7-1 有馬手記(7)
「ただいま」
縁側から差し込む西陽に目を細めて、佐伯康弘はリビングに入った。
「あら! 今日はめちゃくちゃ早かったのね、お父さん!」
キッチンから妻・清香の快活な声が響く。
ネクタイを緩め室内を見渡すと、テレビの前では、大きくなりすぎた感が否めない三人の子ども達が肩をぶつけ合いながらゲームをしていた。
今日は、なんとなく早く帰りたかった。
いつもは終電ギリギリまで打ち合わせを重ねて、日付がかわる頃に帰宅している。
でも、どういうわけか、今日はどうしても早く帰りたかったのだ。
机に平積みされた書類をそのままに、康弘は言った。
「長男が来てるんだ。悪いけど先帰る」
電気もいらないほど、室内が物理的にも心理的にも明るいリビングに帰るなんて。一体、いつぶりだろうか。
生活音や賑やかな声が家いっぱいに響いているなんて、幻じゃないだろうか。
康弘はネクタイを外し肩にかけると、体を一気にソファーに預けた。グンと沈むクッションの上で、長男である英祐が没頭して読んでいる古書が小さく浮き上がる。
康弘は、何気なく古書を手にした。
「英祐ー」
「何ー?」
気の抜けた康弘の声に、ゲームに夢中の英祐は生返事で答えた。
「これ、面白いか?」
「うん。久しぶりにやったらはまっちゃってさー」
「ゲームじゃねぇよ」
「え?」
「本だよ、本! 古本!」
「あぁ! 面白いよ。今、クライマックスに近づいてる所だから!」
「クライマックスって……手記にクライマックスってあんのかよ」
「クライマックスは、ゲームだって」
「……」
まるで、
空気や風のようにすりぬけていく、みたいな。
康弘は、佐伯家内での自分の立場のなるんたるかを見せつけられた気がした。
仕方がない、といえばそのとおりである。
家庭を顧みず、仕事しかしてこなかった自分が撒いた種だ。いつもの康弘なら、ここですごすごと引き下がり缶ビールで紛らわすのだが。
今日の康弘は、少し違った。
家族との距離を埋めるべく、長い通勤時間で予習した知識を英祐に投げつけた。
「英祐ー」
「何ー?」
「フランスに派遣された川路利良がやらかしたことって、知ってっか?」
(どうだ!? 今すぐゲームの手を止めて「え? 何? お父さんすごい事知ってんの?」と、好奇心溢れる目をして振り返れ! 英祐!)
康弘は、チラチラと英祐を見ながら古書を捲る。
「あー、あれでしょ? 新聞に包んだ自分のハイセツブツを投げたヤツだろ?」
康弘が期待した反応とはほど遠い。
康弘を振り返ることもく、英祐は相変わらず抑揚のない声で言い放った。
康弘が懸命に予習してきた情報を、
「……」
「結構有名でしょ? それにさ、その手記にも書いてあったし」
「え?」
「川路利良が、ひいひい爺さんに手紙書いててさ。ご先祖様もご丁寧に、その事を詳細に書いてんだよ」
「……マジかよ」
康弘は無造作に扱っていた古書を、丁寧にソファーの上に置いた。
(ひょっとして、思った以上に歴史的価値があるんじゃないのか!?)
康弘は無意識に顔を強ばらせる。英祐はゲーム機のコントローラーを弟に渡すと、チラッと康弘に視線をなげた。
「自分の失態、ちゅーかスゲェことを手紙で報告するって、なんちゅー心臓なんだよ! って感じなんだけどさ。それだけ、ひいひい爺さんは川路利良に信頼されてたんだなぁって思ったよ」
片手で抱き上げられるほど小さかった我が子が、いつの間にか自分より背も高くなって、自分の上を行く解答をする。
一念発起して、付け焼き刃で努力したとしても。自分が放置してきた貴重な時間は、通勤時間のちょっとやそっとの時間じゃ埋められないことを痛感した。
ふと目を落とした先にある己の手に刻まれた老いに、無視し続けた時間の重さがズシッとのしかかる。
「でも、すごいね。父さん」
「へ?」
打ちひしがれて黙り込む康弘にかけられた、英祐の意外な言葉。
康弘は、思わず変な声をあげた。
「父さんも、その古書に興味わいた?」
「え? あ、あぁ!」
英祐が、含みのある笑顔を康弘に向ける。康弘は、ほぼ反射的に英祐と同じ笑顔を作った。
「しかしさぁ、父さん」
「何だよ」
「話題作りにそのチョイスって……。父さんもそんな経験あるの?」
「え?」
「ハイセツブツ投げたり、とか?」
ニヤニヤと笑って康弘の様子を伺う英祐に、康弘は思わず声を詰まらせた。
「ある訳ねぇだろ!!」
恥ずかしさとやるせ無さを薙ぎ払うように、康弘はわざと大きな声で反論する。
それでも康弘の気持ちは軽かった。
自分から歩み寄ることをしなかった。しかし今からでも、歩み寄る努力をすることは、なんら遅いことはないのだ。
残りの人生で、あとどれくらい。家族全員がこの家に集まれるんだろうか? あとどれくらい、一緒にいられるんだろうか?
ならば、努力は惜しまないことだ。
「ほら、ご飯できたわよ! ゲームやめてちょうだい!」
甘い醤油の匂いと同時に、清香の声が部屋中に広がり満たしていく。康弘は大きく息を吸い込んだ。
(あぁ、これは……)
「〝とんこつ〟か?」
「そう! 大根が安かったからね。久しぶりに作ってみたのよ」
康弘の呟きに、清香はニコニコと上機嫌に言った。
「鹿児島の料理で、俺が好きなヤツだ」
仕事ばかりで、一人家族の流れる時間に乗れなかった自分がいて。卑屈にも格好をつけて孤高の戦士を気取っていた康弘に対し、何も言わずに寄り添い待っていてくれたのは、他ならぬ家族という存在で。
康弘は改めて思い知らせた。
「年とったなぁ、俺も」
「今それ? 子ども達もあんなに大きくなってるのよ? 当たり前じゃない!」
明るく言い放つ清香の言葉に、康弘は思わず苦笑いをする。
これからは、多少なりとも早く帰るようにしなければ。
康弘はソファーから立ち上がると、忙しく動き回る清香に言った。
「なぁ、明日さ。駅前のイタリアンに皆で、飯食いに行かないか?」
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