本郷炎司の場合 その2
読書会の日になった。部室を訪れると、真白が一人で本を読んでいた。俺に気付くと会釈して、すぐに読書に戻った。彼女に倣い、俺は『老人と海』を読み返した。しばらくすると、残りの部員もそろった。
今回の読書会では、真白が進行役を務める。そろそろ一年生にも経験してもらおう、という水瀬の計らいだ。
「それでは、いつも通り、まずは順番に感想を発表してください。それじゃあ、本郷先輩から、お願いします」
どういう訳か、真白は俺を指名した。まあ、別に構わないが。
「不漁続きでも、挫けることなく挑み続ける老人の姿勢に、感銘を受けた。叶うことなら、俺もこの老人のようでありたいものだと思う」
この場で本当のことを言う必要はない。俺自身は、老人とは違って、既に挫けて、諦めてしまっていることも、挑戦を続けたところで、いずれ折れることになるだけだと思っていることも、敢えて明かす必要などない。
「老人はどこまでもストイックなんですよね。それでいて、そのことを誇るでもなく、淡々としているのが、格好いいと思います」
と、立浪が感想を述べた。俺と似たことを言っているが、彼の場合は、本心からそう思っているのだろう。立浪は漫画家という目標に対して、ひたむきに挑戦している。
続いて、早霧が発言した。
「あたしは、命懸けで捕まえた魚が、港に帰り着くまでの間に、サメにボロボロにされてしまうことが、挑戦することの虚しさを象徴しているように感じられて、悲しい気持ちになりました」
彼女は、俺の本当の感想と同じようなことを言う。挑んだ結果として傷を負うのなら、何もせずにいるのが最も安全だ。
「私には、漁に対する老人の姿勢は、人間の尊厳を象徴しているように感じられたわ。成果が失われてしまっても、村の人たちには、老人が何を成し遂げたのか、ちゃんと伝わっている訳だし、虚しいとまでは言えないと思う」
と、水瀬が言った。
最近の彼女は、本の内容を前向きに解釈することが多い。どういう心境の変化があったのか分からないが、俺としては、以前のような、人がよさそうに見える割に暗い考え方をしている水瀬の方が、どちらかと言えば好ましかった。
最後に、真白が感想を述べた。
「わたしは、『人間は負けるようにはできていない』という言葉が好きです。人間の不屈の精神が端的に表されている気がします」
「誰もが皆、不屈な訳じゃない。挫ける奴もいるだろう」
思いがけず、険しい声が出ていた。俺は慌てて取り繕った。
「すまない。つい、強い言い方になってしまった」
真白は怯えることなく、見透かすような眼で俺を見ていた。その眼が、一見すると気弱そうな彼女を、異質なものにしている。
「立浪君が『銀河ヒッチハイク・ガイド』でインタビューしたときにも思いましたけど、本郷先輩は、何がそんなに虚しいんですか?」
「瑠璃ちゃん、それは――」
水瀬が真白を止めようとした。水瀬と早霧は、俺が陸上部を辞めた経緯を、多少は知っている。庇ってくれるつもりなのかも知れない。が、俺は水瀬の言葉を遮った。
「何が言いたい、真白」
「『星の王子さま』の作者、サン=テグジュペリは、『人間の土地』という別の作品の中で、人間とは、精神あってこそのものだと書いています。それに従えば、心が空っぽで虚しい人は、人間ではないとも言えます」
随分な言われようだが、怒る気にはならなかった。彼女はただ、その眼で捉えた事実を指摘しただけだ。
「俺がそうだと言いたい訳か。まあ、否定はしない。交通事故に遭って陸上競技を諦めたときに、俺は精神的に死んだと言っていいだろう」
俺は自らを嘲笑いながら喋り続けた。
「回復不能な障害が残ったせいなら、復帰を諦めるのも仕方がなかったかも知れない。だが、実際のところ、俺は、リハビリを続ければ復帰は可能だと言われていた。そのために必要な苦労を前にして、心が折れたんだ。
俺は、挑戦の果てにあるものを恐れた。やるだけやって、もしも結果が出なかったら、さらに傷を深めると思った。そんなことには耐えられそうになかった。だから諦めた。早霧の言っていた、挑戦の虚しさだ。漁から帰った老人は、物語が始まった当初よりも深い傷を負っていた。俺はそんな風になりたくない。
自分から諦める奴に、不屈の精神なんてものがあるはずがないだろう?」
捲し立てた俺が息をついたタイミングを見計らって、早霧が言葉を挟んだ。
「あたしは、自分から諦めることまで良しとしたくありません。老人の挑戦が虚しい結果に終わったことは悲しく思いましたが、どうせ不漁続きだったんだから、そのまま諦めていればよかった、なんて思いません。挑戦できる立場にいるのに何もしないのは、愚かです」
一緒にしないでもらいたい、ということか。
「結末の解釈で議論するなら、『老人と海』の結末の続きを想像してみませんか?」
と、立浪が恐る恐るといった様子で言った。
『老人と海』の続き? そんなことは、考えるまでもない。
「また漁に出るに決まっている。そして、また失敗する。虚しい人生だ」
「確かに、老人は、漁師として生まれて、漁師としてしか生きられないわ。けれど、それは愚かでもなければ、虚しくもないことよ。もし、それが悪いことだと思うなら、もう救いはないわ。何もかも諦めて、空っぽの余生を過ごせばいい」
水瀬が、いつになく強い口調で言った。彼女に叱咤されるまでもなく、俺自身、本当は分かっている。
虚しさを埋めるために、何をするべきなのか。
再び走り始めることだ。文字通りに走る、つまり、陸上競技への復帰を目指すのでも、別の目標に向かって走り出すのでも、どちらでも構わない。俺に必要なものは、それに尽きる。
「本郷先輩」
真白が、普段よりも少し優しい調子で、俺に語りかけた。
「わたしには、先輩の苦しみは分かりません。でも、何か楽しいと思えることを見つけないといけません。せっかく文芸部にいるんですから、読書を楽しいと思えるのが一番だと思いますけど、そこは先輩の嗜好もあるでしょうから。
先輩に一番必要なのは、目標です。先輩は、何かを目指していないと息苦しくなる人です。それは誰が見ても分ります。そうは言っても、目標は簡単に定められるものでもないと思います。なので、わたしから提案なんですが、卒業までに部室の本を全て読破する、というのを、当面の目標にしてみるのは、どうでしょうか」
何百冊あると思っているんだ。俺も総数は知らないが、一日一冊では一年以上かかることは間違いない。
「わたしも先輩の卒業までに全冊読むことを目標にするので、競争しませんか?」
競争。その言葉には、俺の琴線に触れるものがあった。
返事に迷っていると、「私も混ぜてよ」と水瀬が言い、「せっかくなので、オレも」と立浪が続き、「えっと、じゃあ、あたしも」と早霧まで参加を表明した。四人はそろって、俺の方を見た。俺は覚悟を決めた。
「いいだろう。受けて立つ」
「地獄の耐久読書マラソンの始まりですね」
と、真白は楽しそうに、物騒な宣言をした。
帰宅すると、またしても茜が来ていた。いくら親戚とはいえ、頻繁に来すぎではないかと思う。彼女は、俺が紙袋に入れて持っている本の束を不思議に思ったらしい。ちなみに、十冊ある。
「どうしたの、その本」
「この週末中に読むつもりで持ち帰った。文芸部で、地獄の耐久読書マラソンが始まったんだ」
「何それ? というか、地獄って……」
「部室の本を一番多く読んだ部員が勝者になる。要するに競争だ。なぜ地獄なのかは、よく分からない」
真白からは説明がなかった。読書を楽しいと思えるのが一番、と言った側から、そんなことを言い出す彼女の感性は、俺には理解し切れない。
気が付くと、茜はにこにこ笑っていた。
「奇妙なことを始めたような気もするけど、あんたに新しい目標ができたなら、応援するって決めていたから。頑張れ」
「ああ」
応援は素直に受け取るが、奇妙、は余計だ。そんなことは、言われなくとも分かっている。
かつて、俺は一つの夢に敗れた。しかし、それで俺の人生が全て終わった訳ではない。今にして思えば、早く次の目標を決めろ、という茜の言葉にも一理あったのだ。
確かに、一風変わったことをやり始めてしまったが、何を目標とするかよりも、何であれ目標があることそのものの方が、遥かに重要だ。例えそれが、他人から提示された、当面の間だけの、奇妙な内容のものだったとしても、目指すものがあることの価値は決して小さくない。
今なら、『老人と海』に対する真白の感想も理解できる。物語の結末の先で、老人は再び漁に出るだろう。次こそは大物を、と消えることのない不屈の魂を燃やして。
何かを失っても、次の目標を見つければ、人は生きられる。人間は誰も、負けるようにはできていないのだから。
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