真白瑠璃の場合 その2
ウグイ先生は部屋の隅に、みんなから離れて座った。顧問と言っても、何かを指導したり監督したりするのではなく、生徒の主体的な活動を見守るのが主な役割だという。
水瀬先輩がみんなに本を配った。その本は、サン=テグジュペリの『星の王子さま』だった。
「さて、それでは早速、読書会をやりましょう。普段は、事前に読んでからやるけど、今回は体験入部ということで、この本をみんなで音読して、それから感想を話し合うことにします」
『星の王子さま』は分厚い本ではないが、音読には意外と時間がかかる。二週間の体験入部の最初の週は、読むだけで終わった。
要約すれば、『星の王子さま』は、故郷の星から地球にやって来た小さな王子と砂漠に不時着した飛行士の交流を描いた物語だ。二人の交流の中で、王子が飛行士と出会うまでに経験した出来事の数々が語られる。
故郷の星に咲いたバラの花と仲違いしてしまい、これ以上は一緒にいられないと思った王子は、様々な星を巡った末に、地球を訪れる。バラ園を目にした王子は、故郷のバラがこの世で唯一の特別なものではなかったことを知り、落胆する。そんなとき、王子はキツネと出会い、仲良くなる。
そのキツネから聞かされる『本当に大切なことは、目には見えない』という言葉は、この本を読んだことのない人でも耳にしたことがあるだろう。
自分が時間を費やし、愛情を注いだ相手こそが特別になるのだと気付かされた王子は、自分のバラと再会するために、故郷の星へ帰る決意をする。飛行士と出会うのは、その過程でのことだ。
この飛行士は著者のサン=テグジュペリ自身が投影されていると言われ、別の著作である『人間の土地』で描かれる、砂漠に墜落したときの経験が元になっているとされる。状況だけを比べるなら、墜落して飛行機が大破してしまった『人間の土地』より、エンジンの故障で不時着したとはいえ、当面の飲み水もある『星の王子さま』の飛行士の方が、少しは状況に希望が持てるように思うが、そういう比較は無意味だろう。
飛行士は、作中で風刺的に描かれる『大人』たちと分かり合うことができず、生きにくい人生を送ってきた。ようやく出会うことのできた友人である王子とも、最後には別れることになる。砂漠から生還することはできたが、決して幸福な結末ではない。
王子から飛行士への最後の贈り物は、夜空に輝く無数の星々の一つに、王子が笑って暮らす星があると知っていること、しかしながら、その星がどれなのか分からないことで、他の全ての星まで特別に感じられるというものだった。美しいものは、秘密を隠しているからこそ美しい。
わたしは、以前にも『星の王子さま』を読んだことがあり、久しぶりの再読だった。数年前に読んだときとは、また違った印象を感じた。正直なところ、以前はよく理解できなかったし、今でも書かれていること全てを分かった気になるのは難しい。
体験入部は二週間目に入った。その初日、文芸部の部室に行くと、早霧先輩だけが来ていた。彼女は何も悪くないのだけれど、どことなく冷たい印象があって、わたしは少し苦手意識を持っていた。
「こんにちは……」
と、わたしは小声で挨拶しながら、定位置になっている席に着いた。
早霧先輩は、なぜだか分からないけど、わたしをじっと見ていた。うつむいていると、先輩の声が聞こえた。
「あたしは昔から、『星の王子さま』を読むと、いつも夜空のイメージが思い浮かぶの。夜空に散った星々の光が見えるような気がするわ。真白さん、あなたはどう? 本を読んでいて、何かの情景が強く心に浮かぶことはある?」
「あります」
わたしには、『星の王子さま』は砂漠のイメージだ。もしかしたら、『人間の土地』と印象が混ざっているのかも知れないけれど。
わたしは言葉を継ぐことができなかった。見かねたのか、早霧先輩が、それまでよりも柔らかい声で喋り始めた。
「あなたの名前の瑠璃って、ラピスラズリのことよね。星が輝く夜空のような宝石よ。何となく、『星の王子さま』を読んだときのイメージに似ているような気がして」
「そうなんですか」
「ごめんね。急に変なこと言い出しちゃって」
わたしの戸惑いを見てとったのか、早霧先輩が慌てたように言った。
「いいえ。そんなことは……」
それから会話が続かなかったが、すぐに他の人たちもやって来たので、特に気詰まりな思いをする必要はなかった。
全員が席に着き、水瀬先輩が、
「それでは、始めましょう。今日からが本番です」
と言った。先週は音読に費やしたため、ちゃんとした読書会は今日から、ということだろう。
「一年生の二人は初参加なので、改めて流れを説明しておきます。読書会では通常、まずは全員が順に感想や意見を発表します。その後は、他の人の話を聞いて、自分とは違った視点を取り入れたり、考えが変わったりしたことを自由に話し合って、みんなで本を深く読み解いていきます。正解があるものではないし、必ず結論を出さないといけないものでもないので、何でも、思ったことを好きに言って大丈夫です」
ウグイ先生から、一言だけ補足が入った。
「他の人を批判する発言は禁止です。僕は基本的に見ているだけですが、よくない発言があれば注意しますので、良識を持って取り組んでください」
まずは水瀬先輩が感想を発表した。
「私は、王子と絆を結びながら、最後には置き去りにされてしまうキツネや飛行士に、同情を感じるわ。仲良くなったからこそ、余計に傷付いたのだと思うと、いっそのこと、絆を結んでいなければ、辛い思いをすることもなかったのに、と思ってしまうわ」
続いて、本郷先輩。
「俺は、登場人物の中の誰かになるとしたら、ガス灯の点灯人がいいと思った。彼は誰からも顧みられることがなくとも、自身の役割を全うし続けるのだと思う。俺は、そういう生き方に憧れを感じる」
次は、早霧先輩。
「あたしは、王子とバラが、お互いのことを愛していながら、素直に気持ちを伝え合えなかったせいで別れなければならなくなったことが、悲しいです。だから、王子がバラと再会するために故郷へ帰っていくのは、その先へ続く希望が感じられて、悪くない結末だと思います」
それから、立浪君。
「オレは、最初の方の場面ですけど、飛行士が子どもの頃、周囲の大人に言われるままに、画家になるのをあっさり諦めたことに、納得がいきません。その後、王子に出会うまで、飛行士は周りに合わせて生きてきました。本当に絵を描きたかったんだったら、そんなに簡単に諦められるはずがありません」
最後は、わたしが感想を発表した。
「ありきたりかも知れないですけど、『本当に大切なことは、目には見えない』という言葉に、考えさせられました。『心で見なければ、よく見えない』ということでしたけど、わたし自身にそれができているのか、というと、きっとできていないだろうな、と思います」
一通り感想を出し合ってみると、みんな別々の部分に注目しているのが、何だか意外だった。正直なところ、わたしの感想が一番安直ではないかと思う。まさか、他に誰も、あの言葉を引き合いに出さないとは。
「ここからは自由に話し合います。言いたいことがある人は、自由に発言してください。ただし、他の人の発言を遮らないように」
水瀬先輩が宣言したが、わたしは一先ず、みんなの様子を窺った。
口火を切ったのは立浪君だった。
「思ったんですが、『星の王子さま』は、ある意味では、後悔の物語と言えるんじゃないでしょうか。気持ちを伝え合えない王子とバラは、やらなかったことで後悔して、王子に置き去りにされたキツネや飛行士は、仲良くならなければよかった、と後悔することもあったのかも知れません」
「そうね。もしかしたら、王子は荒れ果てた故郷で、枯れてしまったバラと再会するのかも知れないわ。絆を結んだ相手を次々に見捨てたようなものだし、王子自身にも悔やむところがあったはずよ。自らの行為の代償を支払うときが、いつか訪れるわ」
と、水瀬先輩が、立浪君の意見に同調するように言った。
「確かに、二人の意見には賛同できる部分もあります。でも、最終的にどうなってしまったかよりも、希望を持って物語が終わっていることを重視するべきです。仮に後悔することがあるのだとしても、王子は愛するバラと再会するために故郷に帰り、飛行士は王子がどこかで笑っていることを信じています。あたしは、そこにある希望が、一番大事だと思います」
反対意見を述べる早霧先輩は、不機嫌そうな表情だった。
腕を組んで考え込んでいた本郷先輩が、口を開いた。
「想像される結果と作中で描かれている過程。そのどちらに意味を見出すべきか、という話になっていると思うが、どちらがいい、悪いということでもないだろうな。こうして色々と考えさせられることこそが、この作品の本当の価値なのかも知れない」
みんなの意見を聞いているうちに、わたしの中で考えがまとまった。おずおずと手を挙げると、みんなは黙って、わたしに喋るように促してくれた。
「この作品は、物事の見方を教えてくれているのではないかと思います。今まで、他の人と本の感想を話したことがなかったので、『星の王子さま』から希望を読み取る人もいれば、後悔を読み取る人もいるということが、すごく不思議な感じでした。でも、そうした考え方の違いを認め合いながら、お互いのことを理解しようとすることが、心で見る、ということなんじゃないかな、と思います」
その後も、わたしたちは感想や意見を話し合った。
体験入部の最終日、読書会が終わった後、ウグイ先生が言った。
「さて、体験入部は今日で終了です。この二週間、真白さんと立浪君は楽しめたでしょうか。二人が正式に入部するなら、僕は顧問として歓迎します。『星の王子さま』になぞらえるなら、読書とは、目に見えない大切なものを探す旅のようなものです。例え文芸部に入らなかったとしても、君たち二人には、その旅を続けてほしいと思います」
立浪君は元気よく「はい」と返事をした。彼は入部するのだと思う。決めかねているわたしは、小さくうなずいただけだった。
わたしは、どうするべきなのだろうか。文芸部には、恐れていたような居心地の悪さはなかったが、それでも、一人で本を読む時間が減ってしまうことに変わりはない。
しかし、わたしはこの二週間を振り返った。誰かと同じ本を読んで、その本について話し合うのは、思っていたより楽しかった。
もしかしたら、ここでしか得られないものがあるのかも知れない。それは目には見えなくて、だからこそ本当に大切なものなのかも知れない。その逆説が正しいかどうかは、確かめてみなければ分からない。
わたし一人の中で完結させるのではなく、他の人と関わって視野を広げることで、新しく見えてくるものも、きっとある。
ウグイ先生は、読書を旅と言った。それならば、わたしにとっての読書とは、まだ見ぬ世界への旅立ちだ。そこに未知の世界があるのなら、そこで何かを見つけられる可能性があるのなら、わたしは踏み出すべきなのかも知れない。
気になる本があって、読んでみようか迷っているとする。実はそれが面白くない内容なのだとしても、わたしは、読まずに後悔するよりも、読んでから無為に費やした時間を悔やむ方がいい。それが、わたしにとっての悔いのない生き方だ。
わたしは心を決めた。わたしは旅に出る。
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