忌み姫トゥーラと星空の子-8

 ぱきり、と薪の爆ぜる音が聞こえた気がした。鉛のように重たい瞼を緩慢に持ち上げると、目に映ったのは暖炉のぼやけた明かりだった。自分は、どうしたのだったか。記憶にかかった靄を払おうと身動ぎすると、全身に激痛が走る。何事かと驚いて身体のあちこちを触って確かめると、左半身を中心に包帯が巻かれているようだった。膏薬独特の鼻につくにおいもする。どこでこんな大怪我をしたのだったか。

「……ああ。アディル、目が覚めたか」

 すぐ傍から、カストルの声がした。アディルが横になっているのは、自宅のカストルの部屋らしい。落ち着いて見てみれば、ベッドの上にも近くのテーブルの上にも彼の仕事道具が散らかっている。治療に都合が良かったのだろう。アディルの顔を覗き込んだカストルは、落ち着きなく辺りを確かめようとする身体をそっとベッドに押し付けた。

「あまり動くな。酷い火傷なんだ。特に左腕は……」

 言われて、この痛みの正体が火傷なのだと知る。カストルが言い淀んだ左手に意識を向けてみると、ほとんど自分の力で動かすことが出来なかった。感覚も鈍い。厳重に包帯で保護されているが、その下がどんな状態なのかは想像に難くなかった。傷が癒えたとしても、後遺症が残るかもしれない。その事実を、アディルは淡々と受け止めていた。まだ夢を見ているようで現実味がない。しかし、次にカストルが発した言葉をきっかけに、アディルの意識は一気に覚醒した。

「何があったか覚えているか? 彼女……〈忌み姫〉がしたことを」

 忌み姫。火傷。悲鳴と涙――断片的だった記憶が合わさり、次々と鮮明な場面が蘇った。星の力を込めたお守り、交わした約束。脳が焼き切れそうなほどに、目まぐるしく過去の情景が駆け巡る。守ると言っていたのに。ずっと彼女の傍にいたのに。なぜこんなことになるまで忘れていたのだろう。これまでの自分を殴ってやりたかった。ようやく、全て思い出した――本当に、全て。

 トゥーラを探さなくては。自分だけこんな場所で寝ているわけにはいかない。重たい身体を起そうともがくと、カストルが咎めるような口調で制止した。

「よしなさい。納得出来ないのは分かるが、イザールはお前まで巻き込まれないように庇ったんだ。それに、経緯がどうであれ、彼女があの場にいた人たちを傷つけたのは事実だ。その分の罰は受けなければならないだろう」

 アディルは頭を振った。カストルが言いたいことは分かる。だが、今はそんなことは問題ではない。傍にいると約束したのに離れてしまった。大事なのは、そこだ。

「トゥーラは、どこ?」

 彼女の名前を口にした瞬間、カストルが息を呑んだ。久方振りに紡ぐ言葉はあまりに掠れていて、あの光は喉をも焼いたのだと知る。しかし声を取り戻したのはあの花に込められた力に触れたせいだろうから、多分これで良かったのだ。

「アディル、声が」

「おしえて」

 カストルが驚くのは自明の理だったが、彼と話してばかりもいられない。答えを急かすと、カストルは諦めたように息を吐いた。

「〈夜の森〉の方へ逃げたそうだ。今、村の男たちが探してる」

 聞き終えるかどうかというところで、アディルはシーツを引き剥がしベッドから転がり落ちた。冬の夜に森に逃げ込むなんて、放っておいたらトゥーラが凍えてしまう。気力を振り絞って身体を起こし顔を上げると、眉を顰めたカストルと目が合った。

「……まさか、探しに行くつもりか? とても動ける怪我じゃない。無理をしたら」

「――死んでしまう?」

 言わんとしていたことを先取りすると、カストルは険しい表情を崩さぬまま口を噤んだ。彼に申し訳ないという気持ちが無いわけではない。自分の身を案じてくれていることくらい分かっている。息子として過ごした期間は決して長くはなかったが、彼は優しい父だった。

「わかってるよ。でも僕は、あの子のために落ちてきたから」

 そう告げるとカストルは目を見張り、溜息と共に片手で顔を覆い隠した。何も言わないということは全てを理解したか、もしくは初めから知っていたのだろう。アディルが拾われたのが、星が落ちるという森だったのは必然だったのだ、と。あの日、地に落ちる瞬間の声にならない叫びを聞きつけたのはカストルだったのだ。トゥーラほどではないのかもしれないが、彼も星の声を聞く人なのだと今なら分かる。だからこそ彼は、アディルにトゥーラの世話を任せてくれたのかもしれない。

 覚束ない足取りで立ち上がる。ふらつきはするが、歩けないことはなさそうだ。今度はカストルも止めようとしなかった。代わりに、大きなぬくもりがアディルを包む。

「……行っておいで、星空の子。出来れば付いて行きたいところだが」

 不要だ、と首を振ると、既に答えは分かっていたのかカストルは苦笑するだけだった。その背中をどうにか自由になる右手で抱き返す。

「……ありがとう、父さん。拾ってくれたのが、あなたでよかった」

 ひとしきり別れを惜しんだ後、アディルは適当な上着を着込んで〈夜の森〉へと歩き出した。すっかり暗くなったハダル村の上空には、皮肉なほどの星空が広がっていた。




 彼らの声に応えなくなったのは、いつ頃からだっただろうか。疎まれ、蔑まれ、忌むべきものと言われ続けて――やがてトゥーラは、沈黙と聞かぬふりを覚えた。虚言癖と罵られるから星々はいないものとして、浴びせられる暴言と暴力に悲鳴を上げなくなった。父や母が愛してくれという期待も捨てた。拒絶される前に拒絶してしまえば、傷つくのも最低限で済む。やがてそんなトゥーラを、周囲の人々はいないものとして扱うことにしたようだった。それでも結局は近くに置いておくことすら耐えかねたようで、こんな辺境に追いやられてしまったけれど。

 だが、ハダル村に来たことは僥倖でさえあったかもしれない。思いがけない出会いもあったし、人目を憚らず再び星々と会話することも出来た。一年以上も無視して来たにも関わらず、彼らはと以前と同じようにトゥーラを受け入れてくれた。少しだけ力を貸してもらって暖を取ったり、特別なお守りを作ったりと、昔より親密に感じられることも多かった。以前は付きまとうように聞こえていた少年の声が無いのには首を捻ったが、かつての友人たちと語らうのは日々の慰みの一つだった。生まれて初めてとも言える人間の友人も出来て、塔での生活はトゥーラにとってすこぶる充実した日々だったのである。

 ただ、それもほんの一時の夢だった。トゥーラが自分で壊してしまったのだ。

『ああ、トゥーラ、なんてことを』

『やはり止めるべきだったんだ。あの子は、お前のために……』

「うるさい、うるさい、うるさい!」

 数多の声がトゥーラを責める。耳を塞いでも、星々の声は聴覚を通さず頭に響き渡った。抱えた膝に顔を埋める。自分の身体からは、微かな血と土の臭いがした。ここに至るまでに何度も転んだせいで、あちこちに擦り傷が出来て泥まみれだった。遠くに梟の鳴き声が聞こえる。がむしゃらに走って辿り着いたのは、多分森なのだと思う。躓いたものは木の根の感触がしたし、地面は落ち葉と溶けかけの雪が混じりあっていた。零れた涙は凍り付き、吐く息も手を温めてはくれない。誰もいない森で、トゥーラは悲嘆に暮れる。

『あれほど、星の力で人を傷つけることがあってはならないと言ったのに』

「私だってそんなつもりじゃなかった! でも……!」

『裏切ったのはあなたの方よ、トゥーラ』

 叫びかけた言葉を遮られて、トゥーラは唇を噛みしめた。

 アディル。トゥーラの手を握ってくれた男の子。直接言葉は交わせなくても、彼とは色々な話をした。トゥーラのためにお菓子を選び、花を摘んで、身体のことを心配してくれた。酷い態度をとったのに、困惑するトゥーラの心を根気強く解していった――そんな彼が、トゥーラを傷つけるだろうか。盲目のトゥーラにさえ感情を悟られてしまうのに、嘘を吐き続けていられるだろうか。答えはとっくに出ていた。なぜこんなことになってしまったのかと、いまさら一時いっときの感情に流されたことを悔いる。彼は、何か言おうとしていなかっただろうか。ちゃんと話をしていれば避けられた事態だったのではないだろうか。考えてももうどうすることも出来なった。勝手に癇癪を起して、話もせずに突っぱねて、あんなことになってしまったのはトゥーラのせいだ。村にも、もちろん塔にも帰れない。戻ったところで、良くて投獄か、もしくはその場で悪魔として殺されてもおかしくないだろう。だが、それだけならまだましだ。もし直接アディルからなじられたりしたら――いや、それ以前に、あの時の熱で取り返しのつかないことになっていて、彼を失ってしまったら。その時こそ、トゥーラは耐えられない。ここで一人凍えて、永遠に消えてしまうのがきっと一番いいのだ。それとも、早々にこの命を絶ち切ってしまおうか。そんな考えに至りかけた時、鈍い物音が耳に届きトゥーラは顔を上げた。人の気配だった。今のは、木の根に躓いて転んだ音だ。自分が何度も聞いていたから分かる。場所もそう遠くない。

「何……だれ……?」

 問うてから、トゥーラは後悔した。尋ねるまでもなく村の誰に違いない。あの事件の原因であるトゥーラを探しているのは当然だろう。自分の足でそれほど遠くに来られたとは思えないし、逃げ切れる自信もない。皆の前に引きずり出されて、悪魔として裁かれる。そんな未来を想像して、手足は自然と震え出した。

「トゥーラ……?」

 聞こえてきた探るような声は、まだ変声期も終えていないような少年のものだった。苦し気に乱れた呼吸音に紛れ、随分と掠れて聞こえる。ともすれば老人と勘違いしそうなほどだった。トゥーラが少年と判断出来たのは、どこかたどたどしく幼さの残る口調のお蔭に過ぎない。しかしトゥーラは、これに違和感を覚えた。いや、正確に言えば違和感とは違う。自分はどこかで、この声を聞いたことがある。

 困惑するうちに、再び音が聞こえた。今度は足音だった。少ない雪を踏みしめるざく、ざくという響きに、思わず後ずさる。しかしその足取りは妙に緩慢で覚束ない。ますます首を傾げるトゥーラにその正体を教えたのは、星の声だった。

『ああ、星空の子。そんな風になってまで……』

 反射的に、嘘、と口走った。トゥーラを追ってきたというのか。あの時の力は少なからず彼を痛めつけたはずだ。とても動ける状態であるとは思えない。けれど――あの村でトゥーラの名を呼ぶのは、一人だけだ。

「アディル、なの?」

 問い掛ければ、微かに弱々しい返事が聞こえた。次いで鈍い音が再び響く。慌てて音のした方へ駆け寄り、その姿を探す。ようやく見つけた彼の手には、細い布が幾重にも巻かれていた。包帯だ。これは、トゥーラが花をつけてやった方の左手。反対の手は包帯こそなかったが、火がついたように肌が熱かった。首元と顔も布の感触と、膏薬のにおいがする。髪も、前に触れた時よりごわついていた。満身創痍だ。こんな状態でトゥーラを探して歩いてきたというのか。

「なんで、こんな……どうして。ぼろぼろじゃないの」

 纏まりのない言葉を口にしながら、トゥーラはアディルの手を握る。いつもトゥーラを導いてくれていた手のひらが、今はあまりに頼りなかった。

「トゥーラ、探してたんだ。言わなきゃいけないと思って」

「何を……そんなことより、早く手当てしないと」

 焦りで上手く頭が働かない。アディルの言葉を遮ったのはいいが、手当てなどどうしたらいいのか分からなかった。医学の心得なんてなかったし、トゥーラが村まで背負っていくのは到底無理だ。助けを呼ぶ手段もない。偶然人が通りかかるのを待ってもいられない。けれど、このままではアディルが死んでしまう――そう、涙が零れかかった時、見計らったようにアディルの手に力が込もった。

「あのね、一緒にいるって言ったのに、一人にしてごめんね。今度は傍にいるから……僕は絶対、トゥーラの味方だからね」

 不意に、昔の記憶が蘇った。ずっと一緒だからね、約束だよ、と繰り返す幼い声。一人で泣いていた自分の、一番近くにあった存在。今、同じ声で話しているのは――。

「約束、ずっとしてたのに、忘れてたんだ。怒る?」

 不安そうに、アディルがそんな問い掛けを寄越す。やはり、間違いない。あの子はいなくなったわけではなかった。ずっとトゥーラの傍にいたのだ。気付いて、どうしようもなく胸が締め付けられる。こんなにもトゥーラを想ってくれているだなんて考えもしなかった。なのに自分は、くだらない猜疑心にのまれて彼を傷付けた。それでもなおアディルはトゥーラの気持ちを尊重しようとするのだ。

「……一緒にいたじゃない。それに、もう一度約束してくれるでしょう?」

 せめて、もう謝らないで欲しい。そんな思いを込めて、アディルの手を強く握り返した。いつもアディルがそうしてくれたように。トゥーラに受容されたことで、ふとアディルが微笑んだ気がした。しかしそれに安堵したのも束の間で、彼の手から唐突に力が抜け落ちる。

「アディル……!」

「あはは……なんか、気が抜けちゃった」

 アディルの口調は呑気だったが、いよいよ状態が悪いのだとトゥーラは理解した。恐らくここに来るまでも気力だけでもっていたようなものなのだろう。だというのにトゥーラには何もできなくて、ただ彼の手を両手で包み引き寄せる。自分の無力さと愚かさに、止まったと思った涙が溢れ出した。

「ごめん、ごめんねアディル。謝らなきゃいけないのは私の方だったのに……!」

 例えばどこかの童話のように、この涙に癒しの力があればよかったのに。それか、時を巻き戻すことが出来ればよかった。だが所詮それらは夢物語だ。既にアディルの命は尽きかけている。一緒にいると言ったばかりなのに。約束だと、言ったのに。

「――お願い、アディルを助けて!」

 一縷の望みをかけて、トゥーラは空に叫んだ。トゥーラには何もできない。童話の力は存在しない。けれど、星の力があれば、あるいは。

 しかし、帰ってきた答えは残酷だった。

『それは出来ないよ、トゥーラ』

「どうして!」

『元より、その子の身体は仮のもの。次の生の準備も出来ていないのに、君に会うために強引に落ちて行ったんだ。死ではない。我々のもとに帰って来るだけ』

 淡々と告げられた内容に、トゥーラは沈黙するしかなかった。トゥーラのために仮の生を受け、トゥーラのせいでそれを失った。これ以上縛り付けるな、と彼らは言いたいのだろう。

 しかし、拒絶を示したのはアディルだった。

「帰らない、よ」

 反射的に握りしめた手の力が強くなる。不自然に言葉を途切れさせながらも、アディルは続けた。

「一緒にいるって、僕が決めたんだもの」

『――その娘は星の力で人を傷つけた。これは我らにまで罪を背負わせたということだ。それにお前だけでなく、他の人間も巻き込まれた。これは大罪だ。魂が空に還ることも許されないだろう。それでもか』

 アディルに語り掛けられた言葉に、トゥーラは身体を強張らせた。死者の魂は空へ還り、星となって次の生を待つ。しかし罪深きものの魂にそれは許されず、永遠に孤独なまま地上をさまよい続けるのだ。トゥーラがそうなるのだとしたら、共にいようとするアディルも同じ事になる。一人は嫌だった。けれどアディルにこれ以上の苦痛を与えたくもない。

「うん。それでも」

 しかしアディルは、トゥーラの葛藤など知らない顔であっさりと言ってのけた。これには星々も困り果てたのか、辺りが潮騒のようにざわめく。やがて代表として出てきた声は、しわがれた老婆のものだった。

『ならば、こうしよう。お前たち二人で罪を償いなさい。お前たちの魂は砕けて他の者と混じりあい、この地に縛られる。人を傷つけたその力で、人を救い続けなさい。許される時が来る、その日まで』

 刑を告げる声は徐々に遠ざかっていき、やがて空の彼方に消え去ってしまった。辺りに静寂が満ちる。問い返そうにも、もう星々が語り掛けてくる様子はなかった。

「償い……」

 聞こえた単語を拾って繰り返す。彼らの話は一方的で、理解しきれなった部分もある。ただ、それが途方もない時間が必要なのだということだけは想像できた。きっと、トゥーラの人生を二度三度と繰り返しても足りないほどの。その間、アディルはどうなってしまうのか、トゥーラはトゥーラであり続けられるのかも分からない。

「トゥーラ、あのね」

 見えもしない空を仰いでいたトゥーラの耳に、か細い呼びかけが響く。我に返って、トゥーラは僅かな隙間もなくすようにアディルに寄り添った。彼から感じ取れる呼吸も脈も、酷く弱々しく不規則だ。共に償え、と星々は言った。しかし、アディルの傷が癒えたわけではなかったのだ。

「アディル、しっかりして!」

 自分よりも小さな身体に縋りつく。一緒にいられるのではなかったのか。そんなトゥーラの心情はお見通しなのか、アディルは宥めるように続けた。

「嘘はつかないよ。身体は消えちゃうけど、残せるものはあるから。トゥーラ、ちゃんと持っててね」

「いやだ、アディル……!」

 その瞬間、何かが弾けた。柔らかな温もりがトゥーラを包む。それは安らかさを凝縮したような、胸に微かな幸せが灯るような――言うなれば、彼の手の温かさ、そのものだった。それに反して、繋いでいた手の存在感は急激に薄れていく。

「見えなくても、ちゃんと一緒にいるからね。でもいつかまた、こんな風にお喋りできるといいなぁ」

 そんな呟きを最後に、アディルは儚い星の光となって消えていった――憎たらしいほど優しい笑みを、トゥーラに残して。

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