9-6 鉄血山を覆うて(5)

「南洲翁をお護りせぇ!!」

「私学校部隊は、何としてでん征討軍の動きを止めんかッ!!」

 砲弾や弾丸が空を引き裂く。

 一瞬、風にも似た音が耳をつんざくと、石垣や敷地内のあちらこちらで、大きな地鳴りがした。

 立っているのが困難なほどに。不安定な地面は足元を掬い、遠くで近くで断末魔が響く。

「行くぞッ!!」

 スナイドル銃と僅かな弾丸を抱えた晋祐は、短く声を発し気合と共に走り出した。

(最後まで、生きなければ! 最後の最後まで、守らなければ!)

 その思いだけで、疲労が蓄積した体を無意識に奮い立たせる。晋祐は後ろなど振り返らずに、一目散に走り出した。


 九月十九日。

 薩軍・河野主一郎と山野田一輔は、薩軍の使いとして、征討軍の川村純義海軍中の元へと出向いていた。

 表向きは今般の戦に係る挙兵の意を伝えるため。

 しかし、河野・山田両名は、秘密裏にある交渉を進めんとしていた。

 〝西郷隆盛の死を避けたい--〟

 私学校生も住民も、西郷隆盛という巨星に拠り所を求めている。

 英雄である西郷の命を失うことがあれば、途端に求心力を失うだろう。

 そこで親戚にあたる川村に、西郷の救命を求めたのだ。

 このことは西郷や桐野利秋には隠されてたと言われている。

 河野等が交渉を続ける中、西郷は二十二日「城山決死の檄」を出した。

『全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦つもりに候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也』

 降伏にも、自決にも応じない。

 薩軍はここ城山で、多くの犠牲を払った戦を決する事を表明したのだ。


 ドォーン、ドォーン、ドォーン--。

 九月二十四日、早朝。

 桜島の裾野から薄らと闇が溶けていくように、僅かな光な地平線に広がっていく。

 静寂と闇を裂くように。

 錦江湾に停泊する軍艦の砲台から、三発の砲声が響いた。

 静かな鹿児島の地に轟く音は、遠く離れた比志島まで届く。城山に近い新屋敷は危険だろう、と。晋祐がキヨを生家である比志島に帰したのだ。轟音に飛び起きたキヨは、慌てて庭へと飛び出した。大きくなりつつある下腹部に手を添える。海面が赤い明かりを反射し、怪しげに煌めく鹿児島湾を不安げに見つめる。

晋祐様しんすけさぁ……兄様あにさぁどうか、ご無事で」


「全軍、突撃ーッ!!」

 キヨが聞いた轟音は突撃の合図となり、征討軍が薄暗い道を一気に駆け上がり城山に攻め込む。

 とうとう総攻撃が始まったのだ。

 旧藩邸・鶴丸城と隣接する私学校の前に整列した征討軍の兵士は、銃を構え一斉に引き金を引いた。

 ダダダ……ダダダ!!

 暴風雨のように石垣や建物に、放たれた弾丸が叩きつけられる。

 予想はしていた征討軍の攻撃。

 しかしそれを上回る猛攻に、迎え撃つ薩軍が浮き足立った。

「征討軍が……! 征討軍が、仕掛けっきた!!」

「引んな!! 銃を構えッ!!迎え撃っどッ!!」

「銃が無かもんは、刀を持たんかッ!!」

 晋祐はスナイドル銃を粗悪な弾丸を抱えて、工房とは名ばかりの小屋から飛び出した。

 後方支援部隊は晋祐の後を追い、小屋から次々に駆け出す。

「あるだけの武器を配るんだ!! 早く」

 晋祐は走りながら、年若い私学校生等に叫んだ。

「分かいもした!!」

「俺は城山の方へ上がる!! 皆は武器を持たぬ者に!!」

「はい!!」

「……死ぬな! 皆、死ぬなよ!!」

「はい!!」

「行くぞッ!!」

 晋祐のその言葉が合図となり。銃を抱えた薩軍の志士が方々に散らばった。

 征討軍が放った弾丸は、五月雨のように後方から襲いくる。

 晋祐は歯を食いしばって、走る速度を上げた。

 鶴丸城の裏に回ると、持てる全ての力を持って西郷のいる洞穴へ急な上り坂を駆け上がる。

 西郷の側近である将士に持たせねば! 西郷を守る装備を持たせねば!

 その時、晋祐の視界に黒い人影が入ってきた。

「あれは……!?」

 白み出す空が、黒い人影の輪郭を際立たせ、一人ひとりの姿を浮かび上がらていく。

 西郷隆盛のいる城山の洞穴前。

 洞穴の入り口で静かに座す西郷がいた。

 その前に、村田新八をはじめする勇猛な将士等が目を閉じ整列している。

 晋祐は、思わず息を呑んで立ち止まった。

「いつでもよかんど。西郷様さいごうさぁおいどんたっに指示をくいやんせ」

 桐野利秋は、ゆっくりと目を開ける。そして、西郷を真っ直ぐに見て言った。

「俺も、いつでんよか」

 西郷は力強く桐野を見上げて立ち上がる。

「征討軍っ人達に、目に物をみせてやらんにゃいかんなぁ」

「最後に仕掛けっ返んな、薩摩ん二才にせじゃなかッ!」

「じゃっど(※ そうだ)!」

 西郷の言葉に呼応する様に、将士による鼓舞の声が響き渡った。

「チェストーッ!!」

 城山の木々を揺らし、洞穴を崩さんばかりに地面を鳴らす。生きるため、とは言っているのに。自分を奮い立たせる将士等からは、一つも未来への輝きを感じない。

 晋祐は抱えたスナイドル銃を、強く握りしめた。

(待ってくれ! 行くなッ!!)

 言葉が閊えてでてこない。胸が苦しい。これが生きている彼等の、最後の姿だと思った。

「うぉぉぉー!! チェストーッ!!」

 鼓舞した気合そのままに。刀をを手にした将士等は、岩崎口(現・鹿児島市城山町)へと真っ直ぐに駆け下りる。

「有馬殿、俺に銃をくれんな」

 将士の後をゆっくりと歩く西郷は、晋祐の抱える銃に手を伸ばした。

 その表情はあまりにも柔和で。未来を鼓舞した言葉を語っているのに、その表情からは未来の見えない。

 晋祐にはその姿が、あまりにも身勝手に思えたのだ。晋祐は西郷に詰め寄った。

「この戦はッ!! この戦は、正しかったのですか!? この戦で、鹿児島は何を得たのですか!? 教えて……教えてくださいッ!!」

「有馬先生! やめっくいやい!!」

 掴みかからんばかりに詰め寄る晋祐は、別府晋介に遮られる。それでも、晋祐は。西郷の口からその答えが聞きたかったのだ。

 西郷は、晋祐に向かって穏やかに笑った。

「そん答えは、其々それぞれん中にあいもんそ」

「それは答えに……なってない!! 貴殿を慕い信じてきた若二才が聞いたら、どう思うだろうか!? ちゃんと答えてください!!」

「じゃっどんなぁ……俺の答えと、有馬殿な答えはちごどが」

 西郷はため息をついて、晋祐を真っ直ぐに見つめた。

「しかっ、最後まで己に嘘をつかんこっは。真っ直ぐに馬鹿正直に〝生魂いっだましい〟を貫く事は。おいもおはんも一緒じゃなかどかい」

「ッ……!」

 そんな答えを、聞きたかった訳じゃない。

 それなのに。

 それが西郷の答え全てに思えてしまった。

 何も言うことができずに、晋祐は口をつぐんだ。西郷の柔和な表情の下には、得体の知れないほど大きな絶望や後悔が、渦巻いている。

 次第に大きくなる銃の発砲音を耳にしながら。西郷の、戦いの、鹿児島の終焉を。身にも心にも、深く感じていた。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


晋祐殿しんすけどんは、何処どけな……!」

 利良は焦燥していた。

 三発の砲声が轟く。突撃の合図と共に、利良は刃引きした剣を抜き、脇目も振らずに走り出した。

「大警視ッ!! 離れないでください!!」

 当然、藤田五郎が叫ぶ。利良はその制止を振り切るように、全力で走って薩軍に突っ込んで行った。

 薩軍など、征討軍など関係ない。

 利良は晋祐の事だけを考えて走っていた。

 優しく真っ直ぐ、一本木な性格の晋祐だ。

 一度決めた事は、最後まで諦めずに全うする。戦でも学問でも、決して中途半端では投げ出さないはずだ。

 この中に必ずいる! 

 切りかかってくる薩軍の志士を太刀を交わし、私学校の奥へと突入した。

「晋祐殿ーッ!! 返事をしぃくいやんせ!!」

 打ち込まれた弾丸が砂を巻き上げ、より一層視界を悪くする。利良は必死に目を凝らして、建物から建物へ走り回った。

「なんで、おらんとか……」

 いつの間にか、私学校の石垣の上に足がかかる。目の前には、城山と岩崎口の間にある谷が広がる。

 利良の踏んだ小石が、パラリと大きな口を開ける谷へと転がり落ちていった。焦燥が不安を煽る。

 厭な想像だけが頭をよぎり、その度に利良は頭を大きく振って想像をかき消した。

「チェストーッ!!」

 その時、背後から決死の声が聞こえた。砂埃の中から、一の太刀を構えた若二才が利良に向かって突進してくる。

 本能が背筋を一瞬で冷たくさせた。

(ちょっしもた(※ しまった)! 避け切るっどかい!)

 目の前の谷で逃げ場はない。利良は咄嗟に、体を低く丸めて地面を転がった。

 ザクッ--!! 

 紙一重。

 体制を崩して倒伏する利良の目と鼻の先。

 朝日を反射した若二才の白刃が、地面に深く突き刺さる。利良は若者に生じた一瞬の隙を見逃さなかった。

 勢いよく起き上がると、刀を抜こうと焦る若二才に飛びかかる。

「うわぁッ!!」

「有馬……! 有馬晋祐は、何処どけおっとな!!」

 若二才の華奢な体を薙ぎ倒し、地面に押さえつけた。馬乗りになった利良は、胸ぐらを押さえつけて詰問する。

だいどかい!!」

「早よ言わんかッ!!」

 抵抗し口をつぐむ若二才に、利良はさらに圧をかけてキツく迫った。

 兎に角、晋祐を探さなければ! 

 余裕すらない利良の気迫に気圧された若二才は、抵抗を緩め僅かに口を開く。

「……有馬、先生は、後方支援で」

「後方支援ちな!?」

「銃を持って走っじっきゃった」

「何処な! 何処、走っじったな!?」

「南洲翁ん所じゃろ」

「ッ!?」

 征討軍の目標は西郷隆盛の討ち取り。

 その最後に随行していれば、自ずと危険度も上がる。

 利良は激しく狼狽して舌打ちをした。

 利良に抑え込まれている若二才は、そんな利良の表情を見てニヤリと笑った。

おいどん達はいつでもけしん覚悟はできちょ! 俺だけじゃ無か! 南洲翁も村田隊長も桐野隊長も! 薩摩んためにけしん!」

けしんだら、何もできんどがッ!!」

 煽る若二才に、利良は感情を爆発させて叫んだ。

けしこっは、諦める事っちゃ! けしんだら、薩摩んために何もできんこっにないもんそ!! 生きてこそ! 何でも出来でくっち!! 何事ないごて、そげんこっも分からんかッ!」

 何故か視界が滲む。

 ぼやける若二才の姿が、晋祐の姿が重なった。利良は若二才を睨んで拳を握りしめる。

 ゴッ--!!

 振り上げた拳が、地面を抉った。利良は若二才を投げるように手を離すと、踵を返して走り出す。

--まだ、諦めたらいかん!! 晋祐殿に会うまは!! 諦められんッ!! 

 征討軍の弾丸を避け、薩軍の志士を薙ぎ倒し。

 一刻も猶予もない。刃引きした剣を投げ捨て、利良は私学校から岩崎口に抜ける坂を駆け上がった。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


桂殿かつらどん!!」

 薩軍の将士・村田新八が、悲鳴にも似た声を上げた。

 村田の前を走る桂久武が、被弾し地面に倒伏する。背の高い村田が、素早く身を小さくして桂を抱きおこした。

「桂殿!! 桂殿!!」

 村田の声に桂は応えることもなく、力を失ったその手から刀が地面に落ちる。

 カランと、乾いた音。

 村田の叫び声より、その音が異様に鮮明に晋祐の耳にこだました。

 いよいよ迫りつつある終焉。

 頭を金槌で殴られたような衝撃的な光景を目の当たりにし、思考が途切れてしまう。晋祐は意識を懸命に保ち、スナイドル銃に込められた弾丸を発射し応戦した。

「ゔぁぁッ!!」

「ぐぁッ!!」

 晋祐の応戦虚しく、前後左右から被弾し倒伏する者が続く。

(時間の問題だ……!!)

 晋祐が額の汗を拭いながら、そう思った瞬間。

「あいたッ! ちょっしもた(※ しまった)!」

 と、うめくような西郷の声を聞いた。

「西郷様! いかがされましたか!?」

「はは……撃たれっしもた」

 腹を抑え蹲る西郷の股と腹からポタリ、またポタリと赤い雫が地面に落ちる。

 --西郷が、被弾した!!

 晋祐は咄嗟にスナイドル銃を投げ捨て、今にも倒れそうな西郷の体を支えた。

「西郷様が!! 西郷様が、撃たれた!! 誰か!! 誰か援護を頼む!!」

「……有馬殿、もうよかが」

「え?」

 「よかが」って、何がもういいんだ!? 

 驚いて目を丸くする晋祐の腕を、西郷は振り払う。そして、今にも泣き出しそうな表情をした別府晋介に声をかけた。

晋殿しんどん、なぁ晋殿。もう、ここでよかろうごた……」

 無言で返事をしない別府の刀を握り、最後は穏やかな口調で続ける。

「俺が前から依頼しぃちょっこっを、今お願いしっせぇよかどかい」

 私学校で繰り広げられている銃声が、遥か頭上で響く中。

 岩崎谷にある大きな木の下に、西郷隆盛は静かに座した。襟を正し、抜き身の脇差しに自らの上着を置く。

 以前よりこうなることを想定していたのだろうか? 

 介錯を引き受けた別府は、刀を握りしめて咽び泣く。そんな別府を気に留めることなく。上半身の衣服を脱いだ西郷は、陽光差し込む東の方角へ手を合わせた。

 自らの命を絶つ決断をしたのだ。

「ちょっと待ってくれ! 西郷様! 西郷様は、諦めるんですか!? こんな所で、諦めるんですか!?」

 脇差しを奪い取らんばかりに食ってかかる晋祐を、桐野利秋が制する。

「諦めっとじゃなか! 奪われる前に、己がけじめを着くっとじゃが!!」

「潔く死ぬ事だけが、けじめではないだろう! まだ何か、手立てはあるはずだ!!」

「有馬殿。これは俺がけじめじゃ。俺に決めさせっくいやはんどかい」

 目を閉じ、遥拝した西郷は静かに言った。

 重い意志が込められたその言葉に。晋祐も黙らざるを得なかった。

 座す西郷を取り囲むように。唇を噛み締めた将士等が跪く。

 脇差しを握った西郷は短く息を吐くと、脇差しを己が体に押し付けた。呻き声すら上げずに。西郷は、ゆっくりと脇差しを動かしていく。

 その横で、西郷の最後の願いを託された別府は号泣していた。刀を上段に構え、邪念を振り払うように叫んだ。

「西郷様ーッ!! ごめんなったもんし(※ お許しください)ッ!!」

 一気に振り下ろされる一太刀。

 唸る刀が空を裂き、晋祐は思わず目を逸らしてしまった。

 --ッッッ!!

 聞くに堪えない、骨肉を断つ音。

 銃声など全く及ばないほど。

 全てが断ち切られた無念の音が、晋祐の耳にこだまする。

(やめろ……やめてくれ!!)

 食いしばった歯から血の味が滲み、行き場のない色々な感情が晋祐の体を強張らせた。

「……すぐに、おそばに行っもんで」

 小さな声で、隣にいた別府が呟いた。

 涙を流しながら一太刀を振るった別府は、そのまま弧を描き、己が刀を腹に深く突き刺した。体を貫通する刀からどす黒く赤い血が吹き出した。刀を抱えるように、俯き表情を見せない別府は地面に跪く。

「別府殿っ!!」

 晋祐が思わず叫んだその瞬間。西郷の切腹を見守っていた桐野をはじめとする将士が、一斉に立ち上がった。

俺達おいたっも、行っもんそ」

 桐野が抜刀し鞘を捨てて言った。

「西郷様のお側に、行っもんそ」

 村田が桐野の言葉に同調し鞘を捨てる。

 すると、他の将士等も次々と鞘を捨てた。一瞬の出来事、晋祐が「まさか!」と思った時には、もう手遅れだったのだ。

「チェストォォーッ!!」

 止める暇もない、突風のような勢いで。

 桐野利秋をはじめとする将士等は、各々叫びながら坂を一気に駆け上がる。

 振り返ることも、脇目を振ることもなく。

 彼等は再び、征討軍のいる岩崎口へと突撃していった。

 晋祐の視界から将士等の姿が小さくなり消えていく。瞬間、爆発にも似た大きな銃声が、谷の向こうから一斉に鳴り響いた。

 直に見なくとも、手に取るように状況がわかる。

 敵弾に倒伏する者。

 動けなくなり、自刃する者。

 刀を振るい、奮闘するも無数の刃に貫かれる者。

 瞬間、晋祐の体から力が抜けた。

 膝をつき天を仰ぐ。空はこんなにも、青く穏やかに凪いでいるのに。

 赤く染まる地上は命を奪い、何故こんなにも無情であるのか。

『何かを救い、何かを助くっ。何かを的確に見据え導く』

 利良が言った言葉が深く胸を抉る。

 結局、何もできなかった。

 西郷を思い止まらせることも。

 将士等を止めることも。

 自分が思うことをぶつけても、戦いの歯車を止めるどころか、人ひとりの命さえ救えない。助けられない。

 未来に、現実に。全てに絶望した晋祐には、もう。利良と描いた世界やキヨと夢見た未来など、最早もはやおとずれないのだと悟った。

 目の前に転がり動かなくなった西郷隆盛の器と、別府晋介の器に目を落とす。

(俺も、……)

 手中に何も残らなかった。

 ならば、せめて。

 薩摩の志士として、潔く在らねばならぬのではないか?  

 背筋を真っ直ぐに伸ばし、晋祐は徐に着物を脱いだ。

 そして、脇差しを鞘から抜き、その切っ先を己に向けた。

「利良殿、キヨさん……。俺を赦してくれ」

 目を閉じて、晋祐は切っ先を己に振り下ろす--!


 --ピクリとも動かぬ脇差しが、カタカタと小さく音を立てている。

 晋祐は驚いて、目を開けた。

「間に合い……もした」

 懐かしい、琵琶のように響きの良い声が、晋祐を包みこむ。

 驚くのも無理はない。

 晋祐が己に向けて振り上げた脇差しの柄をしかと握りしめ、あの日以来会うことのできなかった利良がそこにいた。

 震えるほどに柄を握りしめた手の力強さとは裏腹に、利良は心底安堵した表情で晋祐に見せる。

 途端に、強張った晋祐の手の力の抜けた。

 利良は脇差しを抜き取ると遠くへ放り投げる。

 そして、張り詰めた糸が切れたようにぼんやりと座り込む晋祐に、飛びつき抱きしめた。

「晋祐殿! 晋祐殿!!」

 声を振るわせ己が名を呼ぶ利良の声に、昂っていた感情が次第に落ち着きを取り戻す。

 晋祐は、利良の肩にそっと手を添えた。

「利良殿? どうして、ここに?」

「晋祐殿は、おいの命を救っくいやった。俺に新しい世界を見せっくいやった」

「利良殿、何を言って……」

「晋祐殿が俺の黎明。じゃっでん、晋祐殿ば未来を歩かんなならん。未来に進んじって、未来に繋いで伝えっ行く御人を。俺は……俺は、守らんなならんでなぁ」

「だからって……! 利良殿は、大警視だろ!!」

「良かしとぉ」

 晋祐は、のんびりと返事をする利良に面食らった。

 大警視という政府の要人であるにも拘らず、激戦のこの地に来るまで、決して平坦な道のりではなかったはずである。それを、たった一言「良かしとぉ」で片付けるとは。

 脳裏に過去の記憶が鮮明に浮かび上がり、晋祐の目からは涙が流れ落ちた。

 沢山の出来事に、何も手を尽くすことができなかった事。

 焦燥し、後悔に苛まれているのに。

 心の中が満たされて、無性に嬉しくなった。

 無意識に口角が上がる。晋祐は、空を仰いだ。

「未来に繋げよ、か」

 新世界を待ち侘びること。

 黎明を見ることに希望を持つこと。

 至極単純なことであったはずなのに、思惑は絡まった鎖のように自分達をがんじがらめにしていた。しかし今、その鎖が切れた。

 自由に、思う存分、頭上の空に羽ばたけるのだ。

 晋祐と利良は互いに顔を見合わせ、拳をぶつけた。言葉を交わさなくとも、互いの心が強く伝わる。

 決して下を向かず、前へと進むこと。

 昔、誓ったあの日の約束のように。

 今、胸に刻まれ疼く絶望や焦燥を、必ず乗り越えて新世界にいく、黎明を見ると。

 新たに誓う二人の重なる拳に、一条の陽光が差し込んだ。


 九月二十四日、午前九時。

 鹿児島の地に豪雨の如く鳴り響いていた銃声が止んだ。瞬間、征討軍・薩軍ともに大きな犠牲を払った戦い--日本の歴史に残る最も大きく、最も悲劇的な最後の内乱である『西南戦争』が幕を閉じたのだ。


 西南戦争による死者は、両軍共に六千人を超える。

 幕末期を支えた英雄を多く失い、この内乱による爪痕は深く、大きかった。

 私学校跡地の石垣には銃弾の激しさを物語る痕が、今もなお残っている。


 その後、二人は互いの人生を歩みだす。

 西南戦争終結後、晋介は鹿児島県出納役を担う傍ら、得意のフランス語の塾を開塾。また、近所の子ども等に示現流を教えた。キヨとの間には三人の子どもを授かる。鹿児島の地で、新たな世代に新たな黎明を導いた。

 一方、利良は大警視として数々の事件に着手し、大きな成果を上げる。しかし、遊学先のパリで突然病に臥し、そのまま回復することなく、早すぎる一生に幕を閉じた。

 利良が気づいた警察の黎明は、未来へと繋がっていく。

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