いた。

 何故、遠く鹿児島県にいる晋祐の声が聞こえた気がしたのか。最近、根を詰めて仕事をし過ぎたせいなのか。

 甚だ疑問に思いながら、利良は小さく「いや、何も無かでごわす」と答えた。

「西郷んこっか?」

 それもある。

 大久保の別の意味も含んだ言葉は、胸に宿る後悔の塊の一つを的確についてくる。利良は思わず、大きく首を縦に振りそうになった。

「……顔に出ちょいすか?」

「まぁ。おはんな、嘘は上手い方では無かもんじゃっでな。それに、疲れも溜まっとっじゃ無かか?」

 的確に利良の痛いところをついてくる割には、表情すら変わらない。矢のように真っ直ぐ利良を見据える大久保に、利良は返事のかわりに苦笑いをして答えた。

 警察制度の改革を建議し、日本の警察制度を確立した。

 旧薩摩藩士からなる三千人もの邏卒らそつ(現・巡査)を統べ、東京の治安を保持する。

 警察制度をより強固なものにするため、大警視に就任する以前より、利良は自身の執務終業後に、東京中の警察署や派出所を巡視していたのだ。この時、利良の睡眠は、一日四時間にも満たなかったという。

 利良は苦笑いをした。

「大久保様は、流石じゃあさいなぁ」

「今、倒れてもろても困っど」

「体力だけは、自信があいもんで」

「初代大警視になる御身じゃ。過信は禁物じゃっ」

「……」

 この時、利良は胸中に生じた言い知れぬ不安を、口にすることができなかった。虫の知らせのような、漠然とした不安。確信と裏付けのない、すっきりとしないもやが、先の道筋を不穏に隠す。

 東京警視庁が設置されるのは、すでに決定事項として着々と準備が進められている。その初代大警視(※ 初代警視総監)に利良が就任するは、官僚も否を唱えない程の既定路線にあった。

 今より更に忙しくなる事は必須だ。警察等、治安維持の法整備を行うことは、決別する前の西郷隆盛との約束でもあり悲願だ。

 必ず成功させなければならない。

 決別を伝えても、こればかりは必ず成し遂げなければならない。そう願い行動してきたのに。

 分かれていたことにすら気付かなかった道筋は、今は飛び越えることのできない溝を生じさせている。

 もう、後戻りはできない。そう思うほどの深い靄が、利良の不安を余計に煽り言い知れぬ不安を増長させた。

 黎明--時代の夜明け。

 故郷から遠く離れ、自らの手で新しい世界を作り出しているにも拘らず。漠然とした大きな不安は、心躍るような希望を胸に宿すことを阻んでいたのだ。

「川路殿、行くぞ」 

「はい」

 不安を顕著に表し立ち止まる利良に、大久保は静かに声を放った。短く返事をし、前を歩く大久保の後を利良は無言で歩く。

 この時感じた利良の不安は、その後すぐに的中した。

 明治六年の変で不満を爆発させた不平士族達が、岩倉具視を襲撃。暗殺を企てたのだ。

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