忌み姫トゥーラと星空の子-3

 アディルが世話をするという人が村へやって来たのは、カストルの話通りちょうど一週間後の午後のことだった。記念すべきアディルの初仕事の日である。なんでもその人物は病弱な姫君で、村へは療養する目的でやって来るらしい。歳は十四。アディルより少し年上だ。結局アディルが今日までに得られた情報はそれくらいなものだったが、実際に会えば人となりも分かるだろう。姫、と称されるからには貴族の中でも余程身分の高い人に違いない。もしかすると、本当に王城のお姫様なんてことも有り得るだろうか。村の中を歩きながら、アディルは空想に胸を躍らせていた。最初は不安もあったが、今は楽しみの方が大きい。本来なら出会うことのない人と話せる機会だ。上手く仲良く出来るといいのだが――。

 考えているうちに危うく商店の前を通り過ぎそうになり、アディルは何歩か引き返した。昨日のうちに準備が間に合わなかった、姫が使う日用品のいくつかを受け取らなければならないのだ。あとは、今日の分の食事を詰めた籠もである。これを届けることが、ひとまずのアディルの仕事だった。

 店の入り口を潜ると、そこにいたのは豪気な店主ではなく妻のミラだった。彼女はアディルの姿を認めると、あからさまに顔をしかめる。

「なんだ、アディル。今日は忙しいんだ。用事があるなら今度にしておくれ」

 落ち着きなく身体を揺すりながら、彼女は野良犬を追い払うかのようにしっし、と手を振った。店主であるイザールはそれほどでもないが、ミラはアディルを毛嫌いしている。こちらを馬鹿にしたような態度を不快に感じないわけではないが、余所者を厭う風潮を鑑みれば仕方ないとも思っていた。ただ、仕事に支障が出るのは困る。用件も聞かずに追い返そうとはどういう了見なのか。ミラがその気なら、アディルにも考えがある。

 彼女の身体の向こうに目的の荷物があるのを確認すると、アディルは懐から封筒を取り出しミラに押し付けた。姫の世話を村に依頼する旨の手紙である。都から村長のもとに送られ、そして仕事の説明に際してカストルとアディルの手に渡ったものだ。封蝋には複雑で優美な印が押されている。店の夫妻も字が読めなかったはずだが、これがなんなのかくらいは分かるだろう。なにせ、羊皮紙などという高級品を使う人は村にいないだろうから。

「……まさか、湖の塔に奉仕に行くのはあんたなのかい?」

 手紙を見たミラが、怪訝な顔で問い掛ける。こちらの意図は正しく伝わったらしい。アディルは肯定の意を込めて大きく頷いた。ミラは額を覆い、信じられない、などと呟いていたようだったが、やがて得心がいったように手を打った。

「ああ、でもあんたなら余計なこと言いたくても言えないだろうし、最悪何かあってもどうとでも出来るしね。正しい人選だ。ほら、早く持っていきな」

 先ほどとは打って変わって、ミラは荷物をまとめ急かすようにしてアディルに手渡した。その瞬間、彼女の口元がせせら笑うように歪む。しかしアディルはその不快な笑みも棘のある言葉も気付かなかった振りをして、早々に店を後にした。別段ミラに好かれたいとは思っていないし、あれくらい慣れている。村人から自分の生い立ちや抱えた障害を揶揄されることはままあった。

 ――アディルには、ハダル村に来るまでの記憶がない。一年ほど前、〈夜の森〉で薬草を集めていたカストルに赤子同然の状態で拾われた。以来、彼に養われ村で生活している。それだけでも異物として嫌われるには十分な条件だが、更にアディルは口を利くことができなかった。言葉が分からないわけではないのだが、話そうとすると喉の奥に蓋がされてしまったように声が出ないのだ。カストルも手を尽くしてくれたのだが、回復の兆しは未だに無い。何を言ってもアディルが言い返せないと分かると、人々は無邪気にアディルを侮辱し始めた。救いだったのは、カストルが絶対的なアディルの味方だったことである。彼らに構うことはない、賢く優しい星空の子――そう言って、声が出ない代わりに文字を教えてくれた。薬草の知識や、生活の知恵も彼が与えてくれたものだ。何があってもカストルがいてくれた。だからアディルも何とか村の中で暮らしていけるし、いまさら嫌味や陰口の一つや二つどうということはない。

 気を取り直して、アディルは再び道行を急ぎ始めた。目指すは村の外れ、湖の塔である。




 ハダル村から少し西、民家の群れから離れた小さな湖の畔には、細長い塔が建っていた。昔は美しい鐘の音が村に時を知らせていたらしいが、老朽化に伴い今は村の中の鐘楼に役目を譲っている。今では寄り付く人間もほとんどいない寂れた場所だ。ただ空気はどこよりも澄んでいて、周りの世界から切り離されたように静かだから、療養にはいいのかもしれない。アディルはそんな風に考えていた。姫、と呼ばれるような身分の人が暮らすような場所ではないと思うのだが、ここがいいと言うのだからおおよそそんな事情なのだろう。

 アディルが塔に着くと、意外にも辺りは静まり返っていた。聞こえるのは風と木の葉のざわめき、湖にさざ波が立つ音。あとは時々鳥が鳴いているくらいだろうか。姫という呼称からお付きの使用人や護衛がたくさんいて、今日ばかりは塔の周りも騒がしいのでは――と予想していたのだが、全くもって常と変わらぬ湖の塔だった。壁には好き勝手に蔦が這い、欠けた階段も修繕されていない。本当にここに姫がいるのだろうか。重く閉ざされた鉄扉を前に、アディルは首を捻った。しかし塔を見上げていても答えは降ってこない。なんにせよ中に入れば分かることだと、アディルは細い手で扉を押し開いた。

 入った先は意外と広く、倉庫のように木箱やら袋やらが高々と積まれていた。姫の荷物だろうか、と思ったが、埃を被っているので以前からあるもののようだ。人の気配は無い。代わりに、階段の周りの荷物を動かした跡を見つけた。よく見るとうっすらと足跡がある。上の階へ向かったようだ。アディルはそれを追ってみることにした。

 壁沿いにある急勾配の階段は、なかなか手強い相手だった。幅が狭く体重がかけづらいことに加えて、今日は荷物が多い。お世辞にも体力があると言えないアディルにはかなり堪えた。苦労したわりには二階でも人は見つからず、うんざりしながらもアディルは更に上を目指した。結局は最上階まで登り切り、最後の一段を踏んだのとほぼ同時にアディルは荷物を床に落とし倒れ込む。息が苦しい。足が痛い。これから毎日この階段を上らなければいけないのだろうか。あまりにも憂鬱だ。しかし苦労の甲斐あってか、ここになってようやくアディルに声を掛ける者がいた。

「……誰?」

 警戒心も露わな誰何の声に、アディルは慌てて顔を上げた。疲労のあまり忘れかけていたが、アディルは自分が仕える相手の居場所を探していたのである。

 声の主は、雪の色をした少女だった。白く長い髪、薄く血管の透ける肌。瞳は淡い銀色のようで、これも白に近かった。細く頼りない身体には村人と変わらない質素な服を纏い、小さく壁を切り取った窓の傍で腰掛けていた。彼女が姫、だろうか。

「誰か、と訊いているのよ。答えなさい」

 少女は眉を顰め、語気を強めた。アディルはあたふたと足をもつれさせながら立ち上がると、謝罪の意を込めて頭を下げた。この尊大な態度は間違いなさそうだ。しかし、彼女は村の者が仕えることを知らなかったのだろうか。知っていれば、いちいち尋ねなくても予想が付きそうなものだが。そんな疑問が浮かんだが、それを確かめる前にアディルは姫の様子がおかしいことに気が付いた。

「また、そうやって、私をからかって」

 ぎり、と歯を食いしばる音がアディルにまで聞こえてきそうだった。いったい何の話なのか、と疑問に思った瞬間、姫の癇癪が爆発した。

「何とか言ったらどうなの!? いつも私を邪魔者扱いした挙句に追い出して、これ以上まだ私を侮辱する気――!」

 叫びながら、姫は立ち上がろうとした。アディルに詰め寄ろうとしたのだろうか。しかし身をよじった瞬間、元からがたついていたのであろう椅子が急激に傾き、彼女は音を立てて床に投げ出された。咄嗟に助け起こそうとして近寄るアディルだったが、その手はがむしゃらに暴れる姫に弾かれてしまった。

「嫌よ、触らないで! 触らないでったら!」

 あまりの剣幕に一歩後ろへ退くと、姫は呼吸すら整えず辺りをまさぐり始めた。何かを探すように床を手でなぞり、倒れた椅子を押しのける。その動作は酷く緩慢で、このままではいつ立ち上がれるのかと疑問なほどだった。

 一連の仕草で、アディルはとある仮定に行き着いた。もしや、彼女は目が見えないのではないだろうか。突然現れたアディルが何も言わないものだから、怖くなって暴れたのかもしれない。真っ暗闇でいきなり知らない人間に手を掴まれたら、誰だって恐ろしい。

 しかし、これは困ったことになった。なにせアディルは喋れないのだ。彼女に声を掛けて不安を取り除いてやることは出来ない。迷った末に、アディルは再び姫の傍へ近寄り、驚かせないよう出来るだけそっと手を取った。

「なにするの、離して!」

 案の定姫はアディルから逃れようともがいたが、力を込めてどうにかそれを押しとどめた。彼女の右手を両手で包み、大丈夫、と言うように何度もさする。するとこちらの意図が伝わったのか、姫は少しばかり落ち着きを取り戻したように見えた。少なくとも相手が非力な子供の手をしていることには気付いたはずだ。アディルは姫の手のひらを自分の方に向けると、そこにゆっくりと指で文字を書いた。

『お姫様は、目が見えないのですか?』

 姫が微かに首を傾げる。伝わっているだろうか。

『驚かせてしまってすみません。僕は村長からあなたの身の回りのお世話をするよう言い付かってきた者です』

 続けて文字を書くが、姫は訝しげな表情を崩さない。そこでふと、アディルは思い至る。目が見えないならば、字を読むこともない。こんな風に書いたとしても彼女には分からないのではないだろうか。いよいよ手詰まりか、と頭を抱えかけたアディルだったが、その心配は必要ないものだった。

「馬鹿にしないで。文字くらい分かるわ……時間が、掛かるだけで」

 思考を読まれたかのような言葉に、アディルは顔を上げた。剣呑な視線で、姫がアディルを睨みつける。見えていないのだから、正確にはそれと似た仕草、というべきだろうか。

「……お前、口が利けないの」

 事情を理解したらしい姫の言葉に、安堵したアディルは何度も頷いた。だがこれでは彼女には伝わらないことを思い出し、慌てて手のひらに文字を綴る。

『そうです。ご不便をおかけすることもあるかもしれませんが、精一杯お仕えさせて頂きます』

 アディルなりに誠意を込めて語りかけたつもりだった。しかし彼女の反応は依然として鈍く、表情も固い。

『軽食をお持ちしたんです。パンとイチジクですが、召し上がりますか?』

 姫は押し黙ったままだったが、とりあえずは役目を果たそうとアディルは提案した。都からは長旅であっただろうし、腹も空いていることだろう。食事の入った籠を姫に触れさせてから、テーブルに導くために手を握る。しかし、それは次の瞬間それは振り払われてしまった。

「……勝手に食べるから置いておいて。用が済んだなら帰ってちょうだい」

 無愛想に吐き捨てると、姫はアディルから顔を背けた。そうは言うものの、彼女は未だ床に座り込んだままだ。慣れない場所では歩くこともままならないのでは、と再び手を伸ばしかけたアディルだったが、それが届く前に姫は声を荒げ拒絶を示した。

「平気だって言ってるのよ、自分で出来るわ! 放っておいて、早く帰ってよ!」

 悲痛なほどの叫びを発し、姫は蹲り膝に顔を埋めてしまった。僅かに覗く横顔からは戸惑いと怯えと、微かな憤り――そんなものが垣間見えた気がした。頑なに心を閉ざし、誰の手も取ろうとしない。そんな彼女にどうすることも出来ず、今のアディルにはそっと立ち去る以外の選択肢を見つけることが出来なかった。

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