ある作家志望者の場合 その3

 放課後、わたしは部室で本郷先輩と玲花先輩の原稿を読んだ。今日は他に誰も来ていないので、ちょうどよかった。

 本郷先輩の書いたものは、おそらく自伝なのだと思う。前半は、陸上選手としての将来を嘱望されていた時期に感じていた、走ること、競うことへの挑戦や克己心について綴られ、中盤、交通事故のことが短く触れられている。後半に入ると、目標を失った空虚な胸の内が吐露され、本という架空の世界に逃げ込んだのだと記されていた。そんな彼を変えたのが、ヘミングウェイの『老人と海』だった。

 読み始めたときは自伝だと思っていたけれど、途中から創作になったらしい。文芸部は登場しておらず、その代わりのような人物が一人だけ登場していた。名前も年齢も性別も明かされないものの、本郷先輩にとって重要な存在であることは分かった。『老人と海』で読書会をしたときにわたしが提案した読書マラソンも、その人物が持ち掛けたことになっている。競技者魂に火が着いたという本郷先輩がリハビリを再開したことで、時間の確保が難しくなったため、現実には有耶無耶になってしまったが、作中ではそれが続いていた。

『それまでの俺にとって、読書は時間潰しでしかなく、心の虚しさを埋め合わせることもできていなかった。しかし、その日以来、読書は競技となった。元々、走ることを自己との対話の一種とも捉えていたが、その手段が読むことに変わっただけのことだった。競技として取り組むことで、俺は再び自分自身と向き合うことができた。

 俺は生来の競技者であり、他者と競うことこそ生き甲斐だった。競争の内容よりも、競争そのものが大事だ。正直なところ、この読書マラソンでは、俺の勝ち目は薄いが、俺は最後まで走り抜けることだろう。俺はまだ、負けてはいないのだから』

と、本郷先輩は書いている。

 難を言えば、文章が少し荒いと思うが、これは本郷先輩の心からの言葉なのだ。他人がつまらない口出しをするべきではない。『老人と海』の読書会のときにわたしが言ったのと同じような言葉を、例の登場人物が言っていて、その人物が妙に美化されている気がするものの、特徴や他の言動も併せて考えると、何人かの人の要素を混ぜた人物造形だと思われるので、あまり気にしないことにしておいた。

 玲花先輩の作品は、匿名の誰かに宛てた手紙だった。その誰かがウグイ先生であることをわたしは知っているが、明確に誰なのか分かるようなことは書かかれておらず、一般化した書き方をされているため、事情を知らない人には特定できないだろう。とはいえ、さすがにウグイ先生には分かると思う。玲花先輩も思い切ったことをするものだ。

 内容としては、長い間、離れ離れになっている恋人へのラブレターだった。読んでいて気恥ずかしくなるくらい甘い言葉が並んでいた。玲花先輩の愛情の深さが分かるけれど、知らない人が読んだら、どう思うのだろうか。お伽話のようにロマンチックな恋文、という形式の創作物と解釈しておけばいいのだろうか。

『愛しい人、あなたに会えなくなってから、どれほどの歳月が無為に過ぎ去ったことでしょう。今でも私は、幾夜となく夢に見ます。あなたの腕に優しく抱かれ、甘く響く声を聞いていたあの日々のことを。そして、耐え難い別離の日のことを。あなたは私の光、私の愛の全て。どうか帰ってきてください、愛しい人』

というような文章がずっと続いている。

 ごめんなさい、玲花先輩。わたしにはコメントできません……。


 山梨さんと文芸部の顔合わせの日になった。放課後まで待っていると時間が無くなるかも知れないと思い、わたしは休み時間を使って、本郷先輩と玲花先輩に原稿を返しに行った。

 他の学年の教室に行って変に注目されるのは嫌だけど、今回は仕方がない。幸いにも、わたしの姿に気付いた本郷先輩がすぐに出てきてくれたので、長居せずに場所を移すことができた。

「こちら、お返しします」

 わたしは原稿を差し出した。

「どんな評価でも甘んじて受け入れよう。感想を聞かせてくれるか?」

 本郷先輩が緊張した面持ちで尋ねた。

「これは、実体験を基にしたお話ですよね。先輩の苦難の道のりと、それでも折れない心が伝わってくる、いい作品だと思います」

「本当か? おかしなところはなかったか?」

「強いて言えば、ちょっと粗削りだと思いますけど、変に手を加えない方がいいと思います。もちろん、先輩が細かい変更を加えたければ、止めはしませんが」

「そうか」

 謎の登場人物について聞いてみたい気もしたけれど、余計な詮索は控えた。

 続いて、玲花先輩に会いに行った。彼女はわたしを人気のないところへ連れて行った。わたしは原稿を返した。玲花先輩は耳まで真っ赤になっている。

「読んだ?」

「……はい」

 わたしまで顔が熱くなってきた。玲花先輩は、潤んだ瞳でわたしを見つめている。

「ウグイ先生に宛てて書いたんですよね?」

 彼女は小さくうなずいた。

「でも、さすがにこれを英一くんに渡したりはしないわ。これは、あたしの想いの丈を綴った創作物で、本物のラブレターは別のものを書いたから――」

 先輩は慌てて口を噤んだけれど、わたしは聞き洩らしていない。

「進展はありましたか?」

「ううん。まだ、何もないわ。本番はこれからよ」

「応援しています」

「ありがとう。それで、読んだ感想は?」

 玲花先輩は原稿を軽く持ち上げた。再び頬が赤くなってきていた。

「砂糖を煮詰めたみたいな甘さでした」

「良くなかったということね……」

「悪いとは言いません。そんなことはないですから。ただ、一読者として読む人にとっては、ちょっと戸惑うかな、と」

 わたしは一応、ある程度の事情を知った上で読んだので、気恥ずかしい思いの方が強かったが、何も知らない人からすると、おそらく、かなり困惑する内容だと思う。

「実は、自分でもそう思っているの。人に読んでもらうものではないような気はしていたのよ。ただ、今、何が書きたいのかを考えると、これしかなくて」

 玲花先輩は卑下し始めてしまったが、書きたい気持ちを否定する必要はないと思う。問題は、文化祭で販売する文集に掲載するには、扱いづらいものだという点だった。

「今、思い付いたんですが、手紙の形式になっているから、読者が置いていかれるんじゃないでしょうか。いっそのこと、詩にしてみるのは、どうですか?」

「できるか分からないけれど、やってみるわ」

 そう言って微笑む玲花先輩は、とても素敵だった。


 放課後になり、わたしは山梨さんを伴って、部室に向かった。彼女は、緊張と不安で気分が悪くなってきたと訴えている。全くの初対面ではないとはいえ、ほとんど知らない人たちの前に引っ張り出されれば、無理もないことだと思う。

「大丈夫だよ。怖い人たちじゃないから」

「でも、こんなことを言うのはよくないと思うけど……。本郷先輩は厳しそうだし、早霧先輩は冷たそうだし、立浪君は勢いがあり過ぎて苦手で。水瀬先輩には、底知れない闇のようなものを感じる……」

 間違っているとも言い切れないので、否定しづらい。それにしても、湖春先輩はすごい言われようだ。

「まあまあ。ちゃんと話してみれば、仲良くなれるよ。悪い人たちじゃあないからね」

 何を言っても、山梨さんの不安は消えないようだった。あの四人との接点は、図書委員の仕事くらいのはずだけど、随分と苦手意識が強いらしい。おそらく彼女は、わたし以上の人見知りなのだろう。

 部室のドアを開けると、既に部員はそろっていた。わたしたちが到着した直後に、ウグイ先生もやって来た。山梨さんはすっかり固まってしまっていたので、一先ずわたしが彼女を紹介した。

「こちらは、同じクラスの山梨香織さんです。図書委員なので、みなさんも会ったことはあると思います。山梨さんは美術部に所属していて、文集の表紙をお願いしたら、快く引き受けてくれました」

「山梨です。よろしくお願いします」

 文芸部側も簡単に自己紹介した。挨拶が済むと、山梨さんは鞄から数枚の絵を取り出した。スケッチブックから破り取ったもののようだった。

「早速なんですけど、表紙の案を考えてきました。この中にいいのがあればそれで仕上げますし、他のデザインの方がよければ、どういうものがいいか教えてください」

 文芸部の文集ということを念頭に置いてくれたのだろう。本を読んでいる人や何かの文章を書いている人、本を手に話し合っている人たち――おそらく、読書会の様子を描いたもの――などがあった。

「上手いな……」

 立浪君が呟いた。気落ちしているように見えるのは、なぜだろうか。わたしや他の三人も口々に賞賛し、山梨さんは謙遜していたものの、緊張は解れたようだった。

 わたしは知っている。山梨さんは、相手に慣れてしまえば、むしろよく喋る方だ。

「実は、わたしの中では、文芸部のみなさんは結構、特別なんです。図書室に本を借りに来る稀少な人たちということで」

「そんなに珍しいの?」

 湖春先輩が尋ねると、山梨さんはうなずいた。

「はい。図書室に来る人のほとんどは、勉強場所として利用するだけなので。だから、みなさんの顔と名前だけは、前々から知っていました」

「そうだったの。山梨さんも読書は好き?」

 玲花先輩の質問に、山梨さんは明るく笑って答えた。

「もちろんです。早霧先輩とは、趣味が合うんじゃないかと思っています。先輩、オースティンやモンゴメリの作品、お好きですよね」

「ええ。どうして分かったの?」

「何度か貸し出しの対応をしたので。きっと、好きなんだろうな、と思っていました」

 山梨さんが楽しそうにしてくれているのは、わたしとしても嬉しい。が、何となく胸の奥にわだかまったものを感じる。このときのわたしの様子を見ていたと言う湖春先輩が、後に指摘したところでは、友だちが他の人と仲良くしているのを見て、わたしは少々、嫉妬していたらしい。湖春先輩は、私も瑠璃ちゃんのことで、同じような気持ちになるわ、と付け加えた。

 話し合いの末、読書会の様子を描いた絵が採用されることになった。山梨さんは、

「わたしの構想では、水彩画にして柔らかい雰囲気にするつもりですが、それで構いませんか?」

と言い、みんなが賛成した。ウグイ先生によると、文集の表紙として印刷するときには、職員室の複合機でスキャンしてデータにすればいいらしい。わたしには何のことなのかよく分からなかったけど、山梨さんは気にしていたので、大事なことなのだろう。解決してよかった。

 山梨さんはこのまま、編集会議を見学していくことになった。会議は例のごとく進捗報告で、今日は一応、原稿の草案の期日だった。まだ構想を練っている段階のわたしには、提出できるようなものはない。

「だいぶ余裕のあるスケジュールだから、大丈夫よ。もう二週間くらいの間には、何かしらできていてほしいけれどね」

と、湖春先輩はわたしに優しく声をかけた。彼女には、苦戦していることを見抜かれているのだろう。

「立浪はどうだ? 今日は随分と口数が少ないようだが」

 本郷先輩の言葉を聞いた立浪君は、暗い表情で応じた。

「山梨さんの絵を見て、何だか自信がなくなってしまって……」

「あの、ごめんなさい……」

「山梨さんが謝ることじゃないよ。完全にオレの問題だから。君の絵からは、物語が伝わってきたんだ。オレの描く漫画よりも、ずっと雄弁だった。せっかくだから、見てもらおうか」

 立浪君は紙束を取り出した。原稿用紙ではない。

「オレの原稿です。一応、完成しています」

 立浪君は、漫画を描いてきていた。

「最初は、ちゃんと小説を書こうとしたんです。でも、どうしても上手く書けなくて、漫画にしてしまいました。見てもらえれば説得できるつもりだったんですけど、山梨さんの絵と比べると、どうしても見劣りする気がして……」

 いつもの自信ある様子は鳴りを潜めていた。彼の様子は気になったが、みんなで立浪君の作品を読んだ。

 作品の内容は、本の世界に迷い込んだ主人公が、正体不明の案内人の手を借りて脱出を目指す物語だった。主人公は行く先々で様々な困難に直面し、案内人はその都度、助言の言葉を口にする。面白いのは、案内人の助言は的確なこともあれば曖昧なこともあり、主人公にとって役に立つときもあれば、役に立たないこともあることだ。明らかに状況に合わない言葉だったり、言い回しが複雑すぎて意味が分からなかったりすることもある。

 おそらく、脱出を目指す主人公は、漫画家を目指す立浪君自身の投影で、案内人は、文芸部員も含めた彼の周りの人たちがモデルになっている。案内人の台詞に、どこかで聞いたような言葉が時折現れるのは、そのためだろう。

『諦めないことが肝心だ。進まなければ道は拓けない』

『人生の真価は友情にある。友を見捨てるな』

といったことを、案内人は言う。主人公はあまり喋らないが、一貫して前向きで、その姿には目標にひたむきな立浪君が重なる。

 みんなが一通り読み終えたことを確認した立浪君は、文芸部の方針に反して漫画を描いてきたことの釈明を始めた。

「オレが無理に小説にするより、この方が絶対に面白いと思ったんです。一応、小説でも書き上げたんですけど、読めたものじゃ――」

「もし、あたしが反対すると思うなら、それはない、と先に言っておくわ」

 玲花先輩の言葉に、立浪君は驚いた顔をした。わたしとしても意外だった。誰かが反対するとしたら、それは彼女だった。元々、他は肯定派か中立だった。

「いいんですか?」

「ええ。立浪が真剣に漫画を描いていることは知っているから。最初の頃の、立浪のことをよく知らなかったときとは状況が違うわ」

「ありがとうございます」

 湖春先輩と本郷先輩、わたしも、この漫画を文集に載せるべきだと支持した。ウグイ先生は考え込んでいるようだったが、結局は賛成した。

「他の先生方が何か言ってくるようなら、僕が何とかします。せっかく、君が一つの答えに辿り着いたんですから」

と、ウグイ先生は言った。彼の言葉に、立浪君は感激したようだった。たぶん、この二人の間で何かしらの話をしたことがあるのだろう。

 立浪君は、山梨さんにも感想を求めた。ジャンルは異なるものの、絵を描く者同士、忌憚のない意見が聞きたい、ということだった。

「どうして未だに漫画家デビューできていないのか、不思議なくらいだよ。ストーリーはもちろん面白かったけど、絵だって上手だし、細かいところまですごく手が込んでいて、心血を注いだ作品なんだ、って一目で分かった。こんなに描けるのに、他人の絵を見て自信を無くしたりしたら、もったいないよ」

「ありがとう」

 立浪君は照れたように笑った。

 わたしの思い違いでなければ、それからというもの、彼が山梨さんに向ける視線には、どこか熱っぽいものがあった。山梨さんの方には、気付いている様子がないので、わたしは何も言わないことにした。

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