9-7 有馬手記(10)

晋祐様しんすけさぁないをしぃちょいやっとー?」

 手入れされた庭を臨む床の間。

 冊子に書をしたためていた晋祐は、ハッとして顔を上げた。

 陽光を浴びた椿の葉が、眩いばかりに反射する。星の雫のような光を背に、洗濯物を手にしたキヨが穏やかに笑みを浮かべて晋祐に声をかけた。

 懐かしい--。

 いつも見ているはずの明るい笑顔。何故か懐旧を掘り起こされた。キヨの真っ直ぐな笑顔は、利良のそれに似ている、と。晋祐は思わず目を細めた。

「何を一所懸命、書いちょいやっとー?」

「あ? あぁ……日記みたいなものだよ」

「日記、じゃいもすか?」

 縁側に腰掛けたキヨは、目を大きくして晋祐の書を覗き込む。

「そうだなぁ、いつから……。利良殿に出会ってから書き始めているものなんだ」

「え!? 兄様あにさぁに!? そげん前から書いちょいやったと!?」

 大きくした目を更に大きくして、キヨは声を上げて驚いた。

「晋祐様と、なご一緒におって、全然いっちゃん、気が付きもはんかったぁ」

 と、キヨは少し残念そうに顔を曇らせて呟く。

「いや、久しぶりに開いたんだ。利良殿が亡くなって五年経つだろう? 俺に残る利良殿の記憶を、しっかりと残したかったんだ」

「……晋祐様ぁ」

 突然の訃報だった。

 渡航先のフランスで体調を崩した利良は、帰国してすぐに亡くなった。「鹿児島かごんまに帰りたかなぁ」と、病床に臥した利良は、譫言うわごとのように言っていたという。

 死してもなお、故郷の地を踏むことが出来なかった兄・利良を思い、キヨの大きな目がみるみる涙を含んで揺れる。

 晋祐は洗濯物で冷たくなったキヨの手を、強く握りしめた。

「聲から先に忘れてしまうらしいんだ、人の記憶ってのは」

 自分の記憶を掘り起こすように。晋祐の眼差しは、空を見上げて遥か遠くを捉える。

「しかし、俺はまだ覚えている」

 空の彼方に何かを見つけたのか。晋祐は目を輝かせて、力強く言った。

「未だに、全部覚えている。利良殿の聲も。姿も。だから、この記憶を鮮明に残したい。俺以外の人にも伝えたい。利良殿の聲も全部。俺が記憶する全てを。俺が知らない未来へ残したいんだ」

 そう晋祐が力強く言ったその時。暖かな一陣の風が、空からさぁっと吹いた。

--そげんこっば、せんじっよかしとぉ。面目無げんねかが。

 頭を掻いて、照れたように笑う利良の声が、晋祐の耳を掠めていく。

 晋祐とキヨは、顔を見合わせた。

「キヨさん! 今の聞こえたか!?」

「はい! 聞っもした! 兄様じゃ! 兄様の声が聞こえもした!」

--聲無キニ聞キ 形無キニ見ル

 慈しみ、仁愛を持って。思いやる気持ちがあるならば。

 思う気持ちが同じであれば、すぐにでも会うことができる。思いを伝える事ができる。

 晋祐とキヨは、互いの手を強く握りしめて。風が流れる空を、懐かしむようにいつまでも見上げていた。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


「大警視という身分でありながら、仁愛の心で、命の恩人である俺たちの御先祖様を助けるとか。もう……。そこのくだりが秀逸で! 泣けてくるんですよーッ」

 どれだけビールを煽ったのかは定かではないが。

 焼酎のお湯割りをグラスに注ぎ、親戚の伯父等にダル絡みをする長男・英祐を見て、佐伯康弘は目が点になる。

 妻方の遠縁にあたる女性の結婚式。

 鹿児島で行われる式に、佐伯一家は遠路はるばる東京から参列していた。

 子ども達は、幼少の頃に度々鹿児島に来ていたものの。康弘自身は、自身の結婚式以来のこと。

 妻方の御先祖様が残した古書にすっかりハマった英祐はというと。上野の西郷さんよろしく、目の大きな薩摩隼人達の輪にすっかり溶け込み。

 何があったかは不明だが。悟りをひらいたんじゃないか? と疑うレベルで、性格も容姿も別人並みにスタイリッシュになった次男・洋祐は、目鼻立ちのはっきりとした薩摩女子さつまおごじょに囲まれた上に、楽しそうに談笑している。

 長女の爽子に至っては「それ、花嫁さんより目立ってんじゃないのか?」とツッコみたくなるほどの大ぶりな柄が施された真っ赤な振袖を着て。若い男女の中心で呑気に、歯などだして笑っている。

 そういえば、爽子の衣装に関して英祐が事細かく指示をしていたのを、康弘は思い出した。

 何かのコスプレの一環なんだろうか?

 派手な衣装とは裏腹の。結えた爽子の黒髪に光る桃色の玉簪たまかんざしが控えめで、妙に艶っぽい。

 唯一の頼みであった妻・清香は、爽子までとはいかないものの。目の縁からはみ出そうな長いつけまつ毛に、見たこともないような空色の刺繍が施された黒留袖を着て、親戚の女性陣と談笑の真っ最中だ。

 コスプレ並みの化粧のせいか。普段の妻と、なんとなく違って見えてならない。  

 喋る相手もなく。身の置き所を失った康弘は、一人瓶ビールをグラスに注ぎ一気に煽った。

(しかし、あれだ。自分の結婚式より、ずっと普通だ)

 自らの結婚式にも拘らず、酒豪勢揃いな妻方の親戚からガンガンに飲まされ、「二度と鹿児島には行かない!」と豪語していたのだが。今思えば、何故か良い思い出に思えてくる。しかも、なかなかの良い式に、つい目頭までが熱くなった。

(きっと、これは。結婚式マジックだ)

 再び瓶ビールをグラスに注ぎ、もう一杯煽ろうとしていたその時。

 白髪頭をキチンと整えた小さな叔父が、マイク片手にひな壇へ登壇した。

(清香の親戚はお喋り好きが多いからな)

 自らの出生から生い立ち、現在に至るまでを延々と喋り続けた親戚がいたな、と。康弘はじんわりと思い出す。

 矍鑠かくしゃくとした叔父は、マイクの前で大きく息を吸うと、真剣な面持ちで口を開いた。

あきらさん、紗香さやかさん。本日は、誠におめでとうございます」

 普段はヒアリングが超難関と言われるほど、高度な鹿児島弁を操る叔父。

 しかし、今は〝唐芋からいも標準語〟を駆使して流暢に話す。

「紗香さんの血筋である有馬家は、大警視・川路利良と深い親交がありました。鹿児島県人は南洲翁の暗殺を企だてた、と川路大警視をよく思わぬ方々もいらっしゃると思います」

 今まで騒がしかった会場が、叔父の言葉にしん--と静まり返った。

 ついさっきまでダル絡みしていた英祐でさえ、背筋を伸ばして聞き入っている。

 康弘はため息を飲み込むと、手にしていたグラスを白いクロスが敷かれたテーブルの上に置いた。

「川路大警視は、日本警察の父として沢山の言葉を残してきました。かくいう私も、有馬家のしきたりとして、幼き頃より川路大警視の言葉を聞かされてまいりました。川路大警視の言葉で有名なのは、〝声なきを聞き、形なきを見る〟という言葉であります。しかし、私はこの言葉より遥かに好きな言葉があります。それは〝警察官の心は、人々を慈しみ、助けるということに尽きる。この心を以ってする警察権の発動も、また全て仁愛なのである〟警察官の心得として言われてはいますが、人々を慈しむこと。全ての行動に仁愛があるということは。警察官ならずとも通じるところがあるように思います。恐らく、ではありますが。川路大警視も慈しみ深い、暖かな人であったと推測します」

 叔父は、大きく息を吸う。

「晃さん、紗香さん。長く一緒に暮らせば、そのうち相手の厭な部分も見えてくると思います。その時は、今日のこの日の、慈しみと仁愛の気持ちを思い出してください。そうすれば、全てがうまくいく。私はそう思います。老い先も短い私の戯言ではございますが、晃さんと紗香さんの未来へ繋がる言葉として、送りたいと思います。晃さん、紗香さん。今日は本当におめでとうございます」

 叔父はマイクを置くと、深々と一礼した。

 静まり返った会場から、拍手が巻き起こる。康弘は辺りを見渡した。

 目頭をハンカチで拭う清香に爽子。

 真剣に叔父を見つめる洋祐と。

 幸せそうに笑い泣く、新郎新婦の姿に胸が熱くなった。

 のだが。

 その手前に、一人馬鹿でかい拍手をしながら号泣する英祐が視界に入る。

 その姿に一気に冷めてしまった康弘は、テーブルに置かれたビールを手にした。

(未来へ、繋ぐ……か)

 今まで、未来の事など考えもしなかった。

 現実に、今に追われ、目の前のことしか見えてなかった。康弘は、家族を見渡した。

 一緒に旅行なんて。これが初めてで、ひょっとしたら最後かもしれない。

 妻の実家から我が家へ来た古書が、家族全員の未来を変えたように。明治の志士が残した偉業や古書の影響力とはほど遠いが、未来へ繋がることを何か残したい。康弘は、そう思った。

 グラスに入ったままのビールを再びテーブルに置き、康弘は席を立った。

「なぁ、清香」

 いつもと違う雰囲気の妻に声をかける。

「どうしたの?」

 目を見開き首をかしげる清香の隣に、康弘は腰を下ろした。珍しく穏やかな表情をした康弘に、清香の疑問はさらに深くなる。

「休み、二、三日伸ばそうか」

「え?」

「お前の故郷を、みんなで巡りたくなったんだけど」

 康弘は照れたように頭を掻いて続けた。

「一緒に未来に繋がる思い出を、築きたくなったんだけど……どうだろうか?」



                   終

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