モンゴメリ「青い城」――ある作家志望者の場合

ある作家志望者の場合 その1

 人生の重大事は、何気ない瞬間に始まる。それは、油断しているときに降り始める夕立のようなものだ。唐突に始まり、遭遇すれば、すごく困らされる。

 後になって振り返ると、発端はあの日の帰り道でのことだったとしか思えない。その日、わたしは水瀬先輩と一緒に下校していた。雑談の中で、先輩がわたしに尋ねたのは、

「瑠璃ちゃんは今、何の本を読んでいるの?」

という、他愛のないことだった。何かしら読んでいるものがあるのが前提にされていたけど、事実、わたしが何の本も読んでいないときなどないので、間違ってはいない。

「モンゴメリの『青い城』を読んでいます」

「『赤毛のアン』の作者ね。玲花ちゃんが好きそう」

「まさに、玲花先輩の紹介です」

 少し前に恋愛相談に応じて以来、早霧先輩はわたしを、瑠璃、と下の名前で呼ぶようになり、自分のこともそうするように言ってきた。その方が親しみを感じられるそうだ。わたしには特段、そういったこだわりはなかったので、彼女の要望に合わせている。

「玲花ちゃんのことは下の名前で呼ぶのに、私は名字なんだ……」

と、水瀬先輩は不服そうだった。仕方のない人だ。

「そんなことより、面白いんですよ、『青い城』。まだ半分くらいしか読んでないですけど。湖春先輩は、読んだことありますか?」

「あるわ。せっかくだから、次の読書会で――」

 顔を輝かせて喋り始めた先輩は、急に黙り込んだ。

「どうかしたんですか?」

「そろそろ、文化祭に向けて、文集を作り始めないといけない時期だったわ。読書会はしばらくお休みね」

 言われてみれば、体験入部の頃に、そんな話を聞いた覚えがある。時期が近くなったら、詳しいことを説明する、と言っていたような。

 そして、湖春先輩は、今後のわたしの運命を決定付ける一言を発した。

「瑠璃ちゃんは、小説を書いてみようと思ったことはある?」


 夕食を終えると、わたしは『青い城』の続きを読み始めた。その間にも、頭の中に湖春先輩が現れては、同じ問いを放ってきたが、読書の邪魔なので、無視しておいた。

 『青い城』は、惨めな生活を送る主人公ヴァランシーの生涯が、運命の日の出来事をきっかけに一変していく様を描いた物語だ。タイトルになっている青い城とは、ヴァランシーが心の中に作り上げた理想の世界での彼女の住まいで、空想の中の青い城にいる間だけ、彼女は幸福だった。

 時間も忘れて『青い城』を読み耽っていたわたしは、読み終えた本を感慨深く閉じた。紹介してくれた玲花先輩に感謝しなければ。

 簡潔にまとめてしまえば、『青い城』は、ヴァランシーが自由にやりたいことだけをやって生きることを決意して、幸せになる物語だった。そこでわたしの頭に浮かぶのは、『小説を書いてみようと思ったことはある?』という湖春先輩の問いかけだった。

 以前、書こうとしたことはあるけれど、上手く書くことができず、そのまま挫けてしまった。今でも書きたいという気持ちはあるものの、再び踏み出すことはできていない。喉に魚の小骨が引っ掛かるように、心のどこかにある後ろめたい気持ちが、わたしの行動を妨げていた。

 幸福を掴むためには、自ら積極的に行動しなければならない、というのが、『青い城』の物語から得られる教訓の一つだと思う。ヴァランシーには、少数ではあったけど、彼女が行動を起こせるように背中を押してくれる存在があった。片やわたしは、小説を書きたいという望みを叶えるためには、自分一人の力で踏み出さなければならない。誰かがわたしの背中を押してくれることはないのだ。

 あの問いかけの後、湖春先輩は謎めいた笑みを浮かべて、わたしの答えを待たずに話を打ち切った。ちょうど、分かれ道に差しかかったところだった。そのせいもあって、わたしは宙吊りのまま放置されたような気持ちになった。自分が何と答えるつもりだったのかは分からない。それを決める前に、わたしたちは別れたのだった。


 文芸部で会議が開かれることになった。仰々しい言葉が使われているが、普段の話し合いと変わらない。違いと言えば、読書会で読む本ではなく、文化祭に向けて作る文集について相談することが主題になっている点だ。

 今日は全員がそろっている。湖春先輩はいつも通りのにこにこ顔で、相変わらず、何を考えているのかよく分からない。リハビリと部活動のスケジュール調整がついたという本郷先輩は、何かの本を読んでいる。立浪君は疲れたような表情を浮かべていて、漫画制作で苦労しているのだということが察せられる。玲花先輩は、真剣な眼差しで一点を見つめている。彼女の視線の先には、顧問と言いつつ不在がちなウグイ先生の姿がある。先生は玲花先輩の視線を避けるように、明後日の方向を向いていた。

 湖春先輩が一同を見渡し、会議を始めた。

「さて、事前に伝えてあった通り、文化祭についてです。例年通り、今年も文集を作成する予定ですが、他のことがやりたい、という人はいますか?」

 他の意見は出ない。消極的なのではなく、反対する理由がなかった。

「それでは、今年も文集を作りましょう。本郷君、立浪君、瑠璃ちゃんは初参加なので、一から説明します。玲花ちゃんは少し待っていてね。文集には、部員各自が書きたいものを書いて、それを掲載します。ページ数は、四百字詰め原稿用紙で、一人当たり三十枚くらいです。そして、文化祭当日に、一冊五十円で販売します。ウグイ先生、お金周りの説明をお願いできますか?」

「分かりました」

 ウグイ先生が立ち上がり、前に出た。玲花先輩と目が合わないようにしているのが、見ていてよく分かった。

「文集の作成に必要な費用は、部費で賄います。売り上げは全て、学校を通じて慈善団体に寄付されます。これは、他の部活動やサークル、各クラスの出し物も含めて、文化祭で売り上げが発生するもの全てに共通した扱いです。売り上げが良くても、翌年度の部費の増額につながることはありませんが、高評価なものには優秀者表彰がありますので、それを目指してがんばってください。文化祭は学校行事ですが、この行事を通じて、みなさんは社会経験を積み、世の中に貢献することもできるということです。

 お金の話ではありませんが、僕から一つ、注意事項を。文集には好きなことを書いてもらって構いませんが、一般常識に照らして、掲載するべきではないものについては、当然ながら、書いてはいけません。最終的な確認は僕が行いますが、みなさん自身がよく気を付けて、僕が何かを指摘する必要がないようにしてください」

「ありがとうございました、先生。そういうことなので、みんな、書くものには気を付けてください。その上で、全員が編集者として、相互に点検を行います。パソコンへの打ち込みや製本作業もあるので、都度、分担しましょう」

 言い終えると、湖春先輩は、本棚の端の方からノートパソコンを引っ張り出した。……たぶん、パソコンの保管場所としては、適切ではない。

「パソコンはこれがあるので、自由に使ってください。手書きする場合は、原稿用紙がたくさんあるので、適当に持っていって大丈夫です」

 彼女は、部室の片隅にある原稿用紙の山を指した。

 本郷先輩が手を挙げた。

「水瀬、一ついいか?」

「どうぞ」

「去年までの文集を見てみたい。部室に保管されているのか?」

「あるにはあるんだけど……」

 湖春先輩が言い淀んでいると、玲花先輩が口を挟んだ。何だか目が泳いでいて、すごく焦っているように見える。

「か、過去には囚われず、今のメンバーだからこそ作れるものを目指しましょう」

「そうね。それがいいと思うわ。無意識に真似てしまったりしないように、バックナンバーは見ないことにしましょう」

 湖春先輩が同調した。要するに、二人とも、自分が去年書いたものを見られたくないのだろう。

「黒歴史なんですね……。気になるなあ」

 立浪君が呟くと、玲花先輩が怖い顔で睨んだ。

「見ない。絶対。いい?」

 立浪君は気圧されていた。とはいえ、わたしも、二人の先輩が前回の文集で何を書いたのか、気になっていた。今度、こっそり探してみようかな。

「探したらだめだからね、瑠璃ちゃん」

 湖春先輩に気付かれてしまったので、わたしは大人しく、「はい」と返事をした。世の中には、知らない方がいいこともある。

 コホン、と湖春先輩が咳払いをした。

「それじゃあ、最後に、編集長を決めておきましょう。と言っても、実際の作業はみんなで分担するので、特に責任がある訳ではありません。執筆の相談役や原稿の確認係といった位置付けです。やりたい人はいますか?」

 文芸部においては珍しいことではないけれど、例のごとく、誰も挙手しなかった。

「希望者がいないなら、推薦で決めます。私は、瑠璃ちゃんがいいと思います」

 何を言い出すんですか。反論しなければ。

「個人に責任を持たせないとは言っても、結局は責任者ポジションですよね。肩書だけだって言うなら、部長や副部長がなるべきでは?」

「うーん……。まあ、普通はそうなんだけどね。本郷君はリハビリもあって忙しいし、私は、あんまり向いていないと思うの」

「わたしも向いていないと思いますけど……」

 なぜか分からないけれど、わたしの言葉に対して、口々に反対意見が出た。みんな、普段は率先して発言したりしないのに……。

「いやあ、マッシーは向いていると思うけどな、編集長」

と、立浪君が言い、

「そうよ。どうしても嫌なら、強制はしないわ。けど、この中で一番向いているのは、瑠璃だと思う」

と、玲花先輩が続き、

「俺も同意だ。真白になら、安心して任せられる」

と、本郷先輩まで賛同した。

「ね? みんな賛成よ、瑠璃ちゃん。引き受けてもらえると嬉しいわ」

 湖春先輩が追い打ちをかける。

 大変に断りづらい状況だった。断固拒否することもできない訳ではなかったものの、これだけみんなから期待されているのに、それを無下にするのは申し訳ない気がした。

「分かりました。やります。でも、何かあったら、フォローしてくださいね」

 主に湖春先輩の方を見て言った。わたしを編集長に推薦したのは彼女なので、問題が起こった場合には、真っ先に協力してくれて然るべきだ。

「もちろんよ。引き受けてくれてありがとう」

と言って、湖春先輩は微笑んだ。

 編集長を決めた後は、細々とした決め事がいくつかあるだけだった。会計の管理は玲花先輩、パソコンへの入力や紙面のレイアウトは湖春先輩が中心になって行うことになった。最終的な製本はみんなで行うので、役割を振られていない本郷先輩と立浪君には、そのときに馬車馬のように働いてもらおう。

 この日は早々に解散することになり、一、二週間を目途に、各自の原稿の草案を用意することになった。わたしはしばらく部室に居残って、何を書くか考えることにした。山梨さんが図書室の仕事をしている日なので、彼女の下校時刻まで残っていよう。

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