7-4 分水嶺(3)

「大警視、少しお休みになられた方が……」

 椅子に腰掛けていた利良は、静かな執務室に響いた声にハッとした。目の前には、書類を抱えた若い邏卒らそつが、心配げな表情で利良を見おろす。

 机上の時計は、ちょうど午後八時を指していた。

 椅子に腰掛けて、約五分程。その間の記憶が全く思い出せず、利良は苦笑いをした。

「目を閉じたら、意識が飛んじょったもんじゃ」

「千田屋を襲撃した者の自供も取れましたし、もうお休みになられては……」

「大丈夫っじゃ!」

「でも……」

「調書を持ってきたとじゃなかったと?」

「あ……」

 若い邏卒は、思わず抱えた書類をギュッと握りしめる。

 利良は邏卒の腕から書類を引き取ると、四隅を整えて机の上に置いた。

「調書を読んだら、おいは家に戻っで。おはんはもう戻らんか」

「しかし」

「大丈夫っじゃ! 早よ戻らんか」

「はい。では、失礼します」

 若い邏卒は、不満そうに眉根を寄せる。

 しかし、利良の言葉に反論することなく、静かに声を響かせて執務室を後にした。

 バタンと洋風扉が閉まるのを確認して、利良は強張った眉間に拳を押し当てる。

 正直、大警視に就任してからというもの、想像以上の激務が続いていた。

 明治七年(一八七四年)一月十四日。

 赤坂喰違坂で起きた、右大臣・岩倉具視に対する暗殺未遂事件。襲撃者は明治六年の変で職を辞した元官僚・軍人である。不平士族となった彼等が起こした最初の事件だった。

 それから二年あまり経過した今もなお、各地で不平士族の反乱は収まるところを知らず。中央政府の頭を悩ませる原因となっている。

 原因は、山ほどある。利良は、はぁと深くため息を吐いた。

 近代化を急激に押し進める中央政府は明治九年(一八七六年)、廃刀令と金禄公債証書発行条例を続け様に発布する。

 これは帯刀・俸禄の支給という旧武士の特権を奪うものだ。武士としての最後の誇りを奪う形となったこの政令は、士族の精神的及び経済的な基盤を大きく打ち砕く結果となったのは言うまでもない。

 それまで声を上げなかった士族の不安を煽り、中央政府への反抗心を増長させた。

 燻りは火の粉を撒き散らし、飛び火し大きな火種となる。

 同年十月、熊本県や福岡県、そして山口県において不平士族の乱が一斉に起こった。これらの乱の報告を耳にした西郷隆盛は、下野した地より、同じくまつりごとから離れていた日置島津家当主の島津久風の五男である桂久武に対し書簡を出している。

 この書簡には一連の乱を傍観する一方、いつでも挙兵し乱を起こしうる意の言葉が書かれていたという。

 実際、中央政府は、遠く離れた南の地で西郷が始めた私学校を注視していた。

 西郷が創設した私学校は、瞬く間に鹿児島県全域に広がる。私学校の他に、分校がいくつも造られた。

 本来の目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率すること。そして、若者に教育の場を与えることだった。実際、外国人講師を採用し、優秀な若者を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れている。

 最先端の教育を行う裏で、西郷は鹿児島県独自の軍隊を創設することを目指していた。西欧教育の目的の半分以上は、強固な軍隊を保持し、かつ外征を行うための人材確保だと云えよう。

 やがて私学校出身の優秀な人材は、鹿児島県政の大部分を掌握する勢力へと急成長していった。

(書類に目を通しっせぇ、各署の巡回ばせにゃ……)

 利良は両頬を掌で弾くと、机上に揃えた書類にてをのばす。

 コンコン--。

 その時、洋風扉を叩く乾いた音が執務室にジワリと響いた。

「はい」

「川路殿、おいじゃ。大久保じゃ」

 利良は、洋風扉の向こう側の人物に面食らう。

 こんな時間にこんな場所に、大久保利通が一体何の用事か。椅子から腰を持ち上げ、利良は洋風扉の取手を引いた。

大久保様おおくぼさぁ、こげな時間にどげんかされもしたか?」

 利良が開けた扉の隙間から、大久保は大きな体を丸めて執務室に一歩踏み入れる。

「川路殿、少しはなっがあいもんそ。人払いは出来でくっか?」

「こん時間はもう、誰もここには来やせん。大丈夫ごわんそ」

 大久保は小さく首を縦に振ると、無言のまま応接用の椅子に腰掛けた。

 普段からあまり、必要以上の事は話さない。鋭い眼光で官僚達を見据えながら、一言二言話す。しかし、今の大久保はいつもの大久保より物々しく威圧感溢れる雰囲気を纏っていた。

 利良は頭を働かせて、昨今、日本を取り巻く事象を細部まで掘り起こす。

「川路殿、東京に出っきっせぇ何年になる?」

 想定していたとは全く違う大久保の第一声に、利良は一瞬、言葉を詰まらせる。詰まらせながらも、乾いた喉は「五年、経ち申した」と答えた。

「里帰りはしたけ?」

「いや……。中々、まとまった時間がっせぇ、まだ一度も帰っちょらん次第でごわす」

「そうか」

 豊かな顎髭に手を伸ばし、大久保は何かを思案する様な仕草をしてポツリと呟く。

「川路殿。一時いっとっ鹿児島かごんまに戻っみろかい」

「……」

 大久保の予想だにしない言葉に、利良は思わず絶句した。 

 肯定も否定もできない。

 利良は、ただ呆然と大久保の顔を見つめていた。

「ずっと働き詰めじゃったどが。おはんも、慣れん土地で疲れが溜まっちょらんけ?」

「……」

「邏卒ん中原や鹿児島んも、皆して帰っみろかい」

「何を……考えっちょっごわんか?」

 饒舌に語る大久保を、利良は乾いた声で制した。

 一瞬、胸中に沸いた違和感。それを受け流すことは、利良にはできなかった。

 利良は床に膝をつくと、目線を大久保に合わせる。

 凍りついてしまうほど、鋭い大久保の眼差し。こめかみが冷えるような感覚を覚えながらも、利良は逸らすことなく見返した。

「いや、何も」

「中原は、密偵ば訓練を受けた邏卒じゃ」

「じゃあさいなぁ」

「何を、考えちょっか……。大久保様、頭ん中ん考えをいっかせっくいやはんどかい」

「単純なこっじゃど、川路殿」

「単純、ち……」

「帰省をする、お前も俺も。ただそんだけっ事じゃ」

「……」

 利良から一寸たりとも目を逸らさずに。大久保は、有無を言わさず押し切る。利良は黙るしかほかなかった。

 大久保利通が、密偵を含む警察官の鹿児島への帰郷を強く促したのには訳がある。

 中央政府は、未だ燻る西郷隆盛の威を畏れていた。

 私学校出身者による鹿児島県政の掌握が進むにつれ、未対策だった私学校に対する警戒も大きくなる。失意のうちに下野した西郷を擁する私学校は、中央政府への反乱を企てる志士を養成しているのではないか、と危惧したのだ。

 その危惧は、より強力な軍隊をなし得ようとする西郷の意思であり、半ば当たっている。

 内閣顧問である木戸孝允を中心とする長州派 は、鹿児島県の現状を非常に由々しき事態とし、大久保に鹿児島県政改革案を迫ったのだ。

 当初、大久保はこの改正案に抵抗を示していた。改正案に首を縦に振ること。それは、同郷ましてや同じ釜の飯を食ったも同然の西郷を政敵と見做みなすことになる。

 強固なまでに拒否していた大久保であったが、各地の反乱を扇動しているような西郷の態度と木戸等の猛烈な勢いに押し切られた。

 大久保は、ついに改正案を受諾してしまったのだ。

 当時の大久保の政治的地盤は、吹いたら倒れるほど脆弱であり、非常に苦しい立場にあったといえる。

 この改革案は地方の乱の多発により実行不可能となったが、大久保はこの波に乗じて〝外〟の問題の解決を図ることを意の一番とした。

 警察官による密偵工作。そう、西郷から最も近い私学校の内部偵察と工作を講じたのだ。

正月しょがっは、過ぎてしもっかもしれんどん。皆して、帰っみろかい」

「……」

 大久保は椅子から立ち上がると、押し黙る利良の肩を軽く叩いた。

「なぁ、川路殿。おはんも帰っじゃろ?」

「……はい」

 有無を言わさぬ大久保の言葉に、利良は小さく返事をした。

 募る不安と、むせ返るような嫌な予感。

 新しいことを成すのに、どうしてこうも苦しいのか。抱いた負の感情を握りつぶすかのように。利良は丸めた拳に、より一層力を込めた。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


「キヨさん!! キヨさん!!」

 日が大きく西に傾き、城山の向こう側へと沈む頃。

 私学校の授業を終えた晋祐は、子どものように顔を上気させて走っていた。

 通りの随分向こうから、キヨの名を呼び走る晋祐の姿が次第に大きくなる。キヨは門扉からそっと顔を覗かせ、にこりと笑った。

 屈託なく笑うキヨを見つけ、晋祐は走る速度をさらに上げる。

晋祐様しんすけさぁ! そげん急いでどげんしやったと?」

 門扉まで一直線に走ってきた晋祐は、息を切らしながら叫んだ。

「利良殿が……! 利良殿が!!」

「兄様が、どげんしやったと?」

「帰ってくるそうだ!!」

「え?」

「利良殿が、鹿児島に帰ってくるそうだ!!」

 晋祐の言葉に、キヨの目が涙を溜め揺れ始める。

 喜びや、嬉しさ。

 寂しさや、悲しさ。

 今まで閉じ込めていた色んな感情が、キヨの目から一つ、また一つと溢れ落ちた。

「そ、そいは……本当ほんこつごわんか?」

「あぁ!! 今までの実績が評価されて、御上より休暇をいただいたそうだ! 正月は過ぎてしまうが、年明けには必ず帰ってくる!!」

「ッ!!」

 いつも笑顔を絶やさなかったキヨが、晋祐の胸に顔を埋めて涙を溢す。

 声を押し殺し、子どものように泣きはじめた。

 震える小さなキヨの肩に、晋祐はそっと手を重ねる。触れた手からキヨの感情が、ドッと晋祐の胸に押し寄せた。

 瞬間、鼻の奥がツンとし、途端に晋祐の目頭がじわりと湿気と温かみを帯びる。

 この歳でもらい泣きとは、情けない。

 晋祐はわざと薄暮時の空を見上げて、瞬きをした。

(そういえば。キヨさんは、祝言の時も泣いていたな。あぁ、でも。あの時は、怒っていたっけ)

 晴れ着姿のキヨが泣きながら、利良に怒る姿を思い出し、晋祐はクスリと笑った。

「〝泣こかい跳ぼかい、泣こよかひっ跳べ〟って言うんだろう?」

「晋祐様……」

「キヨさん、あんまり泣いていたら。利良殿を迎える準備ができないな」

 キヨは晋祐の胸から顔を上げると、手の甲で濡れた頬を拭う。そして、恥ずかしそうに笑った。

「じぁさいなぁ……。泣っじてん、何も出来んどなぁ」

 晋祐はキヨの肩を抱き、ゆっくりと門扉をくぐる。

 後になって、晋祐は思うのだった。

 キヨは恐らく予見していた。

 利良と次会う時が、今生で最後になることを。キヨは溢れ出る感情に紛れ込ませて、その予見をうれいたのだということを。

 晋祐は、後になって知ることになるのだ。

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