水瀬湖春の場合 その2

 その日の帰り際、私は真白さんを呼び止めた。疚しいことがある訳ではないが、他の人に聞こえないように、小声で話しかけた。

「あの、真白さん。よかったら、どこかに寄らない?」

「……いいですよ」

 答えるまでに間があったけれど、嫌な訳ではないと思いたい。真白さんはあまり表情が変わらないので、本当はどう思っているのか、推測するのが難しい。

 帰り道からは少し外れるが、駅の近くの喫茶店まで真白さんを連れて行った。レトロで落ち着いた雰囲気の店で、以前から、静かに過ごしたいときに利用している。

 注文した紅茶を飲みながら、真白さんの様子を窺った。話がしたいと思い、咄嗟に呼び止めてしまったが、何をどう話すのか、何も考えていなかった。真白さんは、コーヒーをブラックのまま飲み、「うっ、苦い……」と呟いた後、砂糖とミルクを入れてかき混ぜている。

 カップに目を落としたまま、彼女は唐突に言った。

「水瀬先輩は、人間が嫌いなんですか?」

 私は思わず固まってしまった。

「フィラントはアルセストの理解者ではない。アルセストに親友はいない。そんなようなことを言っていましたよね。それは、先輩自身のことなんじゃありませんか? 周囲に馴染めない、他者と分かり合えない、という気持ちがあるからこそ、アルセストと自分を重ねたのでは?」

 私は、真白さんのことを誤解していた。彼女は内気な子だと思っていたし、それはそれで間違っていないが、その思考は非常に鋭く、ある意味では冷酷なほどだ。一瞬だけ私の方に向けられた視線は、切れ味の優れたナイフのようだった。

 私は、数年前のことを訥々と語った。

「中学では吹奏楽部に所属していたの。四、五十人いる大所帯の部だったから、それだけ人間関係も複雑で。誰かが調整役になって、円滑に活動できるように気を配る必要があったのよ」

「率先してその役割になったんですか」

「いつの間にか、そうなっていただけ。とにかく、部内に波風が立たないように、いつも誰かに気を遣って、人の顔色ばかり窺っていたわ。すごく疲れたし、誰が労ってくれる訳でもないし、嫌になっても仕方ないでしょう?」

「そして、良い外面を貼り付けておくのが癖付いてしまった、と。先輩はいつも優しいし親切ですけど、それは本当の水瀬先輩ではないんですね」

 全くもってその通り。何から何まで言い当てられてしまう。

 真白さんは淡々と言葉を紡いだ。

「普段の振る舞いと自分の本心が乖離しているせいで、これは本当の自分じゃない、と思って苦しんできた、とかですか。そのせいで人間自体が嫌いになってしまったけど、誰かが本当の自分を理解してくれれば、何か変わるかも知れない、と?」

 あまりにも言い当てられる上に、何だかどうでもよさそうに言われるのが、少し癪だ。

「もし、そうだとしたら? 外面が良いだけで、本当はみんなのことを嫌っているとしたら、私のことは嫌いになる?」

 真白さんは冷めた目をしていた。

「本当に嫌われているなら、関わらないようにします。はっきりと宣言してもらえると、分かりやすくて助かります」

 彼女の言葉は、酷く冷たく聞こえた。

 文芸部のみんなのことは、嫌いではない。というより、私は人間全般を嫌っているのであって、特定の個人について思うところがあるのではない。

「……意地の悪いことを言いました。ごめんなさい」

 私は頭を下げて、そのままうつむいた。

 しばらく沈黙が続き、真白さんはもう帰りたいだろうと思っていたが、カップを置く音がして、彼女は再び喋り始めた。

「水瀬先輩は、本当の自分がどんな人間だと思っているんですか?」

「それは――」

 すらすら答えられると思ったが、改めて聞かれると、答えに詰まる。本当の私とは?

「……少なくとも、誰かれ構わずいい顔をするのは、違うと思う。私はそこまで親切でも善良でもないし、面倒だと思うときもあるもの。本当は、もう少し利己的なのよ」

「それじゃあ、したいようにしたら、いいんじゃないですか?」

 私は戸惑っていた。私の困惑を見てとったのか、真白さんが問いかけてくる。

「どうかしましたか?」

「えっと、結局、私は、いくらか好きなように振る舞えれば、それでよかったのか、と思うと、何だか脱力感が……」

「よかったですね。問題解決ですよ」

 真白さんは、やはり、どうでもよさそうに言う。これは、私の問題について、本当に関心がないのだろう。おそらく、考えていることは理解できるけれど、共感はしない、ということだ。

「瑠璃ちゃん」

「えっ、あの、はい」

 急に下の名前で呼ばれた彼女は、うろたえていた。

「私の話、どうでもいいと思ってない?」

「まあ、割と……。正直、悩むようなことにも思えなくて。自分らしさが何かは、自分一人で決めればいいじゃないですか。他の人との関係で判断することないですよ」

 こうして、私の数年来の悩みは、瑠璃ちゃんの手で、悩むことですらないものとして片付けられた。

 彼女の付かず離れずの無関心さに、私は救われる思いだった。読書会でのことを思い出し、

「理解者がいなくても、友人がいれば、それで十分、だったかしら」

と、瑠璃ちゃんの発言を引き合いに出した。私は理解者も得られたように思うが、彼女はそれを認めてくれないだろう。

「私、瑠璃ちゃんの前では、本当の自分でいられそう」

「えー。どうせ大して変わらないでしょうけど、好きにしてください」

 瑠璃ちゃんは何だか嫌そうに言ったが、口元には面白がるような微笑が浮かんでいた。


 数日後、文芸部で話し合いが行われた。議題はいつもと同じで、次の読書会で読む本を何にするか。稀にウグイ先生が提案することもあるが、基本的に、部員だけで相談して決めている。もっとも、今のメンバーには、自分から希望の本を挙げる人が少ないので、あまり活発な話し合いにはならない。

 部長として、私が何か提案するべきだろう。以前の私なら、その時々で気に入っている本を適当に選んでいるが、瑠璃ちゃんのおかげで、私は少しだけ変わった。せっかくなら、文芸部のみんなのためになるような本を提案したい。

 本郷君は割と熱血漢のような印象があるが、その実、無気力な人だ。彼が文芸部に入ったのは昨年の冬の終わりのことで、それ以前は陸上部で活躍していた。選手としての将来も期待されていたが、怪我で再起不能になったらしい。長く打ち込んできたことが急に消えてしまった衝撃から、まだ立ち直ることができていない。

「本郷君は、何か希望はないの? 前回は私の希望だったから、次は副部長が、というのは順当だと思うけど」

「特にないな。元々、あまり本を読む方でもないからな」

 予想通り、消極的な回答だった。私は本棚から一冊を選んで手渡した。レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』。

「これはどう? 何となくだけど、ハードボイルドは気に入りそうだと思って」

「見てみよう」

 彼はパラパラとページをめくり始めた。元気が出るかは分からないが、面白い作品であることは間違いない。他にも何か、彼のためにできることがあるといい。

 立浪君は、漫画家という夢を語って憚らない。読書会の対象を漫画まで広げれば、色々と希望を出してくれそうな気もするが、小説方面はからっきしだ。彼の夢は応援するとしても、この評価は今のところ変わらない。

「水瀬先輩。オレには、何かお薦めはないんですか?」

 考えてみたが、すぐには思い付かない。私が困ったような表情を浮かべたせいか、玲花ちゃんが立浪君を咎めた。

「湖春先輩を困らせないで。まずは自分で探せばいいじゃない」

「部長の慧眼に適った作品なら、間違いなしだと思ったもんで」

「その言い方、先輩のことを馬鹿にしてない?」

 私はそんな風には思わなかったが、玲花ちゃんの性格だと、気になってしまうのかも知れない。

「まさか。そんなことありませんよ。思ったんですけど、早霧先輩は、ちょっと思い込みが激しいんじゃ――」

「立浪君」

 私は普段よりも冷たい声を出して、彼の言葉を遮った。

「怒らせて反応を見たいのかも知れないけど、人間観察はほどほどにしてね」

 彼は虚を突かれたような表情になり、普段とは打って変わって、自信なさそうな様子になった。

「すみませんでした。気付かれるとは思わなくて……」

「気付かれなければ大丈夫、というのも感心しないけど、謝るなら、私じゃなくて、玲花ちゃんに」

「はい。早霧先輩も、すみません」

 立浪君の変化に、玲花ちゃんは戸惑いを隠せていなかった。

「どういうこと?」

「クールに見えて怒りっぽいのが面白くて、わざと怒らせるような発言をしたことがありました」

「何それ……」

 この二人のことは、少し長い目で見た方がよさそうだ。放っておいても、勝手に良好な関係になっていてくれると、私も気楽でいいのだけれど。

 玲花ちゃんとは、今の部員の中で、一番付き合いが長い。今年になって、瑠璃ちゃんと立浪君が入部するまでは、彼女が唯一の後輩だったということもあって、自然と、ある程度までは仲良くなった。しかし、彼女は素直な子で、私は捻くれている。そのせいで遠慮してしまい、それほど親しくしてこなかったが、それも変えていきたいと思う。

「玲花ちゃん。立浪君も反省しているようだし、彼のことは一先ず放っておいて、読書会で読みたい本はない?」

「今は目ぼしいものがなくて……」

 申し訳なさそうにされてしまった。彼女にも本棚から取り出した本を渡した。ロバート・F・ヤングの『たんぽぽ娘』。文芸部の蔵書が豊富で助かる。玲花ちゃんは恋愛小説が好きだ。正統派の作品を読んでいることが多いけれど、たまには変わったものも試してみるといいと思う。彼女の世界を広げてくれるはずだ。

「SFだけど、きっと気に入るわ」

「読んでみます」

 瑠璃ちゃんとは、先日たくさん話したが、彼女の本の好みは聞いていなかった。時々、部室で読んでいる本は、作者もジャンルも様々で、幅広く色々な作品を読んでいるということは分かる。私が順番に尋ねていたため、次は自分が聞かれると思ったらしく、彼女は自分から発言した。

「オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』はどうですか?」

 容赦がないな、と思った。

 『ドリアン・グレイの肖像』は、悪事を重ねる美貌の青年の醜さを、身代わりの肖像画が吸い取り、青年はいつまでも若く美しくいられる、という話だ。私が気にしていた、そして、『人間ぎらい』のアルセストが拒絶していた、外側を取り繕っているが、中身は全く違う、ということに通じる内容と言える。

 遠慮のない発言は、瑠璃ちゃんが私に無関心だからなのか、友人だと思ってくれているからなのか。好きに選んでいいのなら、私はもちろん、後者を選ぶ。彼女が本当はどう思っているのだとしても、友人らしい振る舞いをしてくれるのなら、それでいい。アルセストには悪いけれど、以前ほどには、彼に対して共感を覚えない。

 私は、もうしばらく人間社会で生きてみよう。逃げ出す必要はない。ここには、私の友人たちがいるのだから。

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