星屑たちの夢語り

イツキ

忌み姫トゥーラと星空の子

忌み姫トゥーラと星空の子-1

 暖かな雫が、頬を伝う。微かな熱を持ったまま輪郭を滑り、涙は爪先に滴り落ちた。流れた跡はすぐに冷たく乾いてしまって、その引きつったような感触が不快でまた涙腺が緩む。そんなことを何度も繰り返しながら、トゥーラは暗闇の中を歩いていた。手探りで壁に寄り掛かり、時折躓きながら前へ進む。手のひらに感じる凹凸は、確かに自分の部屋に繋がる廊下で間違いないはずだった。他の人間が行くなら大した距離ではないだろうが、トゥーラには酷く遠くに感じられる。早く、帰りたい――その一心で、トゥーラは歩き続けた。帰ったところで、心安らぐ場所というわけではなかったけれど。

 手が冷ややかな金属の感触を感じ取る。扉の取っ手だった。苦労してようやくそこを開くと、トゥーラは崩れ落ちるように中へ滑り込んだ。剥き出しの手足が、硬い床に叩きつけられる。

「……いたい。さむい」

 もう冬も近いというのに、トゥーラはろくに暖を取ることも許されなかった。暖炉の火どころか、まともなガウンさえ与えられていない。ほとんど肌着のような薄着のまま、身体にシーツを巻きつけて耐えるしかなかった。

 重く気怠い身体を叱咤し、トゥーラは這う這うの体でベッドまで辿り着いた。質素で、まともに調度品も揃ってない部屋だったが、障害物が少ないところだけは助かっている。

『トゥーラ、泣いてるの?』

 いつものようにベッドの上で丸くなると、不意に耳元で声が聞えた。どこか舌足らずな、幼い男の子の声だった。部屋の中にはトゥーラ一人。誰かが待っていたわけでも、追ってきた人がいるわけでもない。これが城の中の誰の声でもないことを、トゥーラは既に知っていた。

『可哀想に。トゥーラは何も悪くないのにねぇ』

 今度はしわがれた老婆の声が言った。穏やかな慰めに、一度は止まったと思った涙が再び溢れ出る。

「あの人、うそつき。神官さまなのに、うそつきなのよ」

 嗚咽混じりに、トゥーラは自分が受けた理不尽を訴えた。城に仕える神官は、空に還った人々と地上を繋ぐ不思議な力があると言われている。しかし、彼らの言うことの九割は作り話だ。あの神官たちに、星の声は聞こえていない。

「勉強の時間中に、神官さまが明日はよく晴れるって星々のお告げがあったって言うの。それはおかしいって言ったら叩かれた。でもみんなは雨が降るって言ってたって話したら、もっと叩かれた!」

 頬を押さえながら、トゥーラは切々と言葉を吐き出す。痛みは大分引いていたが、まだ痺れたような感覚が残っていた。

 トゥーラの周りの大人はいつもそうだ。本当のことを言っているだけなのに、トゥーラを詰(なじ)り、傷つけ、無視をする。嘘を吐いているのは自分なのに、トゥーラの方を嘘吐きに仕立て上げるのだ。トゥーラが聞いている声は幻聴なのだと、誰しもが口を揃えて非難する。父も母も、兄弟たちもそうだった。自分たちには理解出来ないから、トゥーラが人と違うから――それだけで、トゥーラの存在を踏みにじった。誰が言い出したのか、人々はトゥーラを〈忌み姫〉と呼んだ。まだ幼いトゥーラでも、それが良い意味でないことくらいは分かる。

『何も悲しむ必要はないわ。あの人たちはトゥーラが特別な子だから妬んでいるのよ。星の声が聞こえる人なんて、滅多にいないもの』

 若い女の声だった。彼らは自分たちのことを星だと言う。首を傾げていたトゥーラに、空へ還った人たちの魂だよ、と教えてくれたのは溌溂とした青年の声だった。地上で命を終えた人々の魂は空に還って星となり、次の生を待っている。その輝きが、星の光なのだという。

 生憎と自分の目で星を見ることは叶わないトゥーラだったが、自然とその話を受け入れていた。というより、話の真偽はどうでもよかったのかもしれない。なにせ星の声を名乗る彼らは、トゥーラにとって唯一の友と言える存在だったのだ。それに、彼らは不思議な力を持っていた。遠くの出来事を予見したり、トゥーラを寒さから守ってくれたりした。ただ、それをトゥーラが口にすることで大人たちの態度が悪化したのは、皮肉だったかもしれない。

 一度、あまりの辛さになぜ助けてくれないのかと彼等に訴えたことがある。その不思議な力があるなら、嘘吐きな大人を懲らしめるくらい簡単なはずだ、と。しかし星たちは頷かなった。強い力があるからこそ、それで人を傷つけることは大罪なのだ。決してあってはならないことである、と諭されたのを覚えている。痛いのはトゥーラの方なのに、と不満もあったが、それ以上はどうしようもなかった。

「どうして、私が叩かれなきゃいけないの……」

 それでも、星々はトゥーラを慰めてくれたし、大切にしてくれているとは思う。だが暴力がなくなるわけではない。それにたとえ手を上げられなくても、トゥーラはたくさんの言葉で殴られた。気味が悪い。不吉の象徴だ。生まれてこなければよかったのに――気を抜けば、投げつけられた罵倒が頭の中で渦を巻く。こんな時は彼らの声でさえ聞いているのが辛かった。もう、涙と鼻水に息を詰まらせながら眠ってしまうしかない。

『トゥーラ、眠るの?』

 そう尋ねてきたのは誰の声だっただろうか。何も聞こえていないふりをして、硬く目を閉じる。世界には自分一人しかいなくて、辛かったのも痛かったのもすべて妄想なのだ――そう自己暗示をかけることが、眠る前のトゥーラの儀式だった。見計らったように、暖かい空気がトゥーラを包む。星たちの力だ。

『おやすみ、トゥーラ。大丈夫、僕は絶対にトゥーラの味方だからね』

 どこか必死さを感じる調子で訴える声は、部屋で最初に話しかけてきた男の子だった。無数に存在するとも感じる星の声の中で、彼だけは常にトゥーラの傍にいるように感じた。姿が見えないから想像でしかないが、星たちの中では一番トゥーラと歳が近いようだからそれで懐かれているのかもしれない。彼は返事が無いことを知っていて、それでも毎晩同じ台詞を繰り返す。

『今は無理だけど、きっと君を守れるようになるからね。ずっと一緒にいる。約束だよ』

 ずっと味方だよ、一緒にいるよ――その言葉を聞き届けて、トゥーラもようやく眠りにつけるのだった。

 翌日は、やはり雨が降っていた。

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