4-3 行雲流水(2)
「
鹿児島湾(※ 錦江湾)が一望できる畑でハスイモを収穫していたキヨが、悲鳴とも取れる声を上げた。
水田の雑草を取り除いていた利良は、弾かれるように走り出し鹿児島湾を見下ろす。
「……まさか、
「兄様……
不安げに鹿児島湾を見つめるキヨが、小さく利良の袖を掴んで言った。
「キヨ、
「兄様!」
「決して城下には行っもはんなち! 皆にそげん言ってくいやい!」
「兄様ぁ!!」
利良の異常な狼狽ぶりに、キヨの不安が叫び声となって放たれる。
利良は一目散に母家に走ると、部屋の奥に鎮座する刀を腰に挿した。そして、縁側に立てかけていた薩摩筒(※鉄砲)を握る。利良は稲妻の如き勢いで、脇目も振らず山道を一直線に下っていった。
「兄様ぁぁ!! 必ず、帰っきっくいやいなぁ!!」
キヨの声が、山道にこだまする。
利良はその声を胸にしかと納め、目の前に渦巻く激流に身を投じた。
「
「薩摩ん船の五倍は大きかど!」
「英吉利ん
「忠徳様が……久光様が、首を横に振らんはずはなか!」
「見いやんせ! 五隻が
天守閣を持たない
その真正面の
「利良殿!!」
騒然とした御楼門で、利良は自分の名を呼ぶ声にハッとする。
「晋祐殿!!」
「よかった! 人手が足りないところだった!」
「かなり、混乱しぃちょんな……」
「あぁ、
「……戦になるのも、時間の問題ごわすか」
利良はざわざわと渦巻く、胸の奥の気持ち悪さを感じた。
「全ての砲台にかなりの人員配置をしているから、城下の守衛兵が足りないんだ」
「分かい申した!
「助かる! 金子と帳簿を西田の千眼寺(現・鹿児島市常盤町)に運んだら、俺も守衛に加わるからな!」
「晋祐殿の
「今、荷物を纏めているところだ!」
「狭かどん、俺が家にでも避難しっくいやい!」
「利良殿、助かる!!」
そういうと、晋祐は険しい顔で鹿児島湾に視線を投げた。
「しかし……」
晋祐は言葉を途切らせ、下唇を噛んだ。
「それまで、薩摩の砲台が持つかどうか……」
当時のイギリス旗艦には、両舷側に自在砲を装備。艦隊に整備された砲の殆どが、最新式のものだと言われている。薩摩藩の砲台の能力を全て集約しても、その一砲にも匹敵するか否か、だ。
「神風でも吹かん限り、薩摩の不利は不動やっどなぁ」
利良の言葉に、晋祐は静かに頷いた。
錦江湾に浮かぶ巨大な旗艦。
薩摩の未来と自分達の命運が、大きな天秤にかけられているような。
言い知れぬ、そして未知の恐怖と高揚感。
それに触発されるように。
守るべきものが、幾多も現れては脳裏をよぎった。
気持ちが引き締まる。
〝自分がやらねば、誰一人守ることなどできないではないか!〟
利良と晋祐は視線を合わせると、互いの拳をぶつけた。
「チェストーッ!」
「チェストーッ!」
正直、イギリスも七隻もの旗艦で脅せば、幕府同様、薩摩藩もあっさりと屈すると踏んでいたに違いない。
錦江湾に入る前、イギリスは幕府から生麦事件の賠償金として、十万ポンドを受け取っている。日本を統治する幕府が、イギリスの底知れぬ武力にあっさりと平伏したのだ。幕末が直ぐに跪いた。薩摩などという一介の大名など取るに足らない、イギリスがそう思うのも当然である。
そう高を括り。イギリスは薩摩に、次の国書を突きつける。
〝生麦事件犯人の逮捕並びに処罰。賠償金として、二万五千ポンドを差し出せ!〟
しかし、国書に記されたイギリスの要求に、薩摩藩の出した答えは全て〝否〟だった。
それに腹を立てたイギリスは、重富の脇元浦(現・姶良市脇元沖)に薩摩の蒸気船の三隻を追い込み接舷した。この時、乗船していた五代友厚をはじめとする数名の捕虜を残して三隻もろとも奪取。
薩摩藩はイギリスのこの行為を盗賊行為とみなし、直後に全ての砲台に追討指示を発する。
これが、前の
--ドォォォン!!
地鳴りが足元を掬い、轟音が耳をつん裂く。
守衛兵として小坂通付近(現・鹿児島市上本町付近)にいた利良は、ゴクリと喉を鳴らした。
南の天保山砲台(現・鹿児島市天保山)方角から大きな旗艦に、一発の砲弾が打ち込まれたのを合図に、対岸の桜島側でも次々と砲台が火を吹くのが見て取れる。
(始まった……!)
利良は薩摩筒を握りしめると、大きく息を吸った
「まだ家に残っちゅう
逃げ惑う人の流れをかきわけ、利良は小坂通の家々を一軒づつ見回りながら、
その時、すれ違う女性が、よろけながら利良に縋りついた。
「お
「何ちな!」
「
女性は今にも泣きだしそうに、声を震わせて訴える。利良は女性の両肩に手を添えて、しかと視線を合わせた。
「歳は……歳は
「男子! 名前は
「鉄な! 分かいもうした! 俺が探しっくっで!」
「あいがとさげもす! あいがとさげもす!」
泣きながら頭を下げる女性を宥め、早く逃げるように促す。そして、利良は長屋が連なる通りを走り出した。
「鉄ーッ!!
利良が姿を消した子の名前を叫んだ、その時。間近に迫るイギリス旗艦の両側にある砲が、ぐるりと小坂通の方へと向く。
「ッ!?」
思わず息を止めた利良の目の前に迫る丸い筒。
同時に、砲が破裂する音が、波状に響いた。
地が鳴り、空気が震える。
ゆっくりと湾を進むイギリス旗艦『パーシュース』の一砲が、利良の方角めがけて火を吹いたのだ。
瞬間、強烈な爆風と痛みが利良を襲う。
耳が機能を失い、キーンと不快な音を立てた。同時に、体の大きな利良が宙に浮き上がる。風圧に逆らえず、堅い何かに全身を叩きつけられた。
一矢報いることもできない。
砲弾の圧倒的な威力にどうすることもできず、利良は意識が遠のくのを感じていた。
〝たすけて……たすけて〟
その時、利良は微かに稚児の声を聞いた気がした。
闇雲に手を伸ばそうとするも、利良の手に力など入らない。闇に飲まれていく意識下。沈む利良の心は、稚児の声を探し暗闇の中を必死にもがいていた。
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