モリエール「人間ぎらい」――水瀬湖春の場合
水瀬湖春の場合 その1
私は、親切で優しく、気配りのできる人間を演じている。わざわざそんなことをするのは、周囲の人たちとの間に、波風を立てないようにするため。しかし、表向きの振る舞いと自分の内面に齟齬があることは、それ相応の苦痛をもたらす。
私、水瀬湖春にとって、その苦痛は、いよいよ耐え難いものになっていた。
今回の読書会で取り上げる作品は、モリエールの『人間ぎらい』。この作品は小説ではなく戯曲で、人物名の後に台詞が書かれるという、台本のような形式になっている。一般的に、よく知られた戯曲作家としては、シェイクスピアの名が挙げられるだろう。
部室の本棚にあったこの本を何気なく手に取って以来、時折読み返している。殊更に面白いと思った訳ではないが、何となく気に入っている。私にとって、本の好みなど、そんなものだ。偶然の出会いに、多少の当たり外れがあるだけのこと。
『人間ぎらい』は、簡単にまとめれば、誠実さや正直さを旨とする主人公のアルセストが、その信条に固執するあまり周囲に馴染めず、遂には人間社会から逃れることを決意する物語だ。
十七世紀のフランスを舞台とした物語のため、時代背景など、現代日本の感覚からすると分かりにくい部分もあるものの、私はこの主人公に共感を覚えた。私と似ているのではなく、私とは正反対だと思った。私は外面を取り繕ってばかりいるが、アルセストはそうしたことを一切せず、それどころか、そのような行為を悪と断じている。
言うなれば、アルセストは、私とは真逆の存在だった。遠いものを近しく感じるのは、私が捻くれているからだろうか。
読書会で『人間ぎらい』を取り上げることになったのは、私が推薦したためだ。そのときのみんなの反応は様々だったが、普段扱っているような小説ではなく、戯曲であるという点が気になったようだった。
本郷君は、こういうのも悪くない、と肯定的だった。彼らしいことだと思う。玲花ちゃんは、私が本を推薦したこと自体を意外に思ったようだった。確かに、普段は敢えて推薦することはないし、珍しいと言えば、その通りだろう。立浪君は、ページ数が少ないことを指して、読むのが楽だと喜んでいた。別に彼は、文字の多い本が苦手な訳ではないと思うのだけれど。真白さんに関しては、どう思っているのかよく分からない。
ちょっとした議論を呼んだものの、ウグイ先生の後押しもあり、採用されることになった。
戯曲ということで、せっかくだから、役を割り振って読んでみよう、とはウグイ先生の発案だ。日常生活では使わないような言葉が出てきたり、翻訳自体が数十年前に行われたもののためか、耳慣れない表現が使われていたりするが、実際に声に出して読むのは面白い試みだと思う。しかし、それによって、私がこの本を推薦した元々の意図は、曖昧になってしまう。
変に趣向を凝らすことなく、普通に読書会をする方がよかったが、当然、私はそんなことを口に出したりしない。みんなが乗り気でいるところに水を差すのは、人間関係の円滑さを損なう。
私が『人間ぎらい』を推薦したのは、アルセストに対する私の捻くれた共感を、誰かが汲み取ってくれることを期待しているからだ。私は常に演技をして生きている。一本気で取り繕うことなどしないアルセストとは正反対だ。他人に合わせてばかりいる私が、他者に迎合しない彼に共感を覚えることは、私の倦み疲れた内心の発露だった。
水瀬湖春は誰にでも優しく、分け隔てなく親切で、いつも気配りを忘れない。自ら作り上げてしまった私という人間のイメージが、私の人格を縛り付けている。これは本当の自分じゃないという思いは日ごとに強くなり、今や息もできないほどの苦しさだった。
身勝手な願いかも知れないけれど、私は理解者が欲しい。この読書会は、そのための試金石だった。
役の割り振りは、主人公アルセストが本郷君、彼の友人フィラントが真白さん、アルセストが想いを寄せる未亡人セリメーヌが私、セリメーヌの従妹エリアントが玲花ちゃんとなった。他に何人もいる登場人物は、せっかくだから色々な人物を演じてみたいという立浪君が、ウグイ先生と分担しつつ、一手に引き受けることになった。
私がセリメーヌ。お似合いの役どころだ、と私は自嘲した。彼女は、できるだけ聞こえ良く表現しても、精々が八方美人で、はっきり言ってしまえば、不実な人間だ。誰に対してもいい顔をしておいて、擦り寄ってくる相手を弄んでいる。さすがに私は、他人を弄んだことはないが、結局のところ、八方美人ではある。似たようなものだ。
セリメーヌは見た目が美しく、アルセストは彼女の欠点を承知しながら、その美貌のために、彼女を愛さずにはいられない。それは皮肉を通り越して、いっそ醜悪ですらある。誠実だ、正直だ、と言いつつ、彼は外見で人を選んだ訳で、この部分だけは、どうしても彼に共感することはできない。
体験入部の読書会で取り上げた『星の王子さま』も音読だったが、今回はそのとき以上に時間がかかった。本の厚さは同じくらいでも、文字の密度が全く異なる。二週間ほど、文芸部は演劇部のようになっていた。意外とみんな、演技に熱が入っているのが面白かった。
翌日、全員が部室にそろうと、
「それでは早速、『人間ぎらい』を一通り読んだ感想を、一言ずつお願いします」
と、ウグイ先生が言った。私から頼んで、今回は先生に司会を務めてもらっている。
「何だか難しい話だと思いました」
と立浪君が言うと、本郷君も同調して、
「確かに、それは俺も思った」
と言った。先生は笑って聞いていたが、難しかった、だけで済ませるつもりはないようだった。
「それはそうかも知れません。しかし、感想がその一言だけでは味気ないですね。例えば、特定の登場人物について、思ったことはありませんか?」
玲花ちゃんが、普段よりも強い口調で切り出した。
「あたしは、セリメーヌのこと、好きじゃありません。男の人を大勢たぶらかして、結局、最後まで誰か一人を選ぶことはしない。最低です」
私自身、セリメーヌに対して良い印象がある訳ではないが、ここしばらく、自分が役を担当していたせいか、少し肩入れしたくなった。
「周りの人たち全員からの印象を良くしようと振る舞った結果として、あんな風になっただけかも知れないでしょう?」
「セリメーヌだって頭が悪い訳じゃないんですから、限度を考えるべきですよ」
擁護は無駄なようだ。まあ、玲花ちゃんは恋愛小説が好きだから、その辺りの嗜好も影響しているのだろう。案の定、
「アルセストも大概ですよ。外見がいいからってセリメーヌに惚れ込んで、自分に想いを寄せてくれているエリアントには、セリメーヌに振られたら君を選ぶとか何とか、都合のいいことを言ったりして」
と、アルセストに対しても、かなり怒っているようだった。その点に関しては、私も彼を庇う気はない。
立浪君が、面白がるような笑い声を漏らした。
「そうですね。オレがアルセストだったら、さっさとエリアントに乗り換えますね。彼自身、セリメーヌの不実さを憎んでいる訳ですし、執着することないのに」
玲花ちゃんが立浪君をキッと睨んだ。今の発言は立浪君の言葉選びが悪いが、わざとそういう言い方をしたのではないかと思う。彼は時々、そうやって他人の反応を観察しようとしているような感じがする。人間観察ということだろうか。
玲花ちゃんは純愛ものが好きだから、気軽に相手を変えればいい、という考え方は受け付けないと思う。実際、眉間に皺を寄せて、険悪な表情をしている。不穏な空気を察知したのか、本郷君が割って入った。
「俺はアルセストの友人のフィラントに好感を持ったな。アルセストの頑なな振る舞いに呆れつつも、彼の友情は少しも揺らがないのがいい」
「確かに、フィラントがいたからこそ、アルセストはどうにか人間社会の中でやってこられたのかも知れないわ。でも、そのフィラントでさえ、アルセストの理解者ではない訳でしょう。フィラントの方はともかく、アルセストから見て、彼が他の人と区別されるほど特別な友人だったのかは疑問だわ」
私の少々冷たい言葉に、それまで黙っていた真白さんが応えた。
「アルセストは、理解者なんて必要としていないと思います。フィラントやエリアントの存在は、彼にとって不可欠なものではないです」
理解者が、いらない?
真白さんは淡々と続けた。
「自分はこうありたい、周囲の人たちにはこうあってほしい、という思いは、誰でも持つと思います。彼はその思いが人一倍強いんだと思いますが、それほどまでに信念を強く持てる人が、支えてくれる友人を求めるとは思えません。
それでも、理想と現実が食い違っていれば苦しくなりますし、自分が現実の方に合わせないといけなくなったら、逃げ出したくもなると思います。とはいえ、わたしには、アルセストの気持ちは分かりませんし、彼のような生き方はできません。
理解者がいたとしても、彼は変わらないでしょう。でも、それでいいんだと思います。フィラントが友人として接してくれるだけで、十分なんじゃないでしょうか」
彼女の言葉を聞いたとき、私は胸がいっぱいになった。彼女は私のようにアルセストに共感を覚えるでもなく、彼の気持ちも分からないと言う。それでも、彼の在り方を否定することはない。私は、目頭が熱くなるのを必死で抑えた。
「そうね。理解はしてくれなくても、友人でいてくれる人がいれば、それだけで満たされるものなのかも知れないわ」
私は、理解者ではなく、親友をこそ求めるべきだったのだ。
「自分の生き方を貫くのは大変だし、他人に合わせてばかりいるのも苦労する。どちらにせよ、そんなことを続けていれば、人間嫌いになっても無理はないでしょうね」
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