ある作家志望者の場合 その2

 先日、湖春先輩が、小説を書こうと思ったことがあるか尋ねてきた理由は、文集のことがあったからだと分かった。書きたいものを書いていい、と言われたところで、急に題材が思い浮かぶ訳ではない。過去の文集は見られないことになったが、よく使われている題材の紹介はあった。歴代の文芸部員が文集に書くことが多かったのは、小説や詩などの創作物、または、おすすめの本の紹介文だという。

 わたしは、何を書こう。本の紹介をしておくのが無難だと思う。色々と読んでいる自負はあり、自信を持って面白いと言える作品もたくさん知っている。しかし、小説を書きたいという気持ちがあることも否定できない。かつて挑戦し、最後まで書き終えることもできずに頓挫した経験が、古傷のようにわたしの心に残っている。そのせいで、わたしは逡巡し続けた。

 もちろん、何を書いたとしても、何人かの人の目に触れるだけで、それで評価を受ける訳ではない。最悪、途中までの未完の作品でも、特段の問題はないだろう。出版されることもなければ、新人賞に応募するものでもないのだから。とはいえ、小説を書くのであれば、中途半端なものでは、自分が納得できない。

 文集に載るのは、わたしの作家人生の第一歩になるかも知れない作品だ。

 一時間ほど頭を悩ませたが、結局、何も決めることができなかった。文字数にすれば、一万字程度のノルマに苦しんでいる時点で、作家には向いていないように思う。わたしは山梨さんと合流して、家路に就いた。今日も図書館の利用者はいなくて、暇だったと言う彼女に、文集の話をした。編集長になってしまったことも話した。

「編集長……。大変そうだね。それはそうと、真白さんも何か書くんだね。もう何を書くか決めたの?」

 驚きよりも好奇心が勝ったようだった。思えば、ジャンルは異なるとはいえ、山梨さんも創作に取り組んでいる。何か、ヒントになるようなことが聞けるかも知れない。

「それが、全く何も……。小説、書いてみたいとは思うんだけど……」

「分かるなあ。読書が好きなら、一度は通る道だよね。わたしは、早々に見切りを付けちゃったけど」

「昔、挑戦したことはあるんだけど、そのときは最後まで書けなくて。完成するまで作業を続けるためのコツとか、知らない?」

「地道に取り組むくらいしか……。絵の話になるけど、わたしの場合、本当に淡々と描き続けているだけだから。一つ言えるとしたら、気負い過ぎないことかな」

 山梨さんは困ったように笑った。

 参考になるような、ならないような。今度、立浪君にも聞いてみよう。彼は何年も漫画制作に取り組んでいて、何作も描いているはずなので、完成させる、という点に関しては、全く問題ないだろう。そんなことを考えていると、山梨さんから尋ねられた。

「小説を書くとしたら、どんな内容にするつもりなの?」

「書いてみたいのはファンタジーだけど、具体的なことは何も。いいアイデアが思い付かなかったら、本の紹介にしようかな。定番らしいから」

「せっかくなんだから、真白さんの小説を読みたいけどな。応援するよ、わたし」

 気持ちはありがたいけど、どうしたものだろうか。

 帰宅したわたしは、昔使っていたノートを探した。小説のアイデアを取り留めなく書き連ねていたもので、処分するのも気が進まず、仕舞い込んで放置していた。見つけ出して中身を読んでみると、『剣と魔法のファンタジー』、『魔法使いの少女が冒険する』、『魔法の本を巡る物語』といった言葉が並んでいた。

 やたらと魔法が登場するのは、どう考えても、当時、読んでいた本の影響だろう。その頃は、主に『ハリー・ポッター』などのファンタジー小説を読んでいた。空想の世界に憧れて、それを作り出している作家にも憧れた。

 相変わらず、迷う気持ちはあるけれど、やはり小説を書いてみたい。

 『青い城』のヴァランシーは、余命僅かという状況になり、彼女に理解のある人たちが後押ししてくれたことで、好きなように生きることができるようになった。そうして、彼女は現実の世界でも青い城を見つけることができた。

 わたしの場合、文化祭の文集のために作品が必要、ということで状況が整い、山梨さんは応援してくれて、ああ見えて湖春先輩も後押ししてくれているのだろう。過去の自分に報いる意味でも、この機会を活用するべきだ。今こそ、本当にやりたいことをやるべきときだ。

 それから数日の間、書いては消し、消しては書いていたものの、一向に執筆は捗らなかった。


 会議から一週間ほど経過したある日、湖春先輩、玲花先輩と三人で話す機会があった。話題は自然と、文集の執筆状況のことになった。

「二人は、作品の執筆は進んでいるの?」

と、湖春先輩が言い、

「あたしは、一応、何を書くかは決めました。完成まではもう少し時間がかかります」

と、玲花先輩が答えた。

「……わたしは、あまり進んでいません」

 わたしも色よい返事をしたかったが、本当に全然進んでいない。こんな調子で、あと一週間くらいしか残されていないのでは、先が思いやられる。

「心配しないで、瑠璃ちゃん。私も、あまり進んでいないから。それよりも、玲花ちゃんは、どんなものを書いているの?」

 それはわたしも気になる。

「えっと……」

 答えるのが恥ずかしいのか、玲花先輩は言葉に詰まって、頬を赤らめた。湖春先輩がわたしに目配せし、わたしたちは声をそろえて言った。

「恋愛もの」

 玲花先輩は、耳まで真っ赤になった。

 用事があるという玲花先輩と別れた後、わたしは湖春先輩に打ち明けた。

「本当は、全然書けていないんです。このままだと、間に合いそうになくて」

「まだ時間はあるし、焦らなくて大丈夫よ。来週を期限にしているのだって、適当に区切りを設けておこう、というだけなのよ」

 そう言う湖春先輩は、とても余裕があるように見えた。

「先輩は、本当は書き上がっているんじゃないですか?」

 湖春先輩は目を泳がせた。

「そんなことないよ?」

 白々しい。わたしは、ジットリと湖春先輩を見つめた。彼女は両手を挙げた。

「降参。瑠璃ちゃんに隠しごとはできないわ。あっさり見抜かれるんだもの」

 わたしが焦らなくて済むように、気を遣ってくれたのだと思う。とはいえ、わたしから見ると、湖春先輩は嘘が下手だ。

「瑠璃ちゃんは観察眼が鋭いから」

と、彼女はわたしの考えを見透かしたように言った。

「悩んでいるなら、いつでも相談に乗るからね」

 いつになく優しい声音だった。

 それから、湖春先輩は、わたしに原稿用紙の束を差し出した。

「これ、私の原稿よ。創作物ではなくて、おすすめの本の紹介だけどね。よかったら、読んで感想を聞かせてもらえない? いきなりみんなに見せるより、瑠璃ちゃんに確認してもらった方が安心できるわ」

 わたしは原稿用紙を受け取り、翌日までに読んでおくことを約束した。これも編集長の仕事ということなのだろうか。


 湖春先輩の原稿は、本人の申告通り、おすすめの本を紹介するものだった。特徴的なのは、ジャンルなどの分類ではなく、そのときの気分に合う本は何か、という紹介がされていることだ。紹介されている本は、彼女の趣味で選定されているのか、何かきちんとした根拠があって選ばれているのか、よく分からない。

 わたしの勝手な推測になってしまうけれど、これは彼女の内省なのだと思う。特に印象的だったのは、読書会でも取り上げたモリエールの『人間ぎらい』の紹介だった。孤独を感じるときに読むべき本、として紹介されている。

『人間社会への嫌悪感を募らせていくアルセスト、彼が嫌悪する社会の悪習の見本のようなセリメーヌの二人には、現代にも通じる人間的欠点があると言える。他方、友情や義に篤いフィラントやエリアントといった人物には、あまり現実味がないように感じられるかも知れない。そうした欠点や非現実性を考慮してもなお、私たち読者は彼ら全員に理解を示し、自らの内に彼らのそれと似た性質を見出すことができるように思う』

と、彼女は書いていた。誰も本当の自分を理解してくれない、というようなことを言っていた当時を思い返すと、数か月の間に、随分と変わったものだと思う。

 他には、ユーモア小説で著名なP・G・ウッドハウス、SF作家のコニー・ウィリス、ハードボイルド小説のレイモンド・チャンドラーなどの作品が紹介されていた。いくつかはわたしも読んだことのある作品だったが、湖春先輩独自の切り口で紹介されていて、その文章を読むのが心地よかった。何だかんだと言っていても、彼女も本が好きなのだとよく分かる。

 読んだことがあるかどうかは関係なく、紹介されているどの作品にも興味を惹かれる。わたしに確認させずにみんなに見せても、全く問題はなかったと思う。

 翌日、編集会議(相変わらず、大げさな名前だと思う)の前に、湖春先輩に原稿を返した。

「どうだった?」

 わたしに感想を求める彼女は、見るからに好奇心で一杯だった。

「よかったですよ。わたしに全ての決定権があるなら、そのまま文集に載せます」

「本当に? お褒めに与かり光栄です、編集長」

「わたしに確認させなくても、不安なんてなかったんじゃないですか?」

「そうでもないわ。少なくとも、『人間ぎらい』のところはね。……ねえ、本当に、変じゃないと思う?」

 直前までの楽しそうな様子は鳴りを潜めて、今の彼女は不安げな表情を浮かべている。

「湖春先輩がわたしを編集長に推薦したんですから、もっと信頼してくださいよ。その文章を読んでいて思ったことですけど、『人間ぎらい』で読書会をした頃の先輩より、今の先輩の方が、わたしは好きです」

 先輩は頬を染めた。

「好き……。だめよ、誤解を招くようなことを言ったら……」

 何を言っているんだ、この人は。


 会議では、各自の執筆の進捗状況を報告した。湖春先輩は完成、玲花先輩と本郷先輩はもう少しで書き終わるという。立浪君は難航していて、わたしはほとんど進んでいない。同じ進捗不良とはいえ、立浪君の場合は、普段は絵を描いて表現しているものを文章にすることに苦労しているのであって、わたしのように、何を書いたらいいのか思い浮かばない、という段階で止まっている訳ではない。

 やりたいことをやろう、書きたいものを書こう、と決めておきながら、情けない話だと思う。考えてみれば、好きなように生きることを決意したヴァランシーも、最初は、やりたかったことを全部やるのはもう無理かも知れないけれど、やりたくないことは決してやらないことにしよう、という、やや消極的な決意からスタートする。彼女に範をとるなら、わたしも自分のペースでゆっくり取り組めばいいのだろう。文集作りに間に合わせる必要さえなければ。

 わたしがもやもやと考え込んでいると、湖春先輩の声が聞こえた。

「文集の表紙をどうするか、今日、決めてしまおうと思うけど、みんなはそれでいい?」

 みんなは口々に賛成した。

「今年は、絵を描ける立浪君がいるから、表紙にイラストを描いてもらえないかな、と考えていたのだけれど、どうかな」

「すみません、水瀬先輩。お話はありがたいんですけど、ちょっとスケジュールが厳しくてですね……」

 立浪君は苦悶するように答えた。

「忙しいなら、仕方ないわ。イラストの方が華やかになると思うけど、そう都合よく、絵を描ける人が見つかる訳でもないから」

 肝心なのは中の文章でも、表紙がきれいな本の方が、手に取って見たくなる。それなりに理解できる考え方だと思うし、文化祭で販売する、ということを思えば、売れやすくするための工夫は必要だろう。わたしは手を挙げた。

「わたしに一人、心当たりがあります。頼んでみましょうか?」

 翌朝、登校したわたしは、山梨さんの姿を探した。彼女は今日も元気に、自席で読書中だった。邪魔をしないように近付き、そっと声をかけた。

「おはよう、山梨さん」

 彼女は本を閉じて、顔を上げた。

「おはよう、真白さん」

「一つ頼みたいことがあるんだけど、聞いてもらってもいい?」

「うん」

「文芸部で文集を作る話は、前にしたよね。文集の表紙に使うイラストを頼みたいんだけど、お願いできる?」

 山梨さんは意外なほど快く引き受けてくれた。聞けば、文化祭までに美術部の活動で制作するものは、全て描き終わっていて、時間が空いているらしい。

「ありがとう」

「どういたしまして。お役に立てるようにがんばるね」

 後日、文芸部まで顔合わせに来てもらうことになった。

 昼休みになり、本郷先輩がわたしを訪ねてきた。一年生の教室に三年生が来たので、目立っている。

「真白、ちょっといいか?」

「はい」

 彼はわたしに原稿を渡した。どういう状況なのか理解するには、これだけで十分だ。

「書いたはいいが、出来にあまり自信がない。水瀬に相談したら、真白にチェックしてもらうといいと言われた。頼んでもいいか?」

 本郷先輩は決意に満ちた眼をしていた。何が彼を駆り立てているのだろうか。わたしはうなずき、承諾した。

「ありがとう。実を言うと、まずは真白に読んでもらいたかった。鋭い意見を期待している」

 本郷先輩が去ってから五分ほど経過した後、今度は玲花先輩が現れた。この先の展開は予想できる。案の定、彼女は原稿を持っていた。

「瑠璃、お願いしたいことがあるのだけど、いい?」

「原稿のチェックですか?」

「ええ。いきなりみんなに読まれるのは、ちょっと恥ずかしくて……」

 玲花先輩は恥じらうように言った。……妙なものを書いていないでしょうね。

「別に構わないんですけど、どうしてみんな、最初にわたしに見せようと思うんでしょうか?」

「それはもちろん、あなたを信頼しているから」

 彼女は断言した。

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