⑥蘇生(最終更新日1999年11月10日)

「起きて下さい」

 ぼんやりとしていていまいちはっきりしない頭の中に、澄んだ歌声のような心地よい響きが進入してきた。誰の声だ? 考えても、該当する答えは見つからない。

「起きて下さい」

 さらにもう一度。少し語調が強くなっているが、間違いなく同じ声だ。まどろみの中で、その声だけがやけにはっきり聞こえる。目を、開けてみた。いや、開けてしまって初めて、今まで閉じていたことに気がついたのだ。

 ぼやけた視界の中に、声の主はいなかった。寝ぼけまなこできょろきょろと辺りを見回すが、そこには誰もいないようだ。ただ、ここは見覚えのない場所だった。正方形の部屋の真中に私は横になっている。そこには、何一つ存在せず、ただ白い壁に白い床、白い天井が私を歓迎してくれたのみだ。窓すらない。ドアもない。照明もなかったが、それでも明るい。ここまで来て、私はようやく目が冴えてきた。

 とりあえず私は起きあがり、部屋の隅から、壁に沿って歩いてみた。大体歩幅を一メートルにしながら正方形の一辺の長さを知る。約十メートル。天井までもほぼ同じだろうと予想をつけた私は、どうやら何か巨大な立方体の建造物に閉じ込められているのだと考えた。

「半分正解です」

 耳元で突然ささやかれて、私は正直どきりとした。その声は、間違いなく私を起こしたものだったし、何よりこの部屋の中には誰もいないはずだ。いつの間に後ろにいたのだろうか?

「あなたの後ろに誰がいるんですか? もっと良く見たほうがいいのでは?」

 今度の声は、何故か私の前方から聞こえてきていた。どうみても、前方には壁しかない。

 とっさに私は振り返ってみたが、無論そこには誰一人として存在しなかった。ぞくり、と背筋が粟立つような気分に襲われる。鼓動が、早鐘のようになっている。

「そんなに怖がらなくても結構ですよ。私は、ただあなたの聴覚の中枢に直接情報を送っているに過ぎませんから」

 その言葉は、頭の中で、妙に反響するようにして聞こえた。私は、恐怖や混乱を通り越して、もはや心ここにあらずと言った様相を呈してきた。自覚できている分、実は落ち着いているのかも知れない。とにかく、それほどまでに意味不明な状況だったのだ。

「先ほど半分正解だと申し上げたのにはわけがあります」

 そこで『声』は、呼吸を整えた。少し勿体をつけて、どうやら私の注意を引こうとしているらしい。大丈夫、聞いている。

「ありがとうございます。えーと、あなたは、自分が一辺十メートルの立方体に閉じ込められているとお思いですね?」

 違うのか?

「確かにここは、一辺十メートルの立方体の中ですが、別にあなたを閉じ込めるつもりは全くありません」

 出口はないようだが?

「今はまだない、というだけのことです。あなたがルールを完全に理解した時、道は自然と現れることでしょう」

 ルール? 何の?

「九死に一生を得るためのちょっとしたゲームですよ」

 美しい声に告げられたその言葉に、私は背筋が凍るような気がした。

 そうだ。

 そうだった。

 私は、ある受け入れがたい一つの真実を思い出した。

 私は、すでに、死んでいる………。


 いまいち正確な状況が思い出せないが、私は飛行機事故に巻き込まれたのだ。

 そして、確かに死んだ。

 不思議なことに、それだけは確信できる。私は、死んだのだ。


 そして私は初めて、自分の名前がわからないことに気がついた。

 ………………………。


 飛行場。大切な人。搭乗客。大勢の子供。


 離陸。加速度実感。軽い頭痛。順調な飛行。


 振動。爆発音。圧迫感。浮遊感。暗転。


 衝撃。痛み。傷み。痛点刺激。痛覚崩壊。


 右腕側部感覚消失。出血多量。後頭部強打。


 意識不明。無自覚的自覚。瞳孔収縮。


 心拍完全停止。細胞壊死開始。


 そして、そこで。

 時間流停止。意識剥離。

「起きて下さい」

 それは、ここで最初に聞いたセリフだった。

 はっとなった。

 そうか、そういう流れだったのか。私は、ここに来る直前の事を全て思い出した。

 否。思い出したのではない。与えられただけだ。

「良いですか? どうやら状況を把握したようですが」

 私は、ごくりと生唾を飲んだ。恐怖が、言いようのない恐怖が、私の中で這いずり回っているような気がする。

「………恐れることなどないです。ゲームの結果次第で、あなたは自分の運命を変えることができるのですから、むしろ喜ぶべきことなのですよ」

 運命、だと? ひとつ、鼓動が高く鳴った。

 運命だと? もう一つ、鳴った。

 運命?


 何かが、私の中ではじけた。


 それは何だったのだろう? どこかに残っていた理性かもしれないし、冷静さかもしれない。はじけた後には気付かない何かが、私を見捨てて逃げ去った。

 私は、一粒の涙とともに、声をあげて、泣いた。

 何で泣いたのか、よくは、わからない。


「………聞いて下さい」

 『声』が、言った。声?

 これは本当に声なのか?

 私は、死んでいるのだ。声が聞こえるはずがないだろう?

 私は、死んだのだ。

 飛行機事故で、死んだのだ。

 声? そんな物が、私に届くはずが――――

「あなたはまだ死んでいません!」

 大きく小さく強く弱く鋭くやわらかで暖かく冷たい『声』が私を制した。

 心の中で、ほのかな光がともるのを感じた。

 それでも私は、全てを拒みつづける。

 理性より先立った本能で。

 生前に経験したことのない悲しみの中で。

 自らの涙に濡れて。

「あなたの乗った飛行機は、離陸して二十二分後に、エンジントラブルに見まわれて爆発炎上、とある市街地の真中に墜落しました」

 痛み。

 涙がゆっくり頬を伝う。

 『声』は、ゆっくり淡々と、語っていた。

 子守唄を赤ん坊に聞かせるかのようでもあり、最後の審判を下す神のようでもあり。

 ただ、悲しい。

「事故が起こったのは、九月十五日午前十一時三十二分二十秒。休日ということもあり、街には数多くの人がいました。彼らは突然降り注いだ災厄に、抵抗する術も無く、一瞬で命を落としたのです」

 命を落としたのです。

 命を落としたのです。

 命を落としたんですか。そうですか。

 一瞬で落命したんですか。

 ハンカチを落としたのと同じレベルなんですか。

「しかし、それは飛行機の乗客にしても同じことでした。高度三万フィートから地上にたたきつけられた乗客たちも、そのほとんどが死亡しました。即死です」

 即死です。

 即死です。

 即死ですか。そうですか。

 ほとんどが死亡したんですか。


 私もその一人だな?


「当局の調べによりますと、九月十五日午前十一時三十二分四十九秒の時点で、死者は七百七名。市街地で事故に巻き込まれた人は、その内の二百二十名。飛行機の乗員乗客から生存者が四名確認されています」

 四人。

 四人、ね。

「そして、残る百八名の乗客の生死は確認しておりません。その百八名が、このゲームに参加している方々です」

 え?

 私は、その言葉に驚愕を覚えた。

 確認していない、だと?

 確認されていないのではなくて、か?

 そう、つまりそれは、


 故意


 だとでもいうのか?

「その通りです」

 自分の中で何かが悲鳴をあげていた。

 待ってくれよ。

「何ですか?」

 その飄々とした物言いは何だろう? 私はそれに寒気すら覚えていた。

 とにかく、状況確認を急ぐ。

 どういうことだ? 説明しろ。

 私は、そう心の中で呼びかけた。

「だいぶ元気が出てきたみたいですね」

 返ってきたうれしそうなその声に、私は、怒りで何もかもが見えなくなってきた。

「言葉通りの意味ですよ。あなた方の運命は、こちらが握っているんです」

 ぞくりとする気味の悪さが、私の中に残っている。

 そしていつまでも消えない。

 この声の主が言うのは、つまり


 生死不明ということにしておいてやったから、生き返っても良いし死んでも良い


 ということか?

 ………………………………。

 遊ばれている。

 私の命は弄ばれている。

 気がつけば、恐怖は私の中から消えていた。

 さらに膨れ上がったのは、純粋な、怒り。

「おや、怒っているみたいですね?」

 ………………。

「何を思おうと勝手です。私たちにしてみれば、あなたのやる気が一定値を超えてしまえばそれでいいんですから」

 残酷なまでの無慈悲。

「とりあえずルールだけは言っておきます」

 運命に逆らうと銘打たれただけの皮肉な運命。

「私の居場所を捜してください」

 『声』は言う。

 声の主は言う。

「その目的を達成するための手段は問いません」

 思った。

 私は、何か大きな逃れられぬ流れに巻き込まれたのではないか、と。

 そして、逃れられないなら流れに乗ってやろう、と。

 気付いた。

 私は、何だかんだ言っても、結局やる気だったんだ、と。


 ただ、思想や思考が、妙に希薄になっている気がした。

 私の中の私、感情が、全く制御できない。

 情報の奔流。


 それでも、そう自覚していても、私はやる気だった。

 そうだ。もう止まらない。もう止まれない。

 こうなったら、生きるしかない。

 正確には、生き返るしかない。

 こんなところにいたくない。

 現世に、戻りたい。

 戻りたい。

 戻るんだ。

 戻ってみせる。

 戻って………………。


 私のどこかが、叫びをあげたような気がした。


 思えば、このとき私は確かに狂っていたのだ。

 追い詰められていた。精神的に。


 こうして、始まらない終わりへのゲームは終わらない始まりを告げ、始まらない始まりを前にした私に、終わらない終わりを見せつけてきたのだった。


 始まりが始まるのは、もうすぐだ。



「始めますよ」

 あまりにも突然かけられた声と同時に、その部屋に変化がおとずれた。

 部屋の中央、私が最初に目覚めた辺りの床から、何かが生えてくる。それは、壁や床や天井と同じ真っ白な色をしていて、水平な平べったい板みたいな物の中央に一本の脚がついた、かなり簡単な造りの机だった。それがちょうど一メートルくらいの高さになると、ぴたりと成長は止まり、完全に部屋と調和してしまう。だが―――――

 !!!!!

 私は驚愕した。机の脚は成長を止めたが、さらに今度はその机の上に拳銃が現れたのだ。何の脈絡も無く、ぽんと無造作に投げ捨てられたかのごとく。

「武器です。とりなさい」

 命令。

 そこにある響きは、先ほどまでの耳に心地よい物ではない。同じ声ながら、私にはその声が妙におぞましく感じられた。

 とにかく私は、恐る恐るといった感じで、今しがた生えてきた机に近づき、拳銃に手を伸ばす。

 ??????

 私は、ずしりと重いその銃を右上の腕で持ち上げて、グリップを握っていた。

 右上の腕?

 嫌な、すごく嫌な予感がする。

 右上の腕ってのは一体何だ?

 右上にあるのが右上の腕だ。右側にあるのが右腕であるように。

 ……………………。

 人間の腕は通常二本。

 だからこそ、右腕左腕という呼び方をするのだ。

 私は人間だ。

 人間のはずだ。

 はずだった。

 ………単刀直入に言うと、何故か今、私には四本の腕があったのだ。しかもごく自然に。

 両肩から通常の人間と同じように左右に一本ずつ、そしてその下、胸の側部からもう一対、腕が生え伸びている。

 私は少し混乱してきた。

 腕を動かしてみる。どの腕も違和感無く動かすことができて、そのことに逆に違和感を覚えた。

 あたかも、私の腕が最初から四本だったようだ。

 しばらく、空いている手を握ったり閉じたりしていたが、『声』から何のリアクションも返ってこないし、もしかするとこれは当然のことなのかもしれないと思った。

 私の腕は四本。

 生まれつきではないが、今は確かにそうなのだ。

 ただ、それだけのことかもしれない。

 私は、拳銃の握りを少し確かめると、それ用にあつらえられていた左の腰のホルスターにそれを納めた。右下の腕ですぐに抜けるような角度に調整し、軽く一息つく。大丈夫。動揺はしていない。たぶん。

 ブン………。

 という小さな音が聞こえた。一辺十メートルの壁。その中点の辺りに、ドアぐらいの大きさの切れ込みが入る。簡単に言えば、ちょうど、鋸でドアを切り出している時のような感じだ。

 ところが、それはドアを形成することも、切り抜かれて出口となることもなく、そこで終わってしまった。さらに不思議なことに、それは四辺全てに現れている。

 不思議に思い、ある一辺のそれに近づいてみた。やはり、ちょうどドアくらいの大きさだ。しかし、どこにもノブらしき物が無い。

 それでも私にはドアにしか思えなかった。

 人間不思議なもので、壁に長方形が描いてあるだけで、それがドアだと思いこめるのだそうだ。何かで、そんなことを聞いた。

 だから私は、試しに右上の手でそれを押してみた。

 動くとは全く思っていなかった。

 だが、なんと、それは動いたではないか。やはりドアかと納得しかけた。

 ………?

 しかし、その動きは普通のドアとは若干異なっている。

 ああそうだ、これは例のあれだ。ほら、回転扉というやつだ。あの、忍者屋敷とかにある、壁に背中をもたれかけると、くるりと壁が回転して隣の部屋だの秘密の通路だのにつながっているやつだ。

 この回転扉は半時計回りの回転を見せる。試しに時計回りでも回そうとしたが、決して動いてはくれなかった。

 私は、新たなる一歩を踏み出すべく、扉をゆっくり右上の手で押していった。

 半分回転した状態で、その扉を足で押しとどめて(放っておくと、ばねか何かの力で元の状態に戻ろうとするのだ)、私はしげしげとドアの向こうを眺める。

 ……………………………。

 私は、思わず後ろを振り向いていた。何故なら、私が今見た光景が、今まで見ていた光景とまるで同じだったからだ。

 一面の白い壁。壁に入った切れ込み。部屋の真中の机。

 ………。

 違うのは、この部屋には私がいること。

 そして、隣の部屋を見回して気付いたことだが、向かって左側の壁に、何故か回転扉の存在を示す切れ込みが入っていないことだ。

 少し不思議に思いながら、私は隣の部屋に足を踏み入れた。

 するとどうだろう。回転扉と壁のなす角が九十度をこえた辺りで、扉にかかるモーメントの向きが逆転した。それまでは、元の状態に戻ろうと、時計回りの方向に力が働いていたのに、今度は加速をつけて半時計回りに回転し、私が振り向いた時には壁と一体化していたのである。これでこの扉は、百八十度回転したことになった。

 そして、もうその扉はどうやっても動かなくなってしまっていた。

 切れ込みが、ない。

 手で触れてみても、予想通りの壁の感覚しかなく、今の今まで扉があったことこそが冗談であるかのようだ。

 ……………。

 後戻りは、できない。

 もっとも、後戻りしたところで何がどうなるわけでもなかったが。

 私はとりあえず、さっきと代わり映えのしない部屋を眺めまわしながら、状況の整理をしてみることにした。

 このゲームの目的は何か?

 声の主の居場所を見つけることだ。

 何故そんなことをしなければならないのか?

 生き返るためだ。

 このゲームの参加者は何人か?

 百八人。

 その人達はどのようにして決められたのか?

 飛行機事故に巻き込まれた者の中で、『声』が、死亡を確認しなかった者。

 私もその一人か?

 イエス。

 では、私は他の参加者に会ったらどうするつもりなのか?

 それは―――――

「それは?」

 『声』が介入してきた。少しいらだったが、それを感じさせないような口調で、私は『声』にこう言った。

「それはそいつ次第だ。もしかしたら拳銃で撃つかもしれないし、もしかしたら協力を要請するかもしれない。会ってみるまで分からないさ」

 そして不敵に笑う。

 ここでようやく気がついた。私は、こういうクールな口調の似合う、十七歳くらいの少年の顔を持っているようなのだ。

 まあ、それもいい。

 再び、にやりと笑みを浮かべた。

 そういえば、私は元々何歳だったろうか?

 いや、それ以前に私の名前はなんと言ったか?

 それどころかもしかしたら、私は元々、女だったのかもしれない。

 ……………………………

 知ったことか。

 生き返れば自ずと答えも見えてくる。

 そうだ、それまではどうでもいいことだ。


 これが、私の真の始まりだった。

 四本腕の少年。それが、今の私。

 そう、それでいい。




「武器を取りなさい」

 その『声』は、少し苛立ちを感じてるみたいだった。それもそのはず、彼女(姿は見えていないが、その声は確かに女声だ)がそのセリフをはいたのは、もうこれで十二回目なんだから。

 でも、何度言われても、ボクはそれを手にする気は無かった。

「武器を取りなさい」

 さらにもう一度。でもボクは動かない。ずっと、壁に背をもたれて座り込んでいるだけだ。

「あなたねえ………」

 あきれ果てた『声』が、ついに違うことを言い始めた。やれやれ。

「このゲームで生き返れるかもしれないって言ったら、喜んで『やる』って言ってたじゃないですか! 話が違いますよ!」

 確かに、ボクはこのゲームに参加するとは言った。

「なら早く武器を取って―――」

 でも、ボクは人を殺すゲームに参加すると言った覚えはないよ。

 『声』は、ぐっとうめいて返答に困っていた。

 ボクはさらに畳み掛ける。

 このゲームは、ただ君の居場所を見つけるのが目的なんでしょ? だったら、うまくいけばみんな助かるってことじゃない? わざわざ参加者に武器を持たせるっていうのはおかしいよ。卑怯だよ。武器があれば、人は誰でも使ってみたくなる。しかも、ここにいる自分以外の人っていうのは、いわばライバルだ。ライバルが一人でも多く死ねば、生き返れる可能性が増えるかもしれないって、みんなそう考えちゃう。だから、殺しちゃう。君はそう考えて武器を置いたんでしょ? 同士討ちをさせるために。

 返事はしばらく来なかった。ボクは、勝ったことを確信していた。ところが、だ。

「………そうですよ。このゲームでたくさんの人が生き返るようじゃ困りますからね」

 『声』は、突然開き直るとそんなことを言った。

 一体どういうこと?

「あなたには言ってませんでしたか? これは九死に一生を得るためのゲームなんですよ? 壮絶な飛行機事故から奇跡的に助かる乗客達。当局は、このような状況をわざと作り出しているのです。今回のケースなんて稀なんですよ。もう四人の生存者出てますから、本来ならこれ以上は必要ないところなんです。でも、社長がどうしてもとおっしゃるので仕方なくやっている、という次第なんですよ」

 …………。

「私としては、あなたがた参加者が全員死んでくれたって構わないんです。いや、むしろそちらのほうが都合が良い。だから武器を置いてみた、それだけのことです」

 それだけのこと………?

「分かりましたか? 分かったら武器を取ってください。あなた以外の参加者は皆もう武器を取っているんですよ。あなただけです、まだゲームが始まっていないのは」

 何かが、足りないような気がした。今のボクには、何かが確かに欠けている。

 そう感じたのは、ボクよりもっと何かが欠けている、その言葉を聞いたからだ。

 ボクは、ゆっくりと立ち上がった。

 泣きそうになりながら、ボクは部屋の中央に向かって歩いていった。そこに、さっき生えてきたテーブルがあって、さらにその上にピストルが置いてある。

 しばらく眺めていたが、ボクはそれに手を伸ばした。

 その手は、震えている。止めようと思っても止まらない。

 涙が一筋、頬を伝っていった。

 悔しかった。

 何故か無性に悔しかった。

 震える手で、ピストルを掴む。持ち上げてみると、それはずしりと重かった。

 それを胸にかき抱くようにすると、ボクはキッと天井を見上げた。そっちに、声の主がいるような気がしたからだ。

 そして、大声で。


 叫ぶ。


「ボクは、絶対にこの武器を使わないで、君の居場所を見つけ出してみせる。そして、君のやっていることが間違いだと気付かせるために、ボクはこれで君を殺す」


「その意気です」

 『声』は楽しげに笑った。


 いつのまにか、四方の壁のちょうど真中辺りに切れ込みが入っていた。

 ボクは、とにかくピストルをミニスカートのポケットの中へとしまった。

 え? ボク? もちろん女の子だよ。

 昔はどうだったか知らないけど、今はそうだよ。

 ちょっと人間と違うけどね。




 おや?

 私は、その変化に気がついて片眉を上げた。いつのまにやら、壁に切れ込みが入っている。そう、ここに入ってくる前からすでになかった回転扉のところに、である。少し目をはなしていた間にどうやら出現したらしい。

 少しの間考えて、私はその扉に向かって歩き出した。怪しいところは調べなければ気がすまない。もっとも、何故突然この扉が現れたのか皆目見当がつかず、怪しい以前に、もしかしたら私を誘う罠の可能性すらあるわけだが、それでも私は近づいた。危険に備え、右下の腕は、左の腰にある銃をおさえている。しかし、そうしながら歩いているのはいささか格好が悪く(第一、何で左の腰にホルスターがあるのだ? 右利きなのだから右側にあって欲しかった。銃は、刀ではないのだから)、考えてみると、別に手で持っていても良いような気がしたので(というより、そちらの方がむしろ良いのでは?)、結局すぐに撃てるように右下の手でグリップを握った。扉の前に立つ。

 選択肢は三つだ。

 一、向こう側の様子を窺うために、扉を薄く開ける。

 二、何も考えず、一気に向こう側に駆け込む。

 三、別の扉を進む。

 まあ、妥当なところだろう。

 しかし、私には一つ引っかかることがあった。

「一体何ですか?」

 『声』の突然の介入も、私にはある程度予想がついていたので、大して驚かなかった。それよりも、せっかく登場して来たわけだから、私の疑問を解消してもらおうか。

「内容次第ですけどね」

 私が気にしているのは、この建物の構造だ。

「と、言いますと?」

 この建物がどのような物かは知らないが、連続した二部屋を見た限り、全く同じ部屋が規則正しく並んでいるのだと思わざるを得ない。そしておそらくは、その部屋には一人ずつの参加者がいたのだろう。違うか?

「あってますよ。よくわかりましたね」

 つまり、この建物の屋根を取り除いて上から見下ろすことができれば、部屋が碁盤の目のように並んでいるように見えるわけだ。

「そうですが、それが何か?」

 となるとやはり妙だな。

「何がですか?」

 お前のいる場所を見つけるのがゲームの目的なら、場所によって明らかな有利不利が出てくるはずじゃないか。お前がどこにいるにしろ、お前のいる場所に近い部屋というのが必ずあるはずだからな。

 私の言及に、返事は無かった。

 私は小さく嘆息すると、再び目の前の扉と向かい合った。

 相変わらず選択肢は三つだ。私は迷っていた。この扉の向こうが目的地である可能性が存在すると同時に、罠であったり、ほかの参加者がいたりする可能性もあるからだ。

 もしも様子を窺うために薄く扉を開けて、狙撃されたら(私が銃を持っているということは、ほかの参加者も持っているということだろう)最悪だ。

 もしも勢いよく飛び込んで、まんまとトラップにかかるのはさらに最悪だ。

 もしも他の扉に行って、そんな事になったらなおさら報われない。

 ………………。

 私は本当に迷っていた。

 さっき、ここへの扉をくぐるときはどうしてあんなにあっさりしていたのだろう?今私は、見えない扉の向こう側に、見えない鬼を作り出している。疑心暗鬼。疑い出せばきりがない。きりがないからこそ、疑いたくなる。じっとりと気持ちの悪い汗が、グリップを握る手のひらに浮かんできていた。それをぐっと握り締める。そうだ、いざと言うときにはこれがあるではないか。

 引き金をひけば良い。

 人がいれば、引き金をひけば良い。

 だから私は、回転扉の右端を、右上の腕でゆっくりと押した。音を立てぬように気をつけて、細く、向こうをかろうじて覗けるほどに開ける。

 無論、それでは向こうの部屋のわずかな部分しか見ることはできない。だが、少なくともその範囲には誰もいなかった。少し安心した私は、それでも油断せずに、隙間から向こう側に銃口を向けつつ、さらに扉を回転させていくのだった。




 少しの間ボクは、ボーっとその場に突っ立ってたみたいだ。涙も止まって、心の整理がついた頃には、部屋には変化がおとずれていた。

 しかも、それはあまりありがたい物ではないようなんだ。

 ボクはちょうど部屋の真中くらいにいるんだけど、僕の正面の壁の一部が、少しめくれ上がっているように見える。どうやら、忍者屋敷なんかにある回転扉みたいなものがそこにあるみたいだね。つまり、誰かがこちらの様子を伺いつつ、ゆっくりゆっくりこちらの部屋に入って来ようとしているんだよ。

 これは困った。

 良い人なら大歓迎なんだけど、悪い人だったらどうしよう。

 僕の姿を見た瞬間に、ばーんって撃ってきたらどうしよう。

 ごくり、とボクは唾を飲み込んだ。全く渇いていないとわかる喉が、もう一つの感覚として乾きを訴えてくる。

 ボクの目の前で、扉は徐々に回転していく。それにつれて、回転扉の右側のほうから、扉の向こうの景色がだんだん見えてきた。でもそんなのを見ているひまは無かった。ボクは、できるだけ死角に入るように意識しながら、その回転扉まで足音をたてないようにして近づいていく。

 扉が、ほぼ壁と垂直になった。




 扉は、ほぼ壁と垂直になっている。もうちょっと押すだけで、扉は加速をつけて回転し、百八十度反転して壁と同化してしまうだろう。さっきと同じように。

 私は、隣の部屋を見まわしてみた。ここまで来ると、大体部屋の全景も見える。相変わらずの部屋がそこにあるのみで、どうやら人はいないようだった。

 それでも私は、緊張を解かずに、しばらくその姿勢で待機することにした。




 危ないところだった。ボクは、扉が九十度になったとき、とっさに扉の陰に張り付いたんだ。つまり、ボクは扉を挟んで相手と背中合わせになってるってわけ。この位置にいれば、相手には多分見つからない。相手がこのまま扉を押して、ボクのいる部屋に入ったら、ボクはそのまま流れに乗って、隣の部屋(そう、扉の向こう側って、ここと全くおんなじ部屋なんだ。驚いちゃったよ)に行っちゃえばいいってわけ。

 完璧だ。ほんと、忍者みたいで面白いね。

 そう言いつつ、実は冷や汗だらだら状態だったりするんだな、これが。




 誰もいない。おそらくこれは間違い無いことだろう。私は、扉を背にしたまま銃を腰のホルスターに戻した。

 そして、そのまま扉を回転させようとして、ふと思いとどまる。あることを思いついたのだ。

 ちょっとそれを実験してみよう。




 まだかな。まだ動かないのかな。

 もしかしたらボクに気付いて、警戒してるのかな。

 どうしよう。いっそのこと、このまま目の前の部屋に走りこんで、向こう側にある回転扉に駆け込もうか。そうしたほうがいい気もしてきた。

 よし、心の中で三つ数えて走り出そう。

 一………。




 私は、頭の中で、動き方を反芻してみた。

 そうだ。

 おそらくこうすれば、扉を壁と一体化させることなく隣の部屋に行ける。

 いくらでも行き来可能になる。




 二………。




 私は、扉のほうを向いて右上の手でその端を握った。

 そして、引く。本来回転させる向きとは逆の方向(時計回り)に力をこめ、私自身は後方に逃れる。すでに隣の部屋に入っていた私の目の前で、加速をつけて扉が元の状態に戻っていく。

 つまり、私は回転扉をひっくりかえさずに部屋を移動することに成功したのだ。この扉は百八十度回ると壁と一体化するようだったので、こうすれば理論的には何度でも通れるというわけだ。

 成功したようなので私は、口の端を少し上げるようにして笑った。

 が、その直後その顔のまま凍りつくことになった。




 わわわわっっっっ。何? なに? 何?

 ボクが三を数えるより一瞬早く、ボクの背中にある扉が回転し始めた。

 しかも、隣の部屋に行くのとは逆向きに、だ。

 もしかしたら、相手がボクの部屋に来るのをあきらめたのかもしれない。ほっとしつつ、今隣の部屋に飛び出していたら危なかったんだな、と思ってぞっとした。

 体が勝手に時計回りに回転して、ボクはもとの部屋に戻ってくる。

 え?

 やっぱり隣の部屋に飛び出しとけば良かった。いきなり後悔する。

 右側を向いたボクは、驚きのあまりびくっとなって一歩後ろに飛び退った。だって、ほんの二メートルくらい離れたところに、口の端を吊り上げて笑ってる男の子が立ってたんだから。心臓が、一気に早鐘のように鳴り出した。急激な緊張で、軽い目眩みたいなのが襲ってくる。かたかたと、小刻みに震えてるのが自分でもわかる。

 どうしよう?

 どうしよう?

 ボクが怖かったのは、何よりも彼の格好だった。彼には、小さい頃苦手だった怖い話の恐ろしい人食い鬼と同じ、四本の腕があったんだ。

 どうしよう?

 ボクも食べられるの?

 逃げなきゃ。

 早く、逃げなきゃ。

 ボクは混乱して、何をすることもできずに立ちすくんでいた。

 震えは止まらない。

 また、泣きそうになってきた。

 助けて。

 誰か、助けて………。

 人食い鬼と、目が合った。冷たい目だった。ボクを見下ろしていた。

 叫びたいほど怖かったが、声にはならなかった。

 震える足が体重を支えられなくなった。ボクは、ぺたんと床に座り込む。

 一歩。鬼は近づいてきた。

 思わず僕は、ぎゅっと目をつぶった。




 回転した扉の向こうから、突然少女の姿が現れた。どこからあらわれたのか分からないが、ともかく少女は妙な姿だった。髪の毛が場所によって赤、青、緑、黒に色分けされているし、耳が普通の人間よりも長く、とがっている。何よりその背中からは昆虫のような透き通る羽根が飛び出していた。まるで妖精だ。

 私は、いろいろな意味で心臓が飛び上がるほど驚いたが、金縛りにあったように動けなくなっている。

 妖精が、動いた。

 銃を手にしようかとも思ったが、それもままならない。

 一瞬パニックになりかけたが、私は自分を落ち着かせていった。

 少女は、一歩後退してこちらを見ているだけだった。

 そうだ。この少女を見ろ。どう考えても私より強いとは思えない。私をおそれているようにしか見えないではないか。

 息をついて、妖精を見下ろす。彼女の瞳がゆれた。

 その怯え方は尋常ではなかった。泣きそうになっているのが私にもわかる。

 そして、かたかた震えている彼女は床に座り込んでしまう。

 ………………。

 私は落ち着いていた。

 ゆっくり、少女を驚かせないように近づいていく。

 彼女は、それを見てぎゅっと目を閉じる。私を相当恐れているようだ。

「怖がることはない」

 私は声に出して言った。だが、そうだ、私は一体何をしようというのだろう? 協力を要請するつもりなのか? だが、よく考えてみたら、この少女にとって私はこのゲームの中の敵でしかない。私にとっても然りだ。一体どうしようというのか?

 私には自分の行動がわからなくなってきた。

 だが少なくとも、この少女を殺す気にはなれなかった。

 少女は、まだ目をつぶって震えている。

 私はさらに言う。口をついて、自然と言葉が紡がれていく。

「私は別に、君を傷つけるつもりは毛頭ない。ただ、そこでそうやって怖がられていると、私はそんなに怖い顔だったろうかと不安になる。怖がらないでくれ」

 少女は、その声にゆっくり目を開けた。




「怖がることはない」

 え?

 ボクはその一言を聞いて、急速に落ち着いていった。そうだ。彼は鬼ではない。鬼であるはずがない。別に普通の顔をしてたし、普通にしゃべってるじゃないか。

 腕が四本あるだけだ。

 ボクが妖精になっているように。

「私は別に、君を傷つけるつもりは毛頭ない。ただ、そこでそうやって怖がられていると、私はそんなに怖い顔だったろうかと不安になる。怖がらないでくれ」

 彼は、ボクを撃ったりしなかった。別に普通の人なんだよ、きっと。

 ボクは、この人を信じて良いような気がした。

 だから目を開ける。見上げると、彼と目が合った。

 別に冷たい目じゃなかった。少し鋭い感じのする、それでもやさしそうな瞳がボクを映している。

 ボクは、笑みを浮かべた。その拍子に目尻から涙が零れ落ちたけど、そんなこと気にはしなかった。

 ずいぶん笑っていなかった自分に気が付いた。




 少女が私を見上げてにっこりと笑ったので、私はほっとしていた。

 どうやら彼女は、私に敵意が無いことを分かってくれたらしい。

 私は、少し彼女に近づいた。少しだ。そんなに近づく必要はない。

 そして、彼女の前に自分も座る。何か、話すべきだろう。だが、自己紹介をしようにも名前など思い出せない。

 何か、他の人に話したかった思いがあるはずだった。それに、あの『声』以外の人間と話せるというのがうれしい。

 しかし、何から切り出せば良い? この少女に、私は何を言えば良い?

 困っている私に、少女から話しかけてきた。

「やっぱりキミも、飛行機事故に遭った人なの?」

 ずいぶん無頓着な奴だな。いきなりその話題かよ。

「まあな。てことは君もそうなわけだ」

「うん。ボクはねえ、北海道に遊びに行くところだったんだけどね、いきなりぼーんってなって、どーんって感じに落ちちゃって、気付いたらここにいたの」

 私と同じだな。しかし、そうか。私は全く覚えていなかったが、その飛行機は北海道行きだったのか。私はなんのためにその飛行機に乗ったんだ?

 重要なことだった気がするが、それでも思い出せない。

「そうか。私もだ。気付いたら部屋の真中にいて、『声』に起こされた」

「綺麗な女の人の?」

「ああ」

「あの『声』さあ、ボクに言ったんだよ。『このゲームでみんな死んでくれたほうが都合が良い』ってね。すごいむかついちゃったよ。絶対直接会って懲らしめてやるんだから」

「まあ、確かに私もいらついたな。私達の運命を手の上で弄んでいるんだ、あいつは。人の命をなんとも思っちゃいない」

 また、さっき感じた怒りが沸き上がってきた。

 だが、私も少女もこのゲームに乗った人間だ。果たしてそんな私達に、『声』を非難する資格はあるのだろうか?

 それに『声』は、私達のことを明らかに監視している。このような話をして、大丈夫なのだろうか?

「そうだ。それよりも、君は自分の名前を覚えているか?」

「ううん。全然覚えてないよ。名前だけじゃなくて、年齢も性別も住所も電話番号も職業も何もかも、自分に関することは忘れてる」

「やっぱりか」

「やっぱり?」

「ああ。どうやら『声』は本当に私達に殺し合いをさせたいらしいな」

「どういうこと?」

 私は、少し迷ってからこう言った。

 ひどく、嫌な話になる。

「私達は普通とは違う姿にされている。その上、自分に関する記憶が無ければ、参加者同士が出会ってもその相手が誰だかは絶対にわからない。例えば相手が、恋人だろうが、家族だろうが、本当にそうだと認識する術はない。だから殺せる。大切な人を殺すのは抵抗があるが、他人だとすれば話は別だ。しかも、人外の物を前にすれば恐怖で引き金を引いてもおかしくない」

「そんな………」

 ちっ。嫌なゲームだ。

「あ、でもさ、ボク達は殺し合わなかったじゃない。だからさ、もしかしたらさ、大丈夫かもしれないよね?」

 ………………………。

 ふっと、私は小さく笑った。

「そうだな」

 この少女だけは守ろう。私は思った。

 そして、朧な意識の果てに、私の大事な人の姿がちらついた。

 それはすぐに消えてしまうが、それでも私にはうれしかった。

 何かが、私の中で変わり始めている。そう感じた。

「名前が無いと呼びにくいな。どうだ? 自分達で決めてしまうというのは?」

 私の提案に、妖精の少女は笑顔でうなずいた。

 昔、そんな笑顔をどこかで見たような気がする。

 いや、まあいい。

 今、私は四本腕の少年―――テトラス。

 私はテトラス。

 そうだ。生き返るまでは、その名でいこう。

 何故か、その名前しか思い浮かばなかった。




 名前か。そうか、そうだよね。一人じゃなくて二人になったら、名前が必要だよね。

 うーん。迷うなあ。悩むなあ。どうしようかなあ。

 ボクって妖精なんだよね。だったらそれなりの名前つけたいよね。

 妖精…フェアリー…!

 フェアリーを文字って、フェアルってのはどうだろうか?

 いいカンジかもしれない。うん。それにしよう。

 よし、今からボクはフェアルだ。


 そういえば、昔そんな名前のペット飼ってたような気がする。

 あれは犬だっけ? 猫だっけ?

 まあ、今はどうでもいいや、そんなこと。




 少しの間、適当な会話をしていた私達は、そろそろ行動を起こそうということになり、そこで問題にぶつかった。

 どうやって扉を回すのか(妙な言いまわしだな)、ということだ。

 普通に百八十度回転させるべきか、それとも回すことなく隣の部屋に移るべきか。

 それ以前に、隣の部屋へ移る前に警戒が必要なのではないか。

 他の参加者がいたらどうするべきか。

 妖精少女――フェアルは、絶対に殺したくないと言っているが、もしも相手が敵対行動をとってきたら、そんな悠長なことは言っていられまい。すぐに私も拳銃を抜いて………

「でもさ、テトラス。とりあえず扉を回しちゃおうよ。扉をくるっと回転させてる途中で、銃を持ってる危なそうな人が隣の部屋にいるのが見えたら、その部屋に行くのをやめて、そのまま扉回しちゃえば安全じゃない? 扉は百八十度の回転で壁と一体化するんでしょ。そいつこの部屋に来れなくなるじゃん。もしも、そういう人がいなければ、その部屋に行けばいい。どう? これ完璧でしょ?」

「扉を回している途中、その扉の真裏は死角になる。誰もいないと思って入って、銃持ってる奴がすぐ真横に現れたら、それこそ洒落になってない。私がここに来た時と同じ過ちをおかす気か?」

「………そういえばそうだね。テトラスってばおっちょこちょい」

「君もな。だが、確かに、ここでこうしていても仕方が無いんだ。この部屋に他の参加者が来ないとも限らないし、座っていても『声』の居場所は見つからない」

「じゃあ、どうするか決めてよ」

 ……………………

「私が、扉に背をつけたまま九十度、それを回転させる。私は、自分の見える範囲全てを警戒するから、君は私の見えない範囲に銃を向けてくれ」

「え?」

「だから、少し扉から離れて立って、扉の左側に銃を向けてれば良いんだ。扉が九十度回転したら、ちょうど私の死角となる辺りに銃口が向くだろう? もしそこに人――人以外の生き物でもいい――がいたら、『動くな』と言うんだ。私はそれを聞いたら、その相手を挟み込むように移動する。そこにいた人物が、その言葉を無視するような場合、何も考えずに逃げろ」

「どこに?」

「助かる方向に、だ。もしも何事も無ければ、君は扉の左側を通って私に見える位置まで来い。その時、絶対に何か言え。無言で死角から現れたら、撃つかもしれないぞ。君が私の視界に入ったら、私は扉を回す。どちら向きに回すかは、その時次第だ」

「………。いいねえ。それなら問題ないみたいだし」

「そうでもない」

「え?」

「私達がそんなことをしている間に、自分達のいる部屋に他の参加者がやってきた場合だ。私達は隣の部屋のほうに注意を向けているわけだから、その参加者には背を向けていることになる。そのまま撃たれたら死ぬ」

「だめじゃん」

 だが、それ以上良い案も浮かんでこなかったので、結局その案に合意した。

 私達はとりあえず、ある一つの扉に近づいた。その扉は、私が入ってきた扉を正面として左側にある物だ。この扉を選んだ理由も特に無い。どこに行けばいいのか分からない、というのは逆に言えば、どこに行っても同じだ、ということだ。

 その扉を背にして立つ。右上の手には銃を持っている。二人だという安心感のためか、先ほどのようには緊張しない。少し、うれしかった。自分がいかに極限的な状況にいたのかを、極限から抜け出した状況で思い返すことのできる今が。

 目を閉じて、深呼吸をした。落ち着いている。だが、どこかで、全てが夢なのではないかと疑っている自分がいたのだ。目を閉じて、深呼吸して、もう一度目を開ければ、いつもの見慣れた寝室なのではないか(もっとも、見慣れた寝室ももちろん思い出すことはできないが)、と疑う自分。何故か、そう疑うことこそが夢なのではないかと思うほどリアルな今。全てを背負って瞼を上げる。白い壁、白い床、白いテーブル。その中で一点輝くような妖精の少女。カラフルな髪は白に映え、その存在自体は現実から浮かび上がっているようにも思えた。ただ、夢ではなかった。悲しくもあり、一方ではうれしくもあり。

 笑みを、かすかに浮かべたような気がした。

 自分と、

 フェアルと、

 私を待ちうける運命が。

「フェアル、銃出して構えてろ」

 私の言葉にしたがって、彼女はミニスカートのポケットから銃を取り出した。グリップを握り、ぎこちなく両手でまっすぐこちらに――私のすぐ右横辺りに――照準を合わせる。心なしか、手が震えていた。

 私は、左肩のほうに体重を移動するようにして、扉を回転させていった。隣の部屋に注意を向けるのは当然ながら、今いた部屋にも注意を向けられるようにしなければならない。

 扉は三十度ほど回転した。今のところ誰もいないが、まだまだ隣の部屋に死角は多い。油断ならなかった。今の段階ではまだ、フェアルはほとんど何も見えないはずだ。

 そして、さらにすこし扉が回転した時―――

「テ、テトラス………」

 震えるようにフェアルがそう呟いた。私が目を向けると、彼女は泣きそうになりながら、銃を使って必死に私の死角となる扉の裏側の方を示している。

 何があったのかはわからない。しかし、何かがあったのは確かだ。

 人がいた時のサインとは異なる。だが、だからといって人がいないのだとは限らない。

 少し、あせり始めた。

 どうする?

 どうすればいい?

 直接、彼女に何があるのか聞いてみるのも一つの手だが、それで彼女が危険にさらされるような状況だということも十分に考えられる。

 しかし、だからといってこのまま扉を回転させていっていいものか………?

 私は、迷った末に、一気に扉を回転させた。九十度回転させたところで、左上の手で扉の端を押さえ、それを軸にして私自身が回転。扉の裏側へと体を向けて―――

 絶句する。

 どさっという、何か重い物が落ちるような音が聞こえ、同時に私の目に恐るべき光景が飛び込んできた。フェアルのいる部屋と私のいる部屋をまたぐように、人が倒れていた。どうやらこの扉に背中を持たせかけていたらしい………が。

 その人物の下には、自らの物と思われる真っ赤な液体で水溜りができていた。完全に、死んでいる。一目でわかるような光景だった。

 はっとして私はフェアルの方に目をやった。彼女は、私のほうに銃口を向けたままの姿勢で固まっていた。瞳は恐怖で見開かれ、そして唇はわなわなと震えている。

 何の前触れもなくその目から涙があふれ、つうと頬を流れ落ちる。

 そして、全てを拒絶した、叫び。

「いやああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 銃が手から落下した。彼女は頭を抱えるとその場にうずくまり、そのまま悲鳴を上げつづける。

 私は右腕の銃をしまうと、扉の、死体の無い側を通って彼女の元へ走った。扉は半時計回りに回転していったが、死体にひっかかって途中で回転をやめたようだ。

 彼女は、泣きつづける。叫びつづける。それは、私が近づいても同じことだった。

 私は、彼女の前にしゃがんで、目線の高さを同じにした。彼女を安心させる術を私は知らなかったが、それでも何とかしてあげたいという気持ちの方が強かった。少し躊躇したが、彼女の髪をやさしく撫でる。びくり、と一瞬震え、彼女は私に、子羊のように純粋で弱弱しい視線を投げかけてきた。ずきり、と心の奥が傷んだ。右上の手で彼女の涙をそっとぬぐってやる。左上の手で髪を撫で続けながら、私は言った。

「泣くな」

 心を込めたその言葉は、彼女の心にゆっくりと浸透し、しかし意味を理解できてもそれに従うことはできなかった。一度は止まっていた涙が、再びぽろぽろと零れ落ちる。

「だ、だって、今の、今の人、死、死んでた………………」

 嗚咽しながら切れ切れに、それだけを言って彼女はなおも泣いた。私は、何も言えない。彼女のショックはかなり大きいはずだ。どんな慰めの言葉も決して届きはしないだろう。

 けれども、私は何かしてやりたかった。心の支えというほど大きな存在でなくてもいい。とにかく、彼女を安心させられるような存在になることを、私は望んだ。

 私は、ただ待った。同じ時を、同じように、共有してやろう。

 彼女は泣きつづける。

 私は、彼女の髪を撫でつづけた。

 心配は何も要らないのだ、と。心で呼びかけながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る