早霧玲花の場合 その2
翌日、文芸部の部室には、本郷先輩と立浪の姿がなかった。聞けば、本郷先輩は、中断していたリハビリを再開することにしたため、今後は定期的に病院へ行くらしい。すぐに文芸部を辞める訳ではないが、スケジュール次第では、その可能性もあるということだった。立浪の方は、漫画の締め切りが迫っていて忙しく、しばらく部活には出られないという。彼が漫画に懸ける思いは知っているので、今さら、欠席の理由に忌避感はない。
結局のところ、彼ら二人にとって、文芸部は一時的な寄り道なのかも知れないが、それぞれが真摯に目指すものがあるのなら、あたしはそれを否定したくない。
英一くんは、いつものように部屋の隅に座っていた。何かの本を読んでいる。
本来の予定では、今日は次の読書会で取り上げる本を決める話し合いをすることになっていたけれど、五人中二人が欠席では、どうしようもない。何となく雑談が始まり、あたしは、ふと、湖春先輩に伝えていなかったことがあるのを思い出した。
「湖春先輩。前に勧めてもらったロバート・F・ヤングの『たんぽぽ娘』、読みましたよ」
「どうだった?」
「タイムマシンが実在すればいいのに、と思いました」
タイムマシンがあれば、あたしの問題は解決するはずだ。それこそ、作中の人物たちと同じ方法で対処すればいい。
件の『たんぽぽ娘』は、タイムトラベルと恋愛が絡むSF小説だ。全くの偶然から出会った主人公マークとヒロインのジュリーが意気投合し、互いに惹かれ合うが、二人には親子ほどの年齢差があり、加えて、マークは既婚者だ。障害が多いどころではない状況だが、全ての問題は、タイムマシンによって消えてなくなる。
「ストーリーとしては面白いと思いました。雰囲気も嫌いじゃないです。でも、恋愛小説だって考えると、都合のいい道具があったおかげで何とかなっただけに思えてしまって……。そういう意味では、どちらかと言うと、あんまり好みじゃないです」
あたしの言葉を聞くにつれて、湖春先輩が気落ちした表情になっていくのが、申し訳なかった。でも、先輩はお世辞を聞かされても嬉しくないだろう。
「そっか。それじゃあ、同じ作者の『時をとめた少女』とかも、気に入ってもらえないかな……」
湖春先輩が沈んでいると、真白さんが助け舟を出した。
「早霧先輩は、正統派の恋愛小説が好きなんですね。『高慢と偏見』が好きなら、それが当然なのかも知れないですけど。水瀬先輩は、割と何でも読みますから、少し考え方が違うんじゃないでしょうか」
「そうよ。私は雑食なのよ。面白ければ何でもいいの。面白くなくても平気で読み続けるくらい。……瑠璃ちゃんも同じでしょう?」
「わたしは、面白い方がいいです」
この二人は、いつの間にか、すっかり親しくなったものだと思う。それとも、そういう風に見えているだけなのだろうか。
真白さんは、再び沈んでいった湖春先輩を放置して、あたしの方を向いた。
「もしかして、早霧先輩は、結構年上の人に恋をしています?」
あたしが言った『たんぽぽ娘』の感想から推測したのだろう。うかつだった。彼女の勘が鋭いことは、知っていたのに。
英一くんのいるところで肯定するのは、きっとよくないけれど、嘘をついて否定するのも、何だか嫌だ。
「玲花ちゃんは、そういうところ、分かりやすいわ」
答えられずに黙っていると、湖春先輩にまで見抜かれてしまった。楽しそうにしているけれど、どうせなら、あたしが答えに窮していることも見抜いてほしい。
「お困りのようなので、水瀬先輩の恋愛相談室を利用してください。初回無料です」
と、真白さんが言った。
あたしは困惑したが、湖春先輩も目が泳いでいた。
「れ、恋愛? 初恋もまだなのに……」
という呟きが聞こえる。聞き捨てならない言葉があった気がするが、何にせよ、真白さんが唐突に言い出しただけのようだ。とはいえ、あたし自身、誰かに打ち明けたいという気持ちはあった。英一くんの名前を出さなければ、大丈夫だろう。たぶん。
「それじゃあ、よろしくお願いします。湖春先輩」
「ええ」
彼女は明後日の方向を向いていた。おそらく、湖春先輩に相談するという体で、実際には真白さんに相談するような状態になるのだろう。
「お察しの通り、あたしには、昔から好きな人がいます。その人はあたしよりいくらか年上で、高校生なんて全く相手にしません」
あなたのことよ、と思いながら、英一くんの方を横目で見た。気付いているのかいないのか、素知らぬ顔をしていた。
予想通り、真白さんが応じた。湖春先輩も一応、真剣に聞いてくれている。
「振られちゃったんですか?」
「告白なんてしないわ。断られるのは分かっているから」
「何もせずに諦めたんですか」
「時期を待っているだけ。あたしは、諦めないわ」
とは言うものの、然るべき時期が来れば本当に行動できるのか、あまり自信はない。長い間、大事にしてきた想いだ。これが打ち砕かれたら、その先、あたしはどうなってしまうのだろう。
「停滞を良しとした時点で、諦めたのと変わらないわ、玲花ちゃん。『老人と海』の読書会のときに、本郷君に言ったことを覚えている? 玲花ちゃんは、挑戦できる立場にいるのに、それをしないのは愚かだ、と言ったのよ」
湖春先輩の言葉に、あたしは反発した。あのときの言葉は、あたし自身はそもそも挑戦できる状況にないが、そのときが来るまで諦めない、という意味での発言だった。
「相手にとって好ましくない状況だから、行動していないだけです。進んで現状維持に走っている訳じゃありません」
「オースティンの『説得』は、読んだことがあるでしょう? 今の玲花ちゃんは、まるでアンよ。彼女は周囲に説きふせられて、婚約を諦めた。あなたは、自分で自分を説きふせた。相手に迷惑がかかるから、何もしない方がいい、そうすれば、今の安寧を手放さずにいられる。そういうことでしょう?」
ジェイン・オースティンの『説得』は、従男爵エリオット卿の娘アンが、若い時分、周囲の説得によって、地位も財産もないウェントワースという青年との婚約を諦めてから、七、八年ほどが経過した時期から物語が始まる。二人が再会したときには、ウェントワースは仕事で成功して資産家になっており、結婚相手を探していると言うが、アンに対しては冷淡な態度を取る。アンは、彼女の周囲の女性たちの誰かにウェントワースが結婚を申し込むものと思ってやきもきするが、紆余曲折を経て、最終的に、アンとウェントワースの二人は結ばれる。
あたしは、英一くんの立場を考えれば、という建前で、今より関係が悪くなるのが怖いという本心を、自分自身に対して隠したまま、何もせずにいるように、と自分を説きふせたのだろうか。そんなつもりはないけれど、的を射た指摘にも思える。
湖春先輩がよく喋るようになったからか、真白さんは黙って聞いていた。あたしが何も言えずにいると、
「何だかんだと言っても、要するに、玲花ちゃんが心配しているのは、年齢差のせいで受け入れてもらえないかも知れないことでしょう? ここは、実際に年上の男性の意見を聞くべきね」
と言った。あたしは青ざめた。ちょっと待ってください、湖春先輩、と心の中で懇願したが、届くことはなかった。
「ウグイ先生、教師という立場は一旦脇に置いてください。仮に、高校生から告白されたら、嬉しいですか、それとも、困りますか?」
英一くんは、一瞬だけあたしの方を見た。その一瞥で、あたしを念頭に置いた答えを返すつもりだと分かった。
「……あくまで、三十歳前後の社会人と高校生が交際するという想定での一般論ですよ。未成年が相手となれば、実際の関係がどういった内容であれ、世間の目は非常に厳しいものとなります。迷惑だと思うかは人それぞれでしょうが、そこで交際を承諾するような大人は、信用なりません。高校生の方も、相手のことを思うなら、最低でも卒業するまでは、気持ちに蓋をするべきです」
「手厳しいですね」
「当然です」
普段とは違って厳しい口調で断定する英一くんに、湖春先輩はさらに質問を重ねた。
「高校生であるということが一番の問題なら、卒業した後なら、ウグイ先生も元教え子と交際する可能性はありますか?」
「あり得ません。……用事を思い出したので、失礼します」
英一くんが足早に立ち去ると、湖春先輩はあたしに声をかけた。わざとやっている訳ではないと思うけれど、もう勘弁してほしい。
「あのね、玲花ちゃん。取り敢えず高校を卒業するまでは待った方がいいみたい」
彼は、自分の生徒だったことがある相手は論外だと言ったのだ。卒業まで待っても、何の意味もないということだ。湖春先輩を責めるつもりはないけれど、知らずにいたかった。
「早霧先輩。水瀬先輩は、悪気がある訳じゃないんです……」
真白さんが小声で言った。分かったことは、湖春先輩はあたしが英一くんを好きなことに気付いていなくて、真白さんは気が付いたということだ。
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