ラピスラズリの読書会
梨本モカ
サン=テグジュペリ「星の王子さま」――真白瑠璃の場合
真白瑠璃の場合 その1
この春から、わたしは高校に通っている。新しい環境に入ったとき、大抵の人がまず行うのは、人間関係の構築だと思う。残念ながら、わたしは小さい頃から人の輪に入るのが苦手で、高校での友だち作りは当然のように失敗した。
クラスの中で浮いてしまった訳ではないし、クラスメイトと普通に話をするくらいは問題ないのだけど、この先、特別に仲のいい相手はできないだろう。
でも、別に問題はない。
わたしには読書という趣味があって、本の中の人たちと楽しくやっている。周りの人たちには、わたし、真白瑠璃というのは本の登場人物のようなものだと思っておいてもらえればいい。現実の友だちがいなくても、わたしが困ることはない。……はずだった。
入学から二週間、授業も本格的に始まって、忙しくなってきた頃のことだった。
担任のウグイ先生――本当は鶯谷先生で、フルネームは鶯谷英一郎。長いから、縮めて呼んでほしいそうだ――がホームルームで、
「来週から体験入部が始まります。一年生は部活動の入部が必須なので、どの部活がいいか考えておいてください」
と言った。
このとき、わたしは大変なショックを受けた。授業が終わったら図書室に行くか、すぐに帰宅して本を読むことにしていたのに。その時間がなくなってしまうではないか。
気落ちするわたしを余所に、部活の一覧と概要をまとめたプリントが配布された。ウグイ先生によれば、この学校は部活動が盛んで、色々な部があるので、誰でも一つくらいは興味の持てるものがあるはず、らしい。その言葉は、一人で読書に興じたかったわたしには、何の慰めにもならなかった。
興味の持てるものならあります。読書です。自由に読書をさせてください。心の中で主張してみても、当然、誰にも聞こえないのだった。
趣味の時間が減ってしまうのは仕方ないとして、普通なら、こういうとき、友だちと同じ部に入るという選択肢が存在する。活動内容が何であれ、仲のいい相手がいれば、それだけで楽しいという理屈だ。
友だちがいないわたしには、一緒に行動する相手がいない。友だちがいなくても困らないという理論は、早くも崩壊してしまった。
実のところ、クラスに一人、わたしと同じような趣味をしていそうな人がいる。山梨香織さんといって、彼女は休み時間にはいつも何かの本を読んでいるし、図書委員をしている。しかし、話が合いそうな気がするからといって、気軽に声をかけられないのが人見知りという生きものだ。短期間で彼女と友人関係になるのは非常に困難に感じられ、わたしはその道を諦めた。
一応、週末の休みの間に、多少は考えた。渡されたプリントを眺めて、よさそうなところがないか探した。同好会に入るのでも可、という話だったが、同好会が正式な部ではないためか、プリントには載っていない。同好会に入りたければ、自分で探すしかない。もしくは、自分で立ち上げるか。
結局のところ、わたしにとって読書タイムに勝るものはない。読書同好会を作るような手間暇をかけるのなら、その時間も読書に充てたい。
休み明け、わたしは、『入部を希望する部はありません』と記入した体験入部届けを提出した。案の定、放課後に職員室に呼び出されてしまった。
職員室で向き合ったウグイ先生は、特に怒っている様子ではなかった。
「真白さん、これですが」
先生は、わたしが提出した体験入部届けを見せた。
「興味のある部がありませんでしたか?」
「すみません」
「いいんです。ただ、最低限、体験入部には参加する決まりなので、このままという訳にはいきません。どうでしょう、僕が顧問をしている文芸部を見に来ませんか」
文芸部。確かに、その名称は目にした。活動内容も確認した。読書会――本を読んで感想を語り合う集いのようなもの、とわたしは解釈した――をやっているらしい。
他人から見れば、わたしのような読書好きにはよさそうな部に思えるのだろうけど、わたしは一人で読書を楽しみたいのであって、みんなで感想の話をしたいとは思わない。肌に合わないと思い、文芸部は除外していた。
「まあ、やっぱり合わないな、と思ったら、正式に入部しなくても構いませんよ」
「……いいんですか」
先生はゆっくりうなずいた。
「それじゃあ、文芸部、体験入部します」
翌日の放課後。わたしは文芸部の部室である図書準備室に向かった。準備室は図書室の隣にある部屋で、昔は物置のように使われていたという。
ドアの前に立つと、室内の話し声が聞こえた。これから、見ず知らずの人たちがいる空間に入っていかなければならない。そう思うと、胃がむかむかするのを感じた。わたしは深呼吸して気持ちを落ち着けると、ドアを開けようとした。
ところが、わたしが手をかける前に、室内の誰かがドアを開けた。現れたのは、上級生の男子生徒だった。上履きの色で区別できる。その人は三年生だった。なぜ、その人の上履きの色が分かるのかと言えば、わたしが視線を避けたくてうつむいたからだ。
知らない人と目が合うのは苦手だ。
わたしが黙っていると、その人が話しかけてきた。
「体験入部だな? ウグイ先生から聞いているよ。さあ、入った、入った」
促されるまま、わたしは室内に入った。図書準備室には、ドアを開けた先輩の他に、二年と三年の女子生徒が一人ずつと、一年の男子生徒が一人いた。彼も体験入部に来たのだろう。わたし以外にも体験入部がいると分かって、少し安心した。もっとも、その男子も別のクラスの人で、知り合いではないのだけれど。
わたしがドアのところで固まっていると、三年女子の先輩が立ち上がり、わたしの手を引いて、空いていた席に座らせた。
「私は部長の水瀬湖春よ。文芸部へようこそ、真白さん」
「え、どうして名前……」
知っているんですか? と言い終わらないうちに、三年男子の先輩が、
「言っただろう? 誰が体験入部に来るかは、先生から聞いている。俺は本郷炎司。副部長だ」
と言い、続けて、二年女子の先輩が自己紹介した。
「あたしは早霧玲花。特に肩書はないわ」
最後に、一年男子が続いた。
「オレは立浪万治郎。……流れで自己紹介してみたけど、オレも体験入部です」
そして、四人がわたしを見た。わたしも自己紹介するように、ということだろう。それは分かるものの、どうしてもこういう状況は苦手だった。
「真白瑠璃です。ウグイ先生の勧めで、体験入部に来ました」
全員の自己紹介が済むと、
「さて、それじゃあ、一年生の二人に、改めて文芸部の活動を説明します」
と、水瀬先輩が言った。
「文芸部では、二、三週間ごとに一冊の本を決めて、読書会をしています。読書会では、事前に本を読んできて、みんなでその感想を話し合います。なので、読書会の日以外にやることは、決めた本を読んでおくことくらいで、活動らしい活動はありません。割と自由参加なので、気楽に考えてくれて構いません」
それは朗報だ。自分の読書の時間を、あまり削らずに済む。と思ったところで、一つ気になったので、わたしはおずおずと手を挙げた。
「すみません。質問が……」
「どうぞ、真白さん」
「はい。読書会用の本は、各自で購入するんですか?」
わたしには、書籍購入に使える資金が潤沢にある訳ではない。アルバイトは校則で禁止されているし、許可されていたところで、ちゃんと働ける自信はない。
趣味じゃない本を買わないといけないとしたら、嫌だな。
わたしの心を見透かしたのか、水瀬先輩は安心させるように微笑んだ。
「読書会用の本は、部室や図書室で人数分をそろえます。個人で購入してもらうことはないので、ご心配なく。どうしてもそろえられないときは、駅前の図書館で借りることもありますし、購入するときには部費を使います」
言いながら、彼女は周囲の本棚を指し示した。ここが部室ではなく、小さめの図書室だと説明されても、大抵の人は信じるだろうな、と思うくらいの本が収められていた。
ちなみに、駅前の図書館は、市内でも有数の蔵書数だと言われ、見つからない本はほとんどないという。わたしも時々利用するが、今まで、探していた本が所蔵されていなかったことはない。
水瀬先輩は文芸部の説明を続けた。
「読書会のほかに、大きな活動としては、文化祭で文集を出します。詳しいことは時期が近くなってから、改めて、ということにしますが、文集は一年間の集大成のようなものです。もっとも、文集作りがあるとはいえ、活動の大半は読書です」
水瀬先輩は、文集の話が出て、わたしの表情が曇ったのを察知したようだった。確かに、ちょっとメンドクサイと思いました。すみませんでした。
「元々は文芸部の名前通り、小説や詩を書く活動をしていたそうなので、書きたい人はそちらをやっても問題ありません。自由参加とは言いましたが、一応、活動は週三日、一時間半くらいです。休む場合は、なるべく連絡してください」
立浪君が勢いよく手を挙げた。彼も質問があるようだ。
「漫画を描いてもいいですか?」
「どういうこと?」
水瀬先輩は困惑気味だ。
「オレ、本当は漫研か何かに入るつもりだったんですけど、この学校の漫画同好会は読む専門だって話で、作業に使えるスペースもなさそうだったので。描くって意味では、むしろ文芸部の方がいいかな、と」
「立浪は漫画家志望か? まあ、禁止する理由もないだろう」
本郷先輩が苦笑しながら言った。水瀬先輩は本郷先輩と立浪君を見比べた。
「そうね。読書会にもちゃんと参加してくれれば、問題ないわ」
「あざッス」
立浪君は元気よく返事をした。
黙って成り行きを見守っていた早霧先輩が、冷ややかな声を出した。
「先輩たち、本当にいいんですか? 読書会でも、漫画を対象にすることはないじゃありませんか」
「去年の三年生には、部室で宿題をやる先輩もいたと聞いている。今さら、細かいことを気にすることはないだろう」
「それはそうですけど……」
あくまで立浪君の希望を肯定する本郷先輩に、早霧先輩は冷たい視線を送ると、わたしの方を向いた。ちょっと怖い。
「真白さんは、どう思う? あなたも何か希望があるの?」
「ええと……。わたしは、本が読めればいいので……」
「そう。それじゃあ、あたしからはこれ以上、何も言うことはありません」
不承不承といった感じだったものの、早霧先輩は立浪君の要望を認めたようだった。
活動内容の説明が一段落したところで、ウグイ先生が部室に入ってきた。
「すみません、遅くなりました。みなさん、おそろいでしたか」
「ちょうどよかったです。先生も自己紹介してください」
と、水瀬先輩が言った。
「分かりました」
ウグイ先生は姿勢を正して、わたしたちに向き合った。
「改めまして、文芸部顧問の鶯谷英一郎です。長い名前なので、気軽にウグイ先生とでも呼んでください」
クラスでも同じことを言っていた。どこでも同じ挨拶をしているなら、本名を覚えていない生徒もいるのではないかと思う。
「ところで、僕は国語教師ですが、英一郎という名前です。しかし、英語は教えられません」
先生はホワイトボードに自分の名前を書いた。
「人は僕を、二か国語に翻弄された悲運の国語教師と呼びます」
定番のジョークなのか、これも前に聞かされた。水を打ったように静まり返った教室で、ウグイ先生一人が高笑いし、山梨さんがクスクスと笑っていたのを思い出した。
ここ文芸部では、ウグイ先生と立浪君が、二人して大笑いしていた。
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