アンデルセン「絵のない絵本」――ある美術部員の場合
ある美術部員の場合
図書委員の仕事の一つに、放課後、図書室の貸し出しカウンターで受付をする、というものがある。貸し出し利用者はほとんどいないので、実質的には、ただ座っているだけの仕事だ。司書の先生は、
「山梨さんは、よく働いてくれて、助かるわ」
と言ってくれるが、わたしのしていることと言えば、カウンターに座って、本を読んでいることだけだった。
全委員が交代で担当することになっている仕事だけど、自由参加の美術部に籍を置いているわたしは、放課後の時間が確保しやすいので、他の人より多くカウンターにいる。そういう意味では、よく働いているという評価も間違いではないかも知れない。しかし、わたしが図書室での仕事に志願しているのには、ある不純な理由がある。
最近、わたしには、とても気になっている人がいる。クラスメイトの真白さん。彼女は文芸部に所属していて、図書室にもよく本を借りに来る。教室にいるときも、ほとんどいつも本を読んでいて、読書が好きなことは間違いない。
わたし自身、本は好きなので、読書好き同士、真白さんとは友だちになれるんじゃないか、と思っている。けれど、話しかける勇気がない。別に彼女が冷たいとか怖いとかではなく、わたし自身の人見知りのせいで、この一月半ほどで交わした会話は、本の貸し出しのとき、型通りのやり取りをしたのが精々だった。
時々、自分も文芸部に入ればよかったのかな、と思うこともあるけれど、昔から、絵を描くのも好きで、高校では美術部に入ることに決めていた。絵を描いている間は、一人で黙々と作業に没頭できる。自分の世界に、好きなだけ浸っていられる。美術部に入ったことに関して、わたしには一片の後悔もない。
普段から図書室の利用者は少なく、一番よく来るのは、文芸部の人たちだった。しばしば顔を合わせるので、いつの間にか全員覚えてしまった。彼ら彼女らは、わたしのことを一介の図書委員としてしか、認識していないのだろうけど……。他の利用者の大半は、図書室を勉強スペースとして使っているだけで、本には興味を示さない。
普段は、カウンターにいる図書委員は二人だけど、今日はもう一人が急用だと言って帰ってしまったので、わたししかいない。利用者はと言えば、本を借りに来る人がいないのはいつものことで、珍しいことに勉強している人もいない。そのため、今、図書室にはわたししかいない。
今日はいつにも増して暇ということだけど、読書が捗るから構わない。目下、わたしが読んでいるのは、アンデルセンの『絵のない絵本』。自身、絵を描いているため、タイトルに釣られて読み始めた。短い作品で、すぐに読み終えてしまったけど、印象に残る描写が多く、既に何度も読み返している。
『絵のない絵本』は、都会で寂しく暮らす画家に、故郷にいた頃からの友だちである月――文字通り、夜空に浮かぶ月――が、その晩やそれ以前に見た出来事について語り聞かせてくれる、という物語だ。月は、自分の話すことを絵に描くように、と画家に言う。そうすれば、きれいな絵本ができる、と。これが、『絵のない絵本』というタイトルの所以だと思う。
わたし自身は、美術部で少しばかり絵を描いているだけで、画家ではないし、目指している訳でもない。作中の画家と自分を重ねて考えるのは、さすがに自意識過剰だと思う。それでも、画家の境遇に何となく共感して、ちょっとした好奇心から、『絵のない絵本』の絵を描いてみようと思った。
作中には、全部で三十三の物語が登場するが、その全てをしっかり描くのは無理があるので、気に入ったものを選んで、それを描くことにした。最初に描き始めたのは、第二十八夜で語られる白鳥の物語。群れからはぐれた白鳥が、再び仲間に追い付くために飛んで行く。わたしには、この話が一番印象深かった。
白鳥の孤独と憧憬が胸に沁みる。
場面のイメージは、すぐに頭に浮かんだ。しばらくは調子よく描いていたものの、納得のいく仕上がりにすることができず、今ではすっかり煮詰まってしまっている。絵筆を置いて、考える時間を取ることにしたけど、何が問題なのか分からず、一向に解決しそうにない。
思索に耽っていると、ふと、人の気配を感じた。顔を上げると、数冊の本を持った真白さんが立っていた。本を借りに来たのだろう。わたしは慌てて自分の本を閉じ、彼女の貸し出しの手続きを始めた。
真白さんが持ってきた何冊かの本の中に、『絵のない絵本』があった。思いがけない偶然に、わたしは、あっ、と声を上げてしまった。真白さんは不思議そうな表情になった。ああ、こういうときには、どうすればいいんだろう、とわたしは頭を抱えたかった。
「山梨さんも読んだの? その、『絵のない絵本』」
真白さんは、わたしが置いた本に気が付いたらしい。と、思ったところで、彼女に名前を呼ばれたことに気付いた。
覚えてくれていたんだ。クラスメイトの名前くらい、知っているのが普通かも知れないけれど、わたしは嬉しかった。
「うん。もう何回読み返したか、分からないくらい」
「そうなんだ。わたしも、久しぶりに読んでみようと思ったんだよね。時々、思い出したように読みたくなる、不思議な魅力のある作品だと思う」
真白さんと普通に会話するのは、不思議な感覚だった。わたしも彼女も、教室では大抵、一人で過ごしている。わたしの場合、いつも一人でいる人、というイメージが定着してしまい、余計に周りに話しかけられなくなる、という悪循環に陥っているけど、もしかしたら、真白さんも同じなのだろうか。
何となく、打ち解けた雰囲気を感じた。喋れるうちに喋っておこう。
「真白さんは、どの話が好き?」
「うーん……。強いて言えば、第十六夜かな」
彼女はページを繰りながら答えた。
第十六夜は、ある喜劇役者の物語だ。彼は想い人を二度も失い、その悲しみを自ら踏みにじらなければならない。一度目は、彼女が別の相手と結婚することによって。二度目は、彼女の死によって。葬儀の日も、その役者は舞台で道化を演じなければならない。
「山梨さんは、どれがいいと思う?」
「第二十八夜。白鳥の話」
「ああ、それも好き。淋しいけど、それだけじゃない、って思えるのがいい」
第二十八夜は孤独と憧憬の物語。わたしはそう思っていたけれど、真白さんの解釈は、少し違っているらしかった。彼女の考えを聞いてみたい。
わたしは、『絵のない絵本』の絵を描くという、頓挫しかけの取り組みについて打ち明けることにした。真白さんは、興味を持ってくれたようだ。
「面白そう。どんな絵なのか、見てみたいな」
と言ってくれたが、出来栄えに納得がいかない上に、未完成の作品を見せるのは、気が進まない。
「ちゃんと完成したらね。もう少し時間がかかりそうだから……」
歯切れの悪い返事をしてしまったことに気落ちしていると、真白さんが、わたしを真剣な眼差しで見つめていた。
「何か困っていることがあるなら、わたしでよければ、いつでも相談に乗るから」
そうは言っても、絵のことは分からないんだけどね、と彼女は言葉を続けたが、わたしは不思議な心地だった。
「あの、実は最近、あんまり調子が出なくて、行き詰まっているの。でも、どうしてそのことが分かったの?」
「絵が完成したら見せてくれるって言ったときに、少し気持ちが沈んだように見えたから。余計なお世話じゃないといいんだけど……」
正直なところ、わたしは、自分が何に困って悩んでいるのか、一体、何が問題なのか、よく分からない。けれど、せっかくの機会なので、一つ、頼みごとをすることにした。
それは、『あなたと友だちになりたい』という願いだ。
「それじゃあ、お願いしたいことがあるの。わたしの月になってください」
……あれ?
言った瞬間に気付いた。『絵のない絵本』の話をしていたせいで、画家と月の関係に引きずられている。やっぱり、わたしは自分を画家だと思っているらしい。火が出そうなくらい顔が熱かった。自分では見えないけど、真っ赤になっていると思う。
「友だちになりましょう、ということなら、正直な話、わたしの方からお願いしたいくらいだよ。でも、月になぞらえられるのは、ちょっとね……。わたしは、遠い昔から世界中の出来事を見続けている訳じゃないし、山梨さんに他の土地や別の時代の出来事を話すのは難しいよ」
意図的に真白さんを月に例えたと思われている。わたしは慌てて言い直そうとしたが、焦っていたので、またしてもおかしなことを言ってしまった。
「じゃ、じゃあ、月下美人。わたしの月下美人になって」
ああ、わたしは、一体何を言っているの……。
「取り敢えず、地上に帰ってこられてよかった。どういう植物なのかよく知らないけど、水やりを忘れないでね」
今度は、冗談だと思われているらしい。真白さん、分かって言っているよね。
それから、わたしは真白さんに、絵の仕上がりに納得できず、煮詰まっていることを話した。いなくなった仲間を追いかける白鳥の孤独と憧憬。胸に迫るその感情を、キャンバスの上に表現することができない。本人も言っていたように、彼女は絵のことで有益なアドバイスをしてくれる訳ではない。それでも、悩みを人に話したことで、気持ちが楽になったように感じた。
真白さんと話していて、気付いたことがある。彼女は、第二十八夜を指して、淋しいけれど、それだけではない、と言った。きっと、孤独と憧憬だけが白鳥の物語の本質ではなく、わたしは、その先にあるものを捉えなければならない。それは、本当に存在するのか定かではない希望だ。その不確かさが、孤独な白鳥に憧憬をもたらす。わたしの絵に足りていないのは、その希望の予感なのだと思う。
不確かな希望を描き出すことは、今のわたしには難しそうだ。不足しているのが、もっと楽観的な感情なら、そこまで悩む必要もなかったのだけれど。
白鳥の絵は、もうしばらく保留することに決めた。代わりに、第一夜より前の序文に相当する部分、画家と月が再会し、毎晩、月が会いに来るという約束をしている場面を描くことにした。それは、彼らの友情、絆を描いた場面だ。友だちとはどういう存在なのか、それを一目で伝えられるような絵にすることが、わたしの新しい目標になった。
それはそうと、『絵のない絵本』には全く関係ないけれど、月下美人の花も忘れずに描いておくようにしなければ。
白鳥の絵が思うように描けずに煮詰まっていた間は、創作意欲も湧かなかった。今もその問題が解決した訳ではないけれど、絵を描こうという意欲は戻った。それがなぜなのか考えてみたが、思い付く理由は一つしかない。要するに、わたしは『絵のない絵本』の画家と同じで、淋しかったのだ。いつも一人で過ごして、それで平気だと思っていたけれど、知らず知らずのうちに、強がっていたのだと思う。
画家に昔なじみの月がいてくれたように、今のわたしには、真白さんがいる。あの日以来、彼女とは毎日のように、他愛のない会話をしている。いつか、彼女の話してくれたことを絵に描いてみたいと思う。
それはきっと、心に沁み込むような温かい作品になる。
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