ジェイン・オースティン「説得」――早霧玲花の場合

早霧玲花の場合 その1

 あたし、早霧玲花には、好きな人がいる。

 その人と出会ったのは十年前、小学校の二年生だった頃のことで、その人は当時、高校三年生だった。彼が進学で実家を離れるまでの一年弱、あたしたちの交流は続いた。あたしが高校に進学するまでの間に、彼は大学生から社会人になったが、彼はほとんど帰省せず、たまに帰ってきていても、あたしの方に用事があったりして会えずじまいになってばかりだった。

 きっかけは、そう特別な話ではないと思う。あたしの両親は共働きで、あたしが小学校から帰ってきても留守にしていた。普段なら、家の鍵を持っているので、それで家に入っていたが、その日は偶然、鍵を持っていくのを忘れていた。あたしは家から締め出されてしまい、玄関の前で泣いていた。父か母が帰ってくるまで、どうしようもないと思っていた。

 そんなとき、彼に声をかけられた。隣の家に住んでいるお兄さんだということは分かったが、それまで話をしたこともなく、あたしは怯えた。彼はそんなあたしを見捨てることなく、根気強く事情を聞き出し、彼の家に連れて行ってくれた。彼の母親(あたしにとっては、お隣のおばさん)が母に連絡してくれて、仕事が終わるまで、あたしを預かってくれることになった。

 おどおどしているあたしに、彼は本を読み聞かせてくれた。子ども相手であることを考慮して選んでいたのだとは思うけど、小学生には難しい本が多かったように思う。あたしが物語についてこられないと見ると、彼は別の本に移った。

 ほとんどの本は思い出せないが、一冊だけ、今でも印象に残っている本がある。サン=テグジュペリの『星の王子さま』。難しいことは分からなかったけれど、満天の星空を思い浮かべて、あたしは楽しかった。

 それから、あたしは時々、彼の家に遊びに行き、本を読んでもらっていた。思えば、そのときの彼は受験生だったので、勉強の邪魔になってしまったのではないかと、心配になる。もっとも、彼は第一志望の大学に合格したと聞いているので、問題はなかったのだと思う。

 あたしが彼を好きになるのに、大して時間はかからなかった。小学生が優しいお兄さんに心惹かれたのだ。普通なら、子どもらしい淡い恋心で終わるはずだろう。しかし、あたしはそうではなかった。会えなくなっても、年齢を重ねて周りの環境が変化しても、彼のことを想い続けた。同年代の男の子のことなんて、眼中にない。

 去年の四月、最後に会ってから七年ぶりに、あたしは彼に再会した。あたしが進学した高校に、彼が教師として赴任した。通勤に便利だということで、実家に戻ってきた。また、好きなときに会えるようになったのだと思っていたが、生徒と教師という立場になってしまったことで、歯車が狂った。

 彼はあたしのことを昔の知り合いではなく、赴任した学校にいた一生徒として扱った。校内では仕方がないことは、あたしにも理解できるけれど、学校とは関係のないところでも、かつての関係などなかったかのように振る舞う彼に、あたしは悲しみと同時に、怒りを覚えた。

 それでも、あたしは彼に恋をしている。彼、鶯谷英一郎の姿を目にして高鳴る胸の鼓動が、そのことを教えてくれる。


 文芸部の活動は休みの日だったけれど、部室から借りていた本を昼休み中に読み終えたので、帰る前に戻しておこうと思い、部室に立ち寄った。誰もいないだろうと思っていたが、部屋の鍵は開いていて、真白さんが読書に興じていた。

 彼女はあたしに気付くと、小さく会釈して、話しかけてきた。

「早霧先輩も、読書タイムですか?」

「借りていた本を返しに来ただけ。真白さんは、部活がない日も部室にいるの?」

「さすがに、毎日じゃないですよ。でも、部室で過ごすのにも慣れたので、気分を変えたいときには、ここに読みに来ます。今日は、図書委員の友だちが仕事中なので、終わるまで待っている、というのもあります」

 友だち、いるんだ。真白さんは常に一人で行動するタイプかと思っていた。我ながら、失礼なことを考えていたと反省する。

 本を棚に戻して、帰る前に真白さんに挨拶しようと振り返ると、彼女が読んでいる本のタイトルが目に入った。ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』。あたしが今までに読んだ本の中で、一、二を争うくらい気に入っている作品だ。

 この作品は、簡潔にまとめれば、身分違いの恋の物語で、主人公のエリザベスが、社会的に高い地位にあるダーシーという青年と出会い、時にすれ違いながらも、交流を深めていく。ダーシーは気位の高いところはあるものの、基本的には、その立場に相応しい振る舞いをしようとしているだけなのだが、エリザベスにはそれが誤った印象として伝わる。『高慢と偏見』というタイトルは、一見すると高慢に見えるダーシー、彼に対して偏見の目を向けるエリザベス、という二人に由来するものだ。

 最終的に、身分の差やすれ違いを乗り越えて、二人は結ばれる。

 あたしは、ハッピーエンドで終わる恋愛小説が好きだ。その理由を考えると、自分の恋が成就する見込みがないからじゃないのか、と悲しい気持ちになることもあるけど、『高慢と偏見』が名作であることに変わりはない。

 ちょうど、真白さんは本を閉じて置いたところだった。切りのいいところまで読み進めたのだろう。顔を上げた彼女と目が合った。

「どうかしましたか、先輩?」

「じろじろ見てごめん。あたし、その本がすごく好きだから、気になっちゃって」

「いいですよね、『高慢と偏見』。好きな本ベスト……二十くらいには入ります」

 どことなく嬉しそうに喋り始めた割に、順位は低かった。あたしが怪訝な顔をしていたせいか、真白さんは、

「考えてみたら、他にも好きな本はたくさんあるので、この本が何番目なのか、よく分からなくなってしまって」

と続けた。朗らかに話す彼女の様子からは、入部したばかりの頃のような暗そうな雰囲気は感じられず、実に楽しそうだった。


 その夜、あたしは時間を見計らって、鶯谷家を訪問した。おばさんは旅行に出かけていて、留守にしている。そのことは、先日、本人から聞いた。

 呼び鈴を鳴らすと、インターフォンの応答音は鳴ったものの、声はしない。カメラが付いているので、誰が来たのか分からないことはないはずだ。

「英一くん。いるんでしょう?」

 通話状態が続いていたため、話しかけた。やはり返事はなかったが、少し待っていると、ドアが開いて、英一くんが姿を見せた。この一年余りで、ドアを開けない限り、あたしが帰らないということは、理解してくれたことと思う。

「何かご用でしょうか、お隣の早霧さん?」

「もう何回も言ったでしょ。一日一回は、顔を見て話したいって」

「こちらも何度も言っていますが、今の僕と君は、教師と生徒という立場なんです。学校の外で気軽に会ってはいけません。この件に関して、君が聞く耳を持たないことは、よく分かっていますけどね」

「ご近所付き合いは大事でしょ」

 英一くんは溜息をついた。

 さすがに、こうして会いに来ることで、英一くんに迷惑がかかるかも知れないことは理解している。それでも、子どもの頃のように仲良くしたいという気持ちが上回っていて、あたしなりに、節度を持って接するようにしているつもりだ。

「あたしは、英一くんが教師になるより前から交流があって、今も隣同士の家に住んでいるんだから、会いに来たっていいでしょう?」

 おばさんがいるときなら、家に上がらせてもらうこともできる。英一くんが実家を出た後も、あたしと彼女の交流は続いた。夫も一人息子も家からいなくなって、寂しいのだと言っていた。あたしは旦那さんとは一度も会ったことがないが、長く別居していて、今は離婚に向けて協議を進めているらしい。英一くんが実家に戻ったのは、そのことで苦労しているおばさんのためでもある、とあたしは想像している。

 英一くんしかいない日には、玄関先で話すことしかできない。もっとも、おばさんがいるときでも、あたしが訪ねると、英一くんは自室に引っ込んでしまい、あたしが帰るまで出てこない。

「ご近所さんとしての用事があれば、会っていてもおかしくはないでしょうね」

「それはないの」

 彼はまた、溜息をついた。適当な理由を用意した方がいいのかも知れないけど、このことで嘘はつきたくない。

 あたしが頻繁に会いに来る理由に、彼は気付いているのだろうか。言葉にこそしていないとはいえ、かなり明確に好意を主張しているつもりだ。英一くんは、いつも素っ気ない対応をするので、どう思われているのか、よく分からない。

「用がないなら、お引き取りください。どうせ、明日には文芸部で会うでしょう」

「はあい」

 あたしは大人しく引き下がった。少しは話せたので、今夜は満足しておくことにする。

 一応、昔のよしみからか、彼はあたしが身勝手な振る舞いをしても、ある程度までは許容するつもりでいるのだと思う。本当に拒絶される一線さえ越えなければ、今後も会うことはできる。

 彼には誤解されているかも知れないけれど、あたしが文芸部に入った理由は、純粋に読書が好きだからであって、英一くんが顧問だからではない。彼の存在が、入部を即決する理由になったことは否定しないが、あたしはストーカーではない。

 英一くんは、何かというと、教師と生徒という立場を引き合いに出す。そこから関係を進めることが、社会的に問題なのだと分からないほど、あたしは子どもではない。彼にあたしの気持ちを伝えていない理由は、その辺りにある。彼が何と答えるかは分かっていて、その答えはあたしの望む内容ではない。

 今、あたしにできることは、兎にも角にも、あたしの存在をアピールしておき、時間が過ぎるのを待つことしかない。教師と生徒という関係が終われば、彼も考えを変えるかも知れない。今は雌伏の時だ。この想いを諦めることは、絶対にしたくない。

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