ヘミングウェイ「老人と海」――本郷炎司の場合
本郷炎司の場合 その1
あの瞬間のことは、今でも鮮明に覚えている。
昨年の秋の終わり頃、ある雨の日のことだ。その日、俺は日課としていたロードワークに取り組んでいた。平日は最低でも五キロ以上、休日は二十キロ以上、時間が許し、体力が続く限り、できるだけ長い距離を走り続けることにしていた。
陸上部に所属し、その年の大会では長距離走の複数の種目で結果を出した。競技を続ければ、将来は非常に有望だとコーチから言われていた俺にとって、多少の悪天候はトレーニングを休む理由にはならなかった。
俺は雨の中、黙々と走り出した。
交差点を渡っていた時のことだ。出かけたときより一層、雨脚が強まり、視界が悪かった。そのせいもあり、運転手の不注意もあったのだろうが、俺はトラックに轢かれた。目撃者はいなかったが、ドライブレコーダーには跳ね飛ばされる俺の姿がはっきりと映っており、事故が起こったことに疑いの余地はなかった。
トラックにぶつかられ、宙を舞ったとき、全てがスローモーションに見えた。身体が勢いよく回転し、空と路面と街並みが、視界の中でめまぐるしく移り変わった。衝突の衝撃は感じたが、痛みは感じなかった。実際には、その時点で肋骨が何本か折れていたらしいが、突然の出来事に、感覚が麻痺していたのだと思う。
幸か不幸か、路面に叩きつけられる瞬間、俺は脚から落下していた。頭から落ちていれば死んでいた可能性が高いそうなので、幸運だったということになるのだろう。右脚の粉砕骨折。全治には一年かかる。そう聞かされたとき、俺の選手生命は絶たれたのだと思った。
厳しいリハビリを続ければ、再び競技に戻ることも不可能ではないと言われたが、それは何年先のことになるのか。元通りのパフォーマンスでは不足だ。さらに上を目指していた俺にとって、元に戻れるだけでは、十分な価値があるとは思えなかった。
先の見えない絶望を前にして、俺は挫けた。
しばらくして、賠償や慰謝料の話が持ち上がり、最終的に、相手からは、治療費を含めた高額の示談金が支払われた。俺は入院していて、両親が弁護士に依頼して事を進めていたため、詳しいことは知らない。ただ、金を受け取ったからといって、瞬く間に怪我が治ることはなく、俺はどこまでも虚しかった。
中途半端な幸運のおかげか、医師も驚くことに、事故から数か月で、日常生活に支障がない程度まで回復し、俺は退院した。当然、入院中は欠席していたが、学校側の計らいで、いくらか補習を受ければ、進級できることになった。
俺は陸上部を辞め、リハビリには行かなくなり、無事に三年に進級した。以前のように振る舞うことを心掛けていたが、内心にはどこまでも広がる虚無があった。
最早、俺が走ることはない。あの日、本郷炎司は死んだのだ。
目標を失った俺は、かつての自分の脱け殻だった。何をする気力も湧かず、漫然と生きているだけだった。当時の担任だったウグイ先生は、俺を文芸部に誘った。最初は断ろうとしたが、先生は俺の空虚な心の内を見抜いていた。
「その虚しさを埋める方法がある、と言ったら、興味を持ちませんか?」
と言ったときのウグイ先生は、魂と引き換えに願いを叶える悪魔のように微笑んでいた。俺は悪魔の誘いに乗り、文芸部に入部した。部員は二年生と一年生が一人ずつしかおらず、なぜか俺は副部長にされた。
陸上競技に打ち込んでいた頃は、ほとんど本を読まなかった。入部から一か月ほどで、それまでの人生で読んだ分よりも多くの文字を読んだのではないかという気がするほどだ。何度か読書会をして、多少は面白さが分かったように思うが、心の虚しさを埋めるほどではない。暇潰しができるだけでも、何もないよりはいいと思うことにしている。
毎度のことだが、次の読書会で読む本を何にするのか、相談することになった。ここ最近、以前よりも活き活きとして見える水瀬が、場を取り仕切っている。
「さてと。希望の本がある人は?」
あまり希望が出ないのが通例だ。俺自身、特に何かの本を挙げたことはない。今回も同じだろうと思っていたが、真白が手を挙げていた。第一印象では、彼女はとても気弱そうに見えるが、そう単純なものではないことは、既に分かっている。
「ヘミングウェイの『老人と海』はどうでしょうか」
読んだことはないが、作者の名前やタイトルくらいは、さすがに知っている。
彼女がこの作品を推薦した理由は分からないが、反対する者がいないため、次の読書会は『老人と海』で行うことになった。部室にも一冊あったが、名作文学だけあり、図書室に何冊も置かれていた。俺は図書室で本を借り、帰宅してから読むことにした。
家に帰ると、従姉の白鳥茜が来ていた。彼女の実家は隣の県だが、我が家から数駅離れた地域にある大学の寮に住んでおり、今日のように時々やって来る。
「炎司、久しぶり」
「先週も会わなかったか?」
「冷たいこと言わないでよ。おばさんが、晩ご飯を食べに来たら? って誘ってくれたんだから。姪っ子として、少しくらい甘えてもいいでしょう?」
大方、俺の様子を見るように頼まれたのだろう。先日、無為に人生を浪費していることを立浪に指摘されて以来、塞ぎがちだった。家族に心配をかけるようではいけない、と思うものの、実際のところ、俺は全く立ち直っていない。
「もういい年だろうに、甘えるとか言われてもな」
「まだ二十歳ですー。あんたとは二つしか違いませんー。いい年なんて言われると、すごく年上みたいだから、やめてよね」
茜は頬を膨らませて抗議した。こんな言動をするくせに、俺より二年も長く生きているとは、しかも法学部に在籍しているとは、どうにも信じ難い。
俺は茜を放置して自室に行った。彼女のことは嫌いではないが、どうせ夕食の席でも顔を合わせるのだから、無駄話に逐一付き合う必要はない。
鞄から『老人と海』を取り出した。すぐに読もうかと思ったが、何となく気が乗らず、後回しにした。夕食では、親父に勧められた日本酒を飲んだ茜が悪酔いして、騒々しかった。酔い潰れた彼女は、簡素な客間で眠っている。以前は物置同然だった部屋だが、茜がしばしば訪問するようになって以来、宿泊できるように整理されていた。
食後、俺は自室で本を読み、その日のうちに読み終えた。『老人と海』は長い小説ではなく、数時間もあれば、十分に読み切ることができる。俺はこの作品の中に、別の生き方を選んだ自身の行く末を見たように感じた。
『老人と海』は、筋書きとしては非常に単純だ。漁師を生業とする老人が、三か月近い不漁にも挫けることなく、果敢に漁に出る。念願の大物に出会い、死闘の末にこれを殺して捕まえる。ところが、港に戻る途中、多数のサメに襲われて、せっかくの大物は無残な残骸になり果てる。
もしも、俺が陸上選手として再起することを誓って、リハビリを続けていれば、この老人のようになったのかも知れない。無謀な挑戦を続けた果てに、より深い傷を負うことになっただろう。
時刻は真夜中過ぎだった。寝る前に水を飲もうと思い、台所に行くと、同じような目的だと思うが、茜が姿を現した。頭痛がするのか、彼女は頭を押さえていた。
「炎司……。悪いんだけど、水を一杯、もらえない?」
「調子に乗って飲み過ぎるからだ」
コップを二つ用意して水を注ぎ、一つを彼女に渡した。
「酔いが回ってくると、まだ行けるような気分になっちゃうんだよね……」
俺は茜の向かいの席に座り、水を飲んだ。
茜は顔を顰めたまま、呻くように喋り始めた。
「ここ最近、あんたが落ち込んでいるみたいだって聞いた。何かあったの?」
「何もない」
他人に話すようなことは、何も起こっていない。
「まだ、立ち直ってないんでしょう。リハビリにも行かなくなったって言うし。もう、走るつもりはない?」
これまで、彼女がこの話をしてきたことはなかった。そこには踏み込まないでいてくれた。その一線を越えるほど、俺の状態が悪く見えたのだろうか。
「放っておいてくれ」
「昔は、大きくなったら茜ちゃんと結婚する、なんて言ってくれて、可愛かったのに。いつからそんなに冷たくなったの……」
「覚えがないな」
頭痛が和らいできたのか、茜は顔を上げた。彼女は二杯目の水を一息に飲み干した。
「私がどうして法学部を志望したか、あんたは分かる?」
「分からない」
実のところ、多少の興味はあるが、聞き出したいと思うほどではない。
「五年前のことよ。私の両親は詐欺に遭った。店の経営が苦しくなっていた時期に、簡単にお金を増やせると言われて、怪しい投資に手を出した。当然のようにお金は持ち逃げされて、ただでさえ膨らんでいた借金が、さらに増えただけだった」
「今は順調に経営できているはずだよな」
「うん。返済するには、店を畳んで、その分で足りなければ自己破産するしかない、ってなったときに、相談した弁護士の人が親身に対応してくれて。一部だけだったけど、騙し取られたお金も取り戻せたから、何とかやり直せた、という訳よ」
彼女は軽い調子で語っているが、当時は大変だったはずだ。立て直せたからいいようなものの、そうでなければ、彼女の両親がどれほどの後悔を抱えて生きることになったのか、考えたくもない。
「それで、私もあの弁護士さんみたいに、困っている誰かの力になれる仕事がしたいと思うようになって、今に至るのでした」
「弁護士に助けられたから、自分も弁護士になりたい、と。安直だな」
「大抵の物事は、あんたが思うよりも単純よ、炎司。陸上競技に戻る気がないなら、さっさと次の目標を決めちゃいなさい」
それができれば、苦労しない。このお気楽な従姉に、俺の何が分かると言うのか。
俺は黙ってコップを片付け、自室に戻って眠った。
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