未完成原稿の墓場(今迫直弥編)

今迫直弥

①グレイシャル・イクリプス(最終更新日1999年8月22日)

Kiss The Destiny~運命にくちづけを~


「ねえ、空也」

 僕は、少し後ろをついてくる鳴海の呼びかけに、振り向かずに声を返す。

「何?」

「何ってこともないでしょ。幼なじみにくらい愛嬌ふりまいたら?」

 僕は気づかれぬように苦笑して、今度は立ち止まった。鳴海が隣に並ぶのを待つ。

「で、何?」

「さっきと変わってないってーの」

「変えるつもりもないよ。だってだいたい、鳴海が呼んだから返事しただけなのに、あれ以上どう答えれば満足なのさ?」

「………『なんだい、鳴海ちゃん』って言いながら、さわやかにくるっと回ってみせる」

「却下」

 むうっとかわいくふくれている鳴海を横目で見ながら、そのまま夏の夜道を歩く。頭上について来る大きな満月が照らしている道は、それでもなお暗い。街灯の明かりが、道に沿って一定間隔に薄闇を切り取っている。

 鳴海の下駄がたてる、からころという音は、月夜の中でなんだか妙に幻想的だった。

 それにつられるように、僕は彼女の横顔を見つめていた。凛とした雰囲気をまとわせた、光を内包する黒い瞳。すらりと通った美しい鼻筋。耳の後ろを流れる、少しウェーブのかかった黒髪。その先を追って、真っ白な首筋が目に入った時、僕はあわてて目をそらした。そのまま視線が、浴衣の胸元に下りていきそうになったからだ。ただでさえ、僕は鳴海より背が高い。少しゆるくなった浴衣の合わせ目から、覗き込むような格好になってしまう。そこまで露骨なことをするのは、僕のプライドが許さなかった。

 そんな僕の動きに気づいているのかいないのか、さりげないタイミングで鳴海が口を開く。

「さっきの話の続きだけどさあ………」

 続きも何も、さっきは話の内容に触れていなかった気がするが。まあ、それは言わないでおこう。

「もしも、大切な友達と大切な家族のうちどちらか一方しか助けられないって状況になったら、空也はどっちを助ける?」

「はあ? 何? それってどういう状況なのさ?」

 僕は、逆に質問を返した。

「知らないわよ、そんなの。とりあえずそういう状況なんだってば。ほら、よくあるじゃない、究極の選択ってのがさあ」

 今あまり流行らないぜ、そういうの。

「………究極の選択、ね。僕なら………両方助ける」

「だから、無理なんだって。みんなそうしたいに決まってるけど、どちらか一方しか選べないからこそ究極の選択なんじゃん」

「じゃあ、僕の答えは究極の答えってことで駄目?」

 さすがにこれには、鳴海もあきれたみたいだった。ちょうどさしかかった街灯の光の下で立ち止まると、こちらを見上げてくる。

「昔から変わらないね、くーちゃんは」

 怒ったように、それでいて楽しそうに、鳴海はそう言った。くーちゃん、ね。幼い頃は確かにそう呼ばれていたような気がするが、今突然そんな名前で呼んでくれるなよ。

「一見無愛想で、態度とか言葉とかすごく素っ気無いんだけど、妙なところで茶目っ気があったりするのよね。しかも気分屋で、機嫌が悪いと口きいてくれないし、機嫌が良いと聞きたくもないこと一人でべらべらしゃべったりする」

 そこで彼女は、くすくすと笑った。それは昔から変わらない彼女の笑みだ。

「私は、そんなくーちゃんが大好きだった。………ずっと、一緒にいたかった………」

 突然の告白に面食らいながら、僕はある妙な点に気づいた。

 何で………過去形なんだ?

 それってつまり………………。

 いやな予感が、した。背筋をぞわりと何かがなでるような………そんな予感。

「………鳴海?」

 鳴海は、泣いていた。ぽろぽろと大粒の涙をこぼして、泣いていた。さっきまでの、いつも勝気な鳴海はもういない。何かの不安と戦っていた、そして何かの拍子に緊張の糸が切れた、弱気な女の子がここにいる。

 何で? 何でだ? 鳴海に何があったんだ? 誰が鳴海を泣かせたんだ? さっきまで普通にしてたじゃないか。一緒に花火大会見に行ったじゃないか。僕が浴衣着てなかったからちょっと怒ってたじゃないか。花火見て笑ってたじゃないか。来年も来ようって約束したじゃないか。………何で、泣いてるの………?

 この時、僕は、日常の終わりをどこかで感じていた。

 僕が彼女の肩に手をそっと乗せると、彼女は何も言わずに僕に抱きついてきた。僕の肩に顔をうずめて泣き声を押し殺し、両手は僕の背中にまわされる。………僕も、鳴海の背に両手をまわした。緊張で、腕が震えている。

 夜の路上で鳴海を抱きしめながら、僕はふと昔の出来事を思い出していた。


 小学校の頃の林間学校で、僕は同じクラスの男友達と、夜中に宿泊施設を抜け出した。興味本位なだけの行動だった。先生がするなと言ったからやりたくなった、というそれだけの話だ。間抜けなことに、僕らは抜け出した後闇雲に動き回り、林の中で道に迷った。大声を上げれば先生は助けに来てくれるだろうが、子供心に厳しく叱られたくないという意識が働いて、誰もそれをしようとはしなかった。ついには泣き出してしまう者まで現れ、その場は一種のパニック状態に陥った。僕は、とにかくみんな一緒にいるようにするんだ、と呼びかけ、散り散りになってしまうのを防ぐことしかできなかった。そこに、懐中電灯の明かりが近づいてくるのが見えた。僕らは、先生が来たのかと思って、助かったという安心感と怒られるという不安感を両方抱えて、ライトが近づくのを待った。けれどもそれは………鳴海だった。たった一人で、パジャマにビーチサンダルという格好で、僕らを探してやって来たのだ。僕らは、ぽかんとそれを見つめるだけだった。どうしたの、早く戻るわよ、と淡々と言って、彼女は歩き出した。僕らは慌ててそれを追う。僕は彼女の隣を歩いた。鳴海の持っている懐中電灯は、部屋に備え付けの物だった。僕らの部屋にもあったのだ。僕らは、それを持っていこうとすらしなかったのだ。自分がいかに愚かだったか思い知らされた気がした。

 よく見ると、鳴海はあちこちすり傷だらけになっていた。

「ごめん」

 思わず謝っていた。

「………謝るくらいなら最初からこんなことしないでよ」

「………ごめん」

「私、大変だったんだから。空也たちが脱走してるトコ見て、急いで後追ったけどもういなくて、探し回ったけど全然見つからなくて………」

 鳴海は、ぼそぼそとつぶやくようにその後を続けた。草を踏む音にかき消され、それはほとんど聞こえなかった。

「何? 何て言ったの?」

「すごく心配したんだから」

 俯きがちに、消え入りそうな声で言った彼女が、泣きそうになっているのを見て僕はぎょっとした。この時僕は、鳴海は強い女の子だ、という認識しかしていなかったし、思えば五歳からの付き合いだが、彼女の泣き顔など見たこともなかったのだ。

 何か、自分がすごく悪いことをした気になっていた。

 そして少女はその顔のまま、こう尋ねる。

「空也は、私がいなくなったら心配してくれる?」

「………たぶん、ね」

 鳴海は持っていた懐中電灯で僕の頭を軽く小突いた。

「嘘でもするって言っとくもんなの。普通は」

 少し、笑っていた。


 いなくなる………?

 自分の発想に、僕は心の底から身震いした。側にいるのが今や当たり前になっている鳴海がいない世界なんて、僕には想像もできない。

 いつからだろうか。この幼なじみの少女が、僕にとってかけがいのないものになっていたのは? ずっと昔、それこそ前世からのような気もするし、ごく最近、つい今しがたのような気もする。ずいぶん、おぼろげなのは、何故だろう………?

 不意に、鳴海が顔を上げた。少し身をよじるようにして、僕の腕の束縛から逃れると、少し赤くなった目で僕を見上げる。黒い瞳は僕を映し、なお不安に揺れていた。

 その目が、ゆっくりと閉じられる。長い睫毛が、少し震えていた。僕は、両手を鳴海の細い肩に置いて、そっと唇を重ねる。

 初めてのくちづけは、永遠とも思えるほど長い間続けられた。

 その唇が離れた時、幻のように彼女が儚く消えていくような気がして、それが、怖かった。彼女が、何故突然泣き出したのか僕はまだ知らない。けれども、彼女が僕とこうしている間安心できるのなら、理由なんて聞かずに続けてればいいんだ。

「んっ」

 と鳴海は小さく吐息し、唇を離した。そして、さみしさを押さえて無理に笑んだ顔を見せ、両手を広げて僕に抱きついてくる。その手を再び僕の背中にまわし、その姿勢のままで僕の顔を見上げた。どこか、さっきより少し安堵している。

 僕は、右手で彼女の髪を梳きながら、できる限りやさしい声で彼女に問い掛けた。

「何が、あったんだ?」

「………何かがあったわけじゃない。……これからあるの」

 鳴海は、いつもと同じようにしゃべろうと振舞っていた。しかし、泣いていたせいで声が震えているし、なにより元気がない。

「………何が、あるのさ?」

「お別れ」

 ポツリとつぶやかれたその一言に、僕は大きな衝撃を受けた。予想していたことではあったが、本人の口から聞くと、やはりショックは大きい。

「………引越しか何か?」

 僕は、それでも冷静さを保ち、『一般レベルでのお別れ』を持ち出した。そう。お別れといっても別に、もう二度と会えないわけじゃない。会おうと思えばいくらでも会える。

 そう思っていた………………。

 彼女は、小さく首を振る。髪がふわりとゆれ、リンスの香りが鼻腔をくすぐった。

「帰らなくちゃいけないの。………本当の家に。だから、もう会えないかも………」

 え? 何を言ってるんだ、鳴海? 君の家は、僕の家の二軒となりだろ? 二階建ての広い家で、庭ではいつもゴールデンレトリバーのコースケが昼寝してるじゃん。コースケの小屋の近くに花壇があってさ、小学生の頃二人でチューリップ植えてさ、咲いたとき一緒に大喜びしたじゃん。僕が遊びに行くと、いつもお母さんがおいしいハーブティー淹れてくれるじゃん。鳴海の部屋はいつもきれいに片付いてて、壁にジグソーパズルが飾られてるじゃん。海を泳いでるイルカのやつ。あれは僕が手伝って完成させたんだよ、覚えてるだろ。なあ、これが鳴海の家だよな? なあ、僕の言ってること間違ってるか?

「………………ど、どういうこと、それ?」

 けれども実際には、そんな言葉しか出てこない。何かが頭の中で空回りしているような、そんな気がした。

「………言っても、きっと信じてもらえないだろうけど………」

 鳴海は、僕に体を密着させたまま身じろぎし、背中にまわしていた手を僕の肩に置き換えた。そして爪先立ちになり、僕の耳元に唇を寄せる。

「実は私は、かぐや姫なの………」

 思わず彼女のほうに顔を向けた僕の唇に、再び、温かく柔らかい感触が伝わってきた。鳴海はいったん唇を離し、艶っぽく笑う。それは、いつもの幼い雰囲気とは違う、大人の美しさだった。

「………ずっと、こうしていて…………………」

 切なげに哀願して、鳴海は三たび僕と唇を重ねる。僕は、腕の中で彼女を強く抱きしめた。鳴海がどこにも行かないように。鳴海がどこかに行かないように。かぐや姫を迎えに来る月からの使者に、鳴海を奪われないように………。

 僕は、永遠を願った。

 今のこの瞬間が、ずっとずっと続いて欲しかった。

 自分の頬が濡れているのに気付いたが、それを無視してくちづけを続けた。人に見られているかもしれなかったが、そんなことは気にしなかった。

 ……………………………………………………………。

 突如、何の前触れもなく、腕の中から彼女の体の感触が消えた。僕の肩に乗せられていた手の感触も、そこから僕に預けられていた重みも、押し付けられていた双丘の柔らかい感触も、全てが一瞬で消え失せたのだ。

 閉じていた目を開くと、そこには僕しかいなかった。唯一まだ感触の残っているような唇を何とはなしに指で撫でながら、辺りを見まわしてもやはり誰もいない。街灯の下、一人涙を流し、僕は立ち竦んだ。

 鳴海は、消えてしまった。本当に種も仕掛けもなく、いなくなってしまったのだ。

 どうしてだ? どうしてこんな非現実的な別れを迎えなければいけないんだ?

 悲しみより、怒りのほうが大きかった。

 それでも涙は止まらなかった。もう二度と、鳴海の顔を見られないのか? 綺麗な顔立ちなのに、幼い雰囲気のせいで、かわいらしいという印象を与えるあの顔を。もう二度と、鳴海の笑い声を聞くことはできないのか? くすくすという、これまたかわいらしいあの声を。もう二度と、鳴海を抱きしめることはできないのか? 一見線が細いけれども、女性らしく美しいプロポーションを持つあの体を。

「鳴海………」

 涙とともに、彼女の全てが溢れ出してくる。それはあたかも、とどまることを知らぬ泉のようだった。

 本当に大切なものは失ってからその価値に気付く、とよく言う………。ついさっきまで、鳴海がいる日常を、僕は当たり前だと思っていた。僕はそれを失って………。

 無性に悔しかった。こんな自分が悔しくて仕方なかった。……気付いてろよ……。どこかで、僕の声が言う。そうだ。どうして僕は気付けなかったんだろう?

 僕は、地面に膝をついて、絶望を噛み締める。

 うわああああああああああああああああああああああああああああああ。

 心の中でのみ、虚ろな絶叫は響いていた。



 少し難しい仕事を終えて、ささやかな達成感に浸りながら家路を急ぐ私は、前方の一種異様な光景を見て思わず立ち止まりました。

 Tシャツにジーンズというありふれた格好をした少年が、街灯の下で号泣していたのです。この光景は恐怖でした。何故こんなところで泣いているのでしょうか?

 考えても仕方ありません。とにかく私は、好奇心の後押しもあり、その少年に近づいて声をかけてみることにしました。

 少年は、甲子園でサヨナラホームランを打たれた投手のようにがくりと膝をついて男泣きに泣いているのでした。私がずいぶん近くに来たのに、少年はこちらに気付きもしません。不気味です。新手の都市伝説か何かに、こんな怪談話があってもおかしくありません。その名も『号泣少年』とか。ほら、『口裂け女』と同じノリで、ですね………。

 お? 私は少し驚きました。この少年、なかなかどうして、かなり格好良いじゃないですか。顔をくしゃくしゃにしていても、いい男というのはやはりさまになる、というわけです。これは、ますます放っとくわけにはいきません。私は、そんな彼についに声をかけました。相手を心から気遣うおしとやかな女性を演じながら。

「あの、どうかされたんですか?」

 言いつつ、彼の隣にしゃがみこみ、目線の高さを合わせます。ミニスカートから下着がのぞけて見えるかもしれませんが、彼はそんなことはしないでしょう。たぶん。

 しかし突然、少年は私の声に、過剰とも言える反応を見せました。がばと顔を上げると、私の肩を両手で鷲掴みにしたのです。あまりの強さに、両肩が痛みに悲鳴を上げましたが、私はいつものように平然とした顔で痛覚を遮断しました。仕事柄、こんなことは朝飯前です。ともかく少年は、充血した目を見開いて私を凝視していましたが、しばらくそうした後に、何かを口の中でだけ呟いて、手を離しました。そしてまた両目から涙が溢れ出すのです。襲われてもこの人になら体を許そう、などと不謹慎な妄想を抱いていた私は、それを見て我に返り、困り果ててしまいました。事情を聞こうにもこれではどうしようもありません。

 彼はどうやら、何かの出来事のせいで、一種のパニック状態になっているようでした。どうすれば良いのでしょう? 途方にくれて夜空を見上げれば、大きな満月が私を見下ろしていました。お月さん、そんなところで傍観してないで、助けてくださいよ。

 願いが通じたのかどうか、私の頭にある妙案が浮かびました。

 セトラさんを呼びましょう!

 セトラさんというのは、本名をJ・セトラという私の同居人の頼りになる男性です。恋人ではありません。私の保護者であり、仕事の上でのよき理解者でもあります。ジャーナリストですが、ほとんど仕事らしい仕事をしていません。お金に困らないからです。

 とにかく私は、ナップザックに入っている携帯電話を取り出して、自宅の電話番号をプッシュしました。時刻は八時二十分。彼は、いつもならこの時間、書斎で資料の整理をしているはずです。

 コール音二回で相手が出ました。

『もしもし椎名ですけど』

 椎名というのは私の苗字です。

 そして、電話口に出たのはセトラさんではありませんでした。

「玲人君? 私ですけど、セトラさんいますか?」

 彼の名前は稲垣玲人。私が仕事で救い出した人なんですけど、その縁で彼も同居してるんです。十七歳。きりっとした顔に笑顔の似合う、俳優顔負けのルックスで、つい最近組んだバンドではギターとヴォーカルを担当しています。近々、行き付けのライブハウスで真夏の二十四時間ライブをやるとか何とか………。ちなみに彼も恋人とかじゃないです。

『何だ、姫巫女さんですか。セトラさんなら、たったいまあなたを迎えに行きましたよ。車に乗って。今、どこにいるんです? 仕事は片付いたんですか?』

 姫巫女というのはもちろん私の名前です。

 椎名姫巫女。これでも、裏の世界では有名なんですよ。

「ええ、仕事は片付いてます。ただ、ちょっと道でまごついてるだけ。たぶんセトラさんもここ通ると思いますから、合流して一緒に帰ります。心配しないでください」

『はあ。では、待ってますから、夕食冷めないうちに帰ってきて下さいよ』

 電話がそう言って切れてしまうと、私は再び『号泣少年』と二人きりでした。私は、道の端に、膝を抱えて座りました。セトラさんの車が早く来てくれることを願います。

 少年は相も変わらず泣き続けているばかりでしたが、私はあることに気付きました。

 彼の唇のまわりに、薄いピンク色が付着しているのです。そう、それはまさに、ルージュを引いた女性と濃厚なくちづけを交わしたあとのような………。

 ような、というかそうなのでしょう、きっと。うーん。この純情そうな少年がそんなことを………。その相手がうらやましくなったりしている私でしたが、その時、ある可能性に思い当たり、顔をしかめました。

 もしこの少年が号泣している理由が、彼女に別れを告げられたから、とかだったらどうしよう、ということです。そんなどうでもいいことのために私が心配を重ねていたのだとしたら? 私は悲しいピエロじゃないですか!

 まあ、おそらくそれはないと思いますが………。何故か、ですって? 女の勘ですよ。

 向こうの角を曲がって、二条の光がこちらに向かってきました。この辺りは、あまり普通の車は通りませんし、おそらくセトラさんの物でしょう。

 思った通り、見なれた白いバンが私の前に停車しました。運転席のドアが開き、無精髭の目立つワイルドな顔がひょっこり出てきます。私を上から見下ろすようにして、一言。

「何やってるんだ? お前は?」

「座り込んでるんです」

 セトラさんは顔をしかめました。

「そんなのは見ればわかる。聞き方を変えるか。そいつは誰だ? 何故泣いている?」

 少年は、いまや車の存在にすら気付かぬ様子で泣き続けているのでした。

「この人は、何故かここで泣いてたんです。それで、この人が何者なのか知りたかったから、セトラさんを待ってたんじゃないですか」

 セトラさんには、ある特殊な才能があって、人の顔を見ただけで、その人の名前と年齢、だいたいの性格がわかってしまいます。名前がわかる、というのが怖いところですよね。

 やれやれ、と一息ついてセトラさんは、じっと少年を見つめました。そして、むっと眉をひそめ、一転。真剣な顔になります。

「浜口空也。十六歳。………性格が見えてこないな。かなり心が壊れてきてやがる。ったく、取り返しがつくうちでよかったぜ」

 ぶつぶつ言いながら、シートベルトをはずしてドアを開けると、セトラさんは少年(空也君というらしい)の真横に降り立ちました。そして、全く躊躇せず、無防備にさらされていた首筋に手刀を叩き込みます。正確に決まった一撃は、空也君の意識を完全に奪ってしまったようでした。セトラさんは、ぐったりした少年を軽々抱え上げると、私の方を向かず、ただ後部座席のドアをあごでしゃくりました。開けろ、と言っているのです。

 私は立ち上がって埃を払うと、彼の指示通りドアを横にスライドさせました。七人乗りのバンは、前列に二人、中列に二人、後列に三人座れるようになっていて、セトラさんはその後列に少年を横たえました。そして、お前も乗れよ、という目でこちらを見ています。

 私は、子供のように頬を膨らませると、手を広げて抱き上げてくれるように催促しました。セトラさんは、一瞬だけ怒ったような表情をしましたが、すぐにあきらめて、私の背中に左手を、膝の裏に右手を添えて、ひょいと持ち上げてくれました。宙に浮いたような感覚の後、私は彼の腕の中、荷物のように抱えられています。彼の首に腕をまわし、感謝の意味を込め、ぐっと顔を持ち上げるようにすると、私は彼の唇にキスをしました。しかも、舌まで入れちゃいます。セトラさんは応じようとも拒絶しようともせずに、そのまま私を中列の席に運びました。半ば強引に唇を離し、私の髪をくしゃくしゃと撫でた後、外からスライドドアを閉めて、自らは運転席に乗り込みます。何度も言うようですが、彼とは恋人とかそういう関係ではありません。

 とにかくこうして、バンは私の家に向けて(といってもこの車は家からここに来たわけだから、家とは全く逆の方向を向いているのですが)、出発しました。


 家に到着するまで、ものの五分とかかりません。その間、私もセトラさんも、必要最低限のこと以外全くしゃべらず、車内には一見気まずい雰囲気が流れていました。まあ、その実そうでもなくて、ただ二人とも基本的に無口な性分なだけなんですけどね。

 車は、大きな通りから右折し、広々とした駐車場に入りました。空いている適当なスペースに滑り込むと、ちょっと揺れてからがくんと停車します。私はぐっと力を入れてドアを開き、たんと少し高くなった車内から飛び降りました。セトラさんが運転席から出て来るのも待たずに、目の前に立ちはだかる高級マンションの入り口に向かって走り出します。後ろから、何か言いたげな視線が来るのを無視して走り続け、エントランスをくぐりました。郵便受けの中を確認し、こちらを見ている管理人さんに軽く手など振りながら、エレベーターに乗るのでした。八階のボタンを押して、ドアが閉まると、下からの慣性が伝わってきて、上昇を始めます。すぐに今度は浮き上がるような感じを伴って、エレベーターは停止しました。速すぎるエレベーターは忙しいですね、本当に。ドアが開ききるより前にフロアに降り立ち、まっすぐ八〇三号室に向かいます。ためらわずにノブに手をかけ、かれこれ二日ぶりになる我が家に、私は帰還したのでした。

「ただいまー」

 家に一歩入ったとたん、ひんやりとした空気が汗ばんだ肌を心地よく撫でました。暑がりの玲人君が冷房をがんがん効かせているのです。靴を脱ぐのももどかしく、居間に直行した私は、その、マンションとは思えないほど広いリビングに、目的の男の子の姿を見つけました。玲人君は、食器の並んだテーブルに腰掛けて、練習用の音の出ないギターを弾いています。よりによってそんなところで練習しなくても、と思いましたが、そこが、冷房の直撃する一番涼しいところだと思いついて感心するやらあきれるやらの私でした。

 少年は、顔を上げていつもの笑顔で迎えてくれました。

「お帰りなさい。………あれ、セトラさんはどうしたんですか?」

「もうすぐ来ますよ」

 そう言って、私は無造作に彼に近づきました。そして、座っている彼の頭を両手で抱え、ごついギター越しにキスをします。もちろん、ディープキスです。

 いや、妙な誤解されると困るから断っておきますけど、これは挨拶ですよ。ええ、そうです。少なくとも私はそのつもりですし、セトラさんも、明らかにそう思っています。もっとも、格好良い男の人にしかしない挨拶ですが。

 まあ、私の場合、外見が外見ですから、いざとなれば、たちの悪いジョークです,と言って切り抜けられますので、その点が強みですかね。

 玲人君は、激しく私に応じてくれるので、なかなかうれしいんですが、逆に一つ懸念があります。もしかして、彼本気になってませんか、ということです。いや、まあ、誤解されるようなこといつもしているのは私なので、責任は私にあると思うのですが、これは困ったことです。いくら彼が私を愛してくれているとしても、私は彼に応えることはできません。私には、自分の望んだかたちでの恋愛が出来ない、という宿命というか呪いというか、そういうものが付きまとっているのです。自分でもそれを自覚しています。ですから、私の男好きの性分も、その反動なんです。自棄になって、手当たり次第に手を出している、というそれだけのことなのです。

 もっとも、体を重ねた男性はこれまで一人たりともいません。一線は越えない、というのが私のポリシーですから。

 玲人君は、私の唇を激しく吸いながら、右手を私の太股に這わせました。その手は徐々に上昇していって、ついにはスカートの中にまでもぐりこんできます。そのまま快楽に溺れるのもいいかな、と頭のどこかで思いながらも、私はやんわりと彼の手を払い、名残惜しいですが唇を離しました。

「駄目ですよ、玲人君。そこまでは許しません」

 どこか教師のような口調でそう言うと、玲人君はばつが悪そうにこちらを見上げました。

「ごめんなさい」

 子供のように謝る彼がたまらなくいとおしく思え、私はもう一度、今度は軽く、キスをしました。

 その時、がちゃりと音がして、玄関に人の入ってくる音がしました。

「稲垣! ちょっと来て、手伝ってくれ!」

 セトラさんが、少年を運んで到着したようです。

 何を手伝うのかわからない玲人君は、首をひねりつつ私の方を向きました。私がジェスチャーで、唇のまわりに触れるようにすると、ようやく自分の口のまわりが真っ赤になっているのに気付き、あわててティッシュでぬぐいます。もっともそれは、口紅ではなく色付きのリップクリームなので、簡単に落ちました。そして、ギターを置いて玄関に向かうのでした。

 私は、ここで待ちます。

「誰ですか、これは?」

 向こうで、驚きあきれる玲人君の声がしました。

 はあ、と思わず嘆息する私でした。何か、一波乱あるような気がしたのです。



 鳴海………鳴海………鳴海………。

 いくら呼んでも、彼女はどこにもいなかった。

 僕は暗闇の中、走る。少女を探して、走る。

 何かにつまづいて、僕はぶざまに頭から転がった。不思議と痛みはない。

 僕は立ち上がると、また走り出した。

 鳴海………鳴海………。

 少女の面影を探しても、なぜかそれが浮かんでこない。

 何も見えず、それでも何かを信じて僕は走った。

 不意に、右側から光が差し込むのを感じた。僕は足を止めてそちらを眺めやる。光は僕を包み込むように広がって、僕はあまりの眩しさに目を閉じた。

 もう一度目を開いた時、そこは花畑だった。信じられないほど綺麗な、赤や青や黄色や白の花が、一面に広がっている。空を見れば、そこは雲一つない。ひたすらの空色。太陽すらなかったが、僕にはあまり気にならなかった。

 ………そこにいたのは僕一人ではない。

 はるか遠く、空と花の境に、少女が佇んでいるのが目に入ったのだ。

 鳴海!!!!!

 僕は、足元の花を蹴散らしながら(と言っても、花は踏まれても蹴られても全く変わらぬ姿でそこにあったが)、少女に向かって疾駆した。風を切り、風となる。自分でも驚くようなスピードで、僕は走っていた。

 少女の姿が徐々に大きくなる。それは、間違いなく鳴海だった。僕の見たことのない白のワンピースを着て、つばの長い麦藁帽子をかぶっている。

「鳴海!」

 僕が大きく叫ぶと、彼女も気付いたようだ。こちらに向けて、大きく手を振った。が、その拍子に麦藁帽子が風で舞い上がってしまう。それは、空中で流され、かなり遠ざかっていった。

 少女はあわててそれを追う。僕は少女を追う。少女がいくら追っても、麦藁帽子はそれを越える速さで遠ざかっていき、決して追いつくことはできない。

 ………………………………………。

 それは、僕も同じだった。麦藁帽を追う少女は、風となって走る僕からどんどん離れていく。決して、追いつくことはできない。息が切れてきた。体が限界を伝えてきても、僕は走った。

 追い続けた。少女の姿がもはや見えなくなっても、それでも追った。

 とうとう、走れなくなった。いつのまにか、枯れた原っぱのようなところにいたが、そんなことはどうでもよかった。

 がくりと膝を折り、僕はついに座り込んだ。

 闇が、再び僕を包もうとしていた。

 悔しかった。

 でも、何かもうどうでもよくなった気がした。

 そう思った途端、一気に僕に闇が迫ってきた。

 ああ、僕はこの闇の中消える運命なんだ………。

 僕が闇を受け入れようとした刹那、目の前に誰かが現れた。誰なのかは、もうわからない。そしてその誰かは、僕の唇に、自分のそれを重ねてきた。

 柔らかく、温かい感触。

 それは、自分の愛していた少女の物とは違う気がしたが。

 逆にいえばそれは、その少女を忘れていないということ。

 忘れていないのなら、僕はあきらめない。

 そうだ。鳴海。僕は、君を迎えに……………。


 意識が、現実に戻ってくるにつれ、それが僕に伝えてきたことは三つ。

 僕が、横になっているということ。

 僕の上に、何かが乗っているということ。

 そして、僕の唇に、もう一つ唇が重ねられているということ。

 !!!!!!!!

 僕は慌てて目を開けた。視界いっぱいに、目を閉じた女の子の顔があった。鳴海………では、ない。この少女が、僕にキスをしているのだとすぐにわかったが、拒絶しようにも何故か体が動かない。

 !!!!!!!!

 少女の舌が、僕の唇をこじ開け、口の中に進入してきた。抗おうとしたが、やはり体は動かなかった。少女の舌が、僕の口の中を動き回る。それは、心の奥に達するほどの甘美な衝撃となって僕を襲い、僕はそれに陶酔した。

 しばらく、その快感に浸っていると、少女が目を開いた。

 ………………………………………。

 焦点が合わないほど近い距離にあった二人の視線が、確かに交錯した。

 ………………………………………。

 少女はゆっくりと、もったいをつけるように顔を離す。その時初めて、僕は自分の上にその少女が乗っかっているのに気付いた。体が動かなかったのはそのせいかとも思ったが、どうやら違うらしい。まだ、脳しか覚醒していないからだろう。ここまで顕著におこることはなかったが、寝起きにほとんど体が動かない、ということは稀にあった。

 少女は、顔を離してから、僕が動けないことに気付いたのか、再びその顔を近づけてきた。拒絶、できなかったし、しようとも思わなかった。

 唇同士が触れるか触れないか、という所で、がちゃりというドアを開ける音が聞こえた。

 人が入ってくる気配がする。ここは室内だったのか。

 少女は、もう僕の唇に固執しようとはせずに、顔を上げ、ドアのほうを向く。あれ? 何かこの少女、すごく幼く見えるぞ………。

「姫巫女さん、どうですか?」

 ドアの前の人影が(首は動かなかったが、視界の隅に入れることはできた)、よく通る男声で尋ねた。機嫌が悪いのか、声には非難の色が強い。

「目を覚ましました。やっぱり、私の言った通りじゃないですか」

 姫巫女さんと呼ばれた、僕の上にいる少女が答える。

「………なら、早くそこからどいてあげたらどうですか?」

「何? もしかして妬いてるんですか?」

「ち、違いますよ。ほら、彼だって、姫巫女さんが上にいるから動けないじゃないですか」

「失礼ですね。私は軽いですから、上に乗ったくらいで動けなくなるわけないでしょう。この子は、何か他の理由で動けないようなんです。とりあえず、セトラさんを呼んできて下さい」

「わかりました。呼んでくるまでには、そこから降りといて下さいね」

「やっぱり妬いてるんじゃないですか」

「………………」

 ばたん、と大きな音を立てて扉が閉まった。

 少女は、僕の上からベッドの上に下りて、僕のすぐ隣に横になる。

 僕は、少し動くようになった首の筋肉を駆使して、彼女の顔をよく見ようと、頭を横に向けた。

 そして、絶句する。

 少女は、どうみても僕より五歳は年下だった。かわいらしい顔のつくりをしてはいるが、どう贔屓目に見ても、ティーンエージャーには手が届かないだろう。そんな年端もいかぬ少女とくちづけを交わして、あまつさえその魅力の虜になっていた自分が腹立たしくてしょうがない。

「私とキスしたのがそんなに嫌だったですか?」

 僕の表情を見て、悲しげに少女は呟いた。

 僕は、声が出ることを確かめるためも含めて、口を開く。

「いや、そういうわけじゃない」

 声は、出るようだ。

「君のキスのおかげで、僕はあきらめずにすんだ。鳴海のことを、忘れずにすんだ。感謝しているよ」

 そうなのだ。今思うと、どうやらさっき、僕の頭の中から鳴海に関する記憶が消え去ろうとしていたようなのだ。危ないところだった。

「………鳴海さんっていうんですか、あなたの彼女は。ずいぶん情熱的なキスをする方だったようですね」

「何故?」

「あなたの唇のまわり、口紅が付着してましたよ」

 くすくすと、少女は笑う。それは、鳴海の笑い方に似ていた。

「君はどうして僕にキスを?」

「眠り姫が、王子のくちづけで目を覚ましたのを思い出したからです」

 僕は、ぽかんとした。

「というのが建前で、本当はただあなたの唇を味わってみたかっただけです」

 僕は、苦笑。すごいことを考える子供だ。

 その表情を見て取って、少女はむっと不機嫌な顔をした。

「今あなた、私のことを、ませたガキだ、とか思ったでしょう」

「え? え、いや、そんなことは………」

「はあ、どうしてみんな私を子供だと思うんでしょうね?」

 本当に困ったもんだ、と言いたげに横になったまま肩をすくめる。

「私、こう見えても二十三歳なんですけど」

「嘘ぉ!?」

 冗談にしか聞こえない。

「失礼ですね。もう一度思い知らせてあげましょうか?」

 有無を言わさず、横合いから伸びてきた手に僕の頭は抱き寄せられた。僕の唇は再び彼女に奪われる。抵抗する気も失せる、甘いくちづけだった。

「どうです? こんなことのできる子供が、この世にいると思います?」

 彼女は(姫巫女という名をこれから使わせてもらうが)、僕の唇にかすかに触れながら言葉を紡ぐ。それが、くすぐったくて気持ちよかった。

 鳴海とくちづけていた時とは違う悦びがある。

 姫巫女さんは、舌を伸ばして僕の唇の上を軽くなぞった。この人は………。

 がちゃり。ドアの開く音に、僕はびくりとした。僕はドアの反対のほうを向いているので、どうなっているのかわからない。

「姫巫女さん………」

 爆発寸前の、震えた声が聞こえてくる。さっきここに来た人のものだ。

「何やってるんですか!!!!! あなたは!!!!!!」

 爆発した。僕は気が気ではなく、唯一動く首を動かしてそちらを見ようとしたが、姫巫女さんの手がそれを押さえつけた。

「やきもち妬かないで下さい、玲人君。あなたにも後でやってあげますから」

 言って姫巫女さんは、僕の唇に吸い付いた。

 ………誰か、助けてくれ………。

「椎名、お前が美少年好きだということはもう嫌と言うほどわかったから、そこをどいてくれ。というか、どけ」

 突然、低い声が響いた。それにしたがうように、姫巫女さんは僕の前から立ち上がり、視界の外へ消えた。代わりに、九十度横を向いた(僕が横になっているからだ)野性的な顔立ちが、僕の前に現れた。この人が、セトラさんとかいう人だろうか。

「動けないか?」

 男は問う。

「はい、すみません」

「謝らなくても良い。………少し痛いが我慢しろよ」

 突然男は、僕の首を上に向かせ、左右のこめかみの辺りを親指の腹で押した。

「痛っっっっっっ」

 僕は、思わず叫んで、逃れるために体をねじる。………動けた。

「あ、ありがとうございます」

「礼はいらない。もともとお前さんを眠らせたのは私だからな」

 不敵に笑って男は、さて、と話題を変えた。

「椎名のくちづけが効いたのかどうか、お前は平常を保ったまま目を覚ました。そのお前に聞きたい。何故、お前はあんなところで泣いていた?」

「どうして、そんなことを気にするんですか?」

 僕は、逆に質問を返す。

「お前は、精神崩壊をしかけていた」

 絶句。

「だから、お前がそうなったのには何かかなり大きな理由があったはずだ、と私はふんだのだ。経験上、私の読みは、八割方あたって………」

「そして、全てが、何らかの事件に直結しているんですよね」

 さっきから玲人とかいう人といちゃいちゃやっていた姫巫女さんが、口を挟んだ。ちなみに、いちゃいちゃしていると言っても、その光景は、幼い妹が兄に甘えているようにしか見えない。

「まあ、そんなわけで私は、お前が何かの事件に遭遇したのだ、と思っている。それを話してもらえないだろうか? 浜口空也君」

「! 何故、僕の名前を?」

「私の才能でね。人名を当てるのが得意なんだ」

 そんな才能があろうはずはないから、科学的な説明を考える。………この人は、地球上の人間全員の顔と名前を一致させて覚えている。………そんなわけないか。

 僕の身元を調べたんだろう、きっと。

「頼む。話してくれ、浜口君」

「………………………………」

「社交的とは程遠く無愛想だが、反面やさしさと責任感を兼ね備えている」

「!!!!」

「お前の性格だ。どうだ、当たっているだろう」

「ああ」

「そしてお前は、年上の男が特に苦手だ。だから、今自分なりに息苦しさを感じているんじゃないか?」

「………何者ですか? あなたは」

「失礼。自己紹介がまだだったか。私はJ・セトラ。ジャーナリストだ」

「そんなことを聞いているんじゃないです。何故、調べようがない僕の性格まで見抜けるんですか?」

「それに答えれば、私の質問に答えてくれるかな?」

「さあ。あなた方に話すことで僕にメリットがあるというならば話しますよ。どうです?」

 鳴海に、嫌な感じ、と面と向かって言われたことのある壮絶な笑みを浮かべ、僕はJ・セトラに先を促した。



 こいつは、一癖も二癖もありそうだ。私は、ベッドに腰かける少年を見下ろすようにしながら嘆息した。いっそのこと椎名とこいつを二人きりにしてこの部屋へ残し、椎名に全てを任せてしまおうか。何も考えていないように見えて実は私より計算高い彼女なら、こいつに何があったのか簡単に聞き出せるだろう。こちらの手のうちをほとんど明かさずに。

「セトラさん」

 当の椎名が、私に声をかけてきた。

 無言で振り向くと、どうどうと稲垣とくちづけを交わしている椎名がそこにいる。

 稲垣、お前、実はここにいる意味ないぞ。

「私たちのこと、全部話しちゃってもいいですから」

 おいおい、いいのかよ。ったく自分の仕事のこときちんと認識してるのか、こいつは?

「そうか。なら話は早いな」

 私は、顔を浜口に向けた。浜口は、疑わしげにこちらを凝視している。

「浜口君、お前は超能力を信じているか?」

「はあ? 超能力? 信じてないですね、そんなもん」

「その方が無難だな。この世から、本物の超能力者はいなくなろうとしている」

「何、つまりいるんですか、超能力者?」

「ああ。超能力だけじゃない。この世の中には、実は現代の科学では説明のつかない物がそこら中に転がっている。超常現象に超常技術、人を超えた存在である超人なんてのもいる。それらを総称して怪奇事象というのだが」

「待ってください。それが何か、僕の聞きたいことと関係あるんですか?」

「無論だ。私の見たところ、お前は、怪奇事象と何らかの形で関わったようだからな」

「………さっきあなた方の使ってた『事件』って単語は、文字通りのただの事件じゃなくて、怪奇事象のことを指してたんですね」

「察しが良いな」

 私は、にやりとした。

「椎名は、世の中にはびこる怪奇事象を訂正するという仕事をしている。こいつは、政府公認の裏稼業ってやつで、怪奇事象の訂正のためなら、何をしても罪には問われない」

「え? そんな人いていいんですか?」

「ああ。怪奇事象を訂正して生計を立てている者は割と多いが、日本国内で超法規の特権を持っている訂正者は椎名一人だけだからな。プロなんだよ、椎名は。十一年前に国連に任命されてんだ。第四代日本国ミステリーコレクターにな」

 ミステリ-コレクター。コレクターとは、収集家のことではなく、訂正者の意味だ。

「わかったか? つまり、お前がどんな怪奇事象に遭遇したのか知らんが、椎名はそれを絶対に訂正できる。私も、椎名と一緒に数々の事件を解決してきた。話してくれれば、私たちが………」

「もういいです。わかりました。話します。しかし、セトラさん、一つ聞かせてください。超能力を持っているあなたが訂正されないのは何故なんですか」

 ほう、こいつなかなか鋭いところに気付く。

「ばれていないからだ」

「え?」

「私が、超能力者、つまり怪奇事象であることに、アマチュアコレクターは誰も気付いていないのさ」

「姫巫女さんは?」

「知らない振りをしている。私が人の顔を見ただけで名前、年齢、性格を見ぬくのは、すばらしい才能であって、超能力ではないのだというふうにね」

 椎名と稲垣は、いつのまにか部屋を辞していた。

「そういえば、訂正というのは、具体的には何をやるんですか?」

「時と場合によるな。例えば、超能力者を訂正するなら、殺してしまうケースもあれば、社会的に抹殺するケースもある。椎名は主に、そいつからその能力だけを奪う、という方法を取るな」

「………では、僕の話をしましょうか」

「待て。あの二人もいたほうがいいだろう。戻ってくるまで、私の質問に答えてくれ」

「いいですが」

「お前、敬語使うの嫌いか?」

「ええ。自分では割と似合っていると思うんですが、僕が敬語を使うと皮肉を言っているように聞こえることがある、と言われまして」

「ふむ? 私はそうは感じなかったが……君は敬語とかそういうの苦手そうなタイプだからな。嫌ならやめてもいい、と言おうと思っていたのだ」

「では、やめさせてもらうよ」

 いきなり態度が大きくなったように錯覚するな、これは。

「あと、お前、自分に何があったのか最初から私たちに教えるつもりだっただろ。メリットがあるなら話しますなんて巧妙なこと言って、実は私たちの正体知りたかっただけだろ?」

「気付いてたか。あなた方は普通の人に比べて垢抜けすぎてる。だから、一体何者なんだろうって不思議に思ったのさ。正体分かっても、やっぱり姫巫女さんは掴み所がなかったけど」

「そうだろうな。あいつはそういう奴だ。何も考えてないように見えて、それなのに信頼できる。大きなミスを犯すこともあるが、最後にはそれすら成功のためのばねとする。本当にわけがわからん奴さ」

「外見と性格も、だろ」

「まあな。写真で確認した限り、あいつの外見は十年前から全く変わっていなかった。そして、極めつけがあの性格だ。格好良い男を見ると、まず唇を奪う」

「あなたも奪われたクチなわけだ」

「………八年ほど前、初めて会った時に、いきなり一分間のディープキスだったな」

「それは、傑作だ。まあ、僕も人のこと言えないか」

「……まさかとは思うが、お前椎名に本気になってないだろうな?」

「それはご安心を。一応心に決めた相手がいるんでね」

「そうか、それはいい。椎名は絶対に本気にならないからな。本気になるだけ無駄だ、と忠告しておく」

「あなたは無駄したクチなわけだ」

「………若気の至りだ。あいつは、キス以上のことは絶対にしない。それを知らずに関係を強要したら、謎の拳法でこてんぱんにやられた」

「助平め」

「うるせーぞ、ったく。まあ、そんなわけで私は稲垣のことが心配なのだ。あいつは椎名に心底惚れ込んでるからな」

「ロリコン?」

「………言われてみれば、そういうことになるか。いや、しかし、私が彼女に一時期惹かれていた時は、十歳くらいの外見に釣られたわけではなかったぞ」

「じゃあ何? 舌先のテクニックが魅力とか?」

「………お前、案外イヤラシイ奴だったんだな。驚きだぞ、私には」

「悲しいことに、僕も男だからね」

「悲しいことに、か。お前、実はもう一度椎名とキスしたいだろ?」

「え? いや、まあ、したいといえばしたいけど、鳴海に申し訳ない気がするからな」

「………あいつの唇は、麻薬と同じ。一度覚えると忘れられず、常習すると抜け出せなくなる」

「マジ? 僕ヤバいかな?」

「さあね。私がずっと思っていたことだが、実は椎名には、くちづけで人の心を虜にする能力があるのかもしれない。………もしそうなら、少なからず私はもう抜け出せないだろうな」

 少年は、神妙な顔でこちらを見ていたが、少しするとドアの向こうを覗き込むようなアクションをして、言った。

「………そういえばあの二人は? 戻って来ないよ」

「しょうがない。呼んでくるか」

 私は立ち上がると、居間に向かって歩き出した。ふと時計を見ると、真夜中の三時少し前だった。

「僕も行くよ。別にここで話し合う必要ないんだから、呼ぶより行ったほうが早い」

 それもそうである。浜口め、こいつなかなかやるな。



 姫巫女さんと二人で台所に立ちながら一緒に料理をしていると、新婚さんみたいでうれしい。俺は上機嫌で、フライパンの中に新鮮な野菜を入れた。油が大きな音を立てるが、そんなことは気にしない。野菜炒めでそんなことに構ってどうするのだ? 隣では、姫巫女さんが、ラーメンをゆでている。インスタントで、簡単に調理できるものだ。

 俺たちは夜食を作っている。セトラさんが空也少年と話を始めてから少しして、姫巫女さんが提案したのだ。空也少年が夕食を摂っていないことへの配慮だろう。さすが、姫巫女さん。よく気がつく。

「何してんだ?」

 居間の方からセトラさんの声がした。少年との話に一段落ついて、こちらの様子を見に来たのだろう。

「夜食作ってるんですよ。空也少年がお腹を空かしていると思いましてね」

 適当に答えながら、フライパンの火の強さを調節する。菜箸でかき混ぜながら、塩コショウを振った。

「お気遣いどうもありがとう」

 意外な返事に首を伸ばして居間を覗いて見ると、セトラさんと並んで、空也少年も居間に立っていた。

「テーブルについて待ってな。すぐ、できるから」

 言って、テーブルについたのかどうかは全く気にせず、料理に集中する。

 そういえば、この家の中でタメ口きいたの、今が初めてかもしれない。俺は、命の恩人でもあり、偉大な人生の先輩でもある、セトラさんと姫巫女さんには、常に敬語を使ってきた。それはもちろん、常に敬語で話す癖のある姫巫女さんに、少しでも近付こうという意識もあるのだが。とにかく空也少年は、俺より一つ年下だ。敬語要らずだ!

 考えてみると、バンドのメンバーの内、二人は自分より年上だから、知らず知らず敬語を使って話してるし、ああ!! 俺って本当に敬語使いまくってるな。

 そんな俺を見て、姫巫女さんがかすかに微笑んだ。そして今度は、彼女の位置からはどうやっても視覚に捉えられないセトラさんに向かって笑いかける。

「私のキスが麻薬と同じとは、言ってくれますね、セトラさん」

 いきなりそんなことを口走った彼女に、俺は目を丸くしたが、セトラさんはもっと驚いたようだった。見えないところで、がたっと椅子の動く音がした。

「椎名、まさか私たちの話は………」

「ええ、無論全部聞こえてましたよ。最近の盗聴機は質がいいですから、しっかり聞こえるんです」

 よく見ると、姫巫女さんの耳に、小さなイヤホンが入っていた。盗聴した音を常に聞いていたのだろう。

「ちょっと待て、椎名!! 盗聴機はどこに仕掛けてあるんだ!? まさか、私の寝室に前からあったわけじゃあないだろうな?」

「寝室だけじゃないです。書斎にもありますよ」

「ふざけるなーーーー! 今すぐ取り外せ!」

「どうしてですか? 何か、聞かれてやましいことでもあるんですか?」

「………ったく、お前には常識というものがないのか?」

「よく言われますよ」

「……………………………」

 セトラさんは、あきれ果てた、という風に口を閉ざした。

 この人でさえも、姫巫女さんのペースに乗せられてしまう。

 ………彼女は、やはり不思議な女性だった。


 半年前、僕は複雑な事情で化け物になっていた。足に恐竜のような鱗、背に黒い堕天使のような翼、額にユニコーンのような一本の角、という格好で、怪しげな魔術やら魔法やらをばんばん唱えた。彼女はその俺を訂正しに現れた。一目見た時、妙な子供がやってきたと思って油断し、不用意に近づいた俺は、あっさり唇を奪われた。普段の俺ならいざ知らず、破壊衝動が倍加していた当時の俺はあっさり理性を失い、もはや手のつけられない状態にまで暴れまわった。俺のことをできるだけ公にしたくなかった政府は、即刻俺を殺すべく自衛隊を派遣してきた。一触即発の雰囲気の中、俺の大暴れの原因たる姫巫女さんが、平然と俺に近づいてきて(その時無論俺は魔法やら何やらを彼女に向けて放ったが、ことごとく弾かれていた)一言。

「ウチに来ない?」

 俺は、再びぶち切れそうになったが、またもや唇を奪われて呆然となった。と、言うか、早い話が骨抜きにされたのだ。

 その後、三日ほど俺は彼女と対決を続けたがことごとく敗北し、彼女の軍門に下ることとなった。無論、ミステリーコレクターである彼女は、俺を普通の人間に戻して、その上で、居場所のなくなった俺に、一緒に住むよう声をかけてくれたのである。

 いい人だ、本当に。


 一足早く、姫巫女さんはラーメンを完成させると、お盆に載せてテーブルに持っていった。ちなみに、ラーメンに、具は何も無い。

「あ、どうも」

 空也少年が礼を言うのが聞こえる。俺は、野菜炒めを完成させるべくひたすらに手を動かした。味付けは………醤油とソースで。俺的に納得の味に仕上がったので、大皿に盛って、完成。

 テーブルまで、自分で運ぶ。

 そこにある三つの椅子は、姫巫女さんとセトラさん、空也少年に占領されていて、俺の座るスペースは存在していなかった。仕方なく、野菜炒めをテーブルのど真ん中に置くと、できるだけクーラーのあたる場所を選んで、そこに立つ。

「あの………稲垣サン?」

 ラーメンを口に運んでいた空也少年が、不意に声をかけてきた。

「玲人でいいさ。で、どうかしたのか?」

「ええと、聞きにくいけど、これ、何?」

 俺の作った野菜炒めを指差して、恐る恐ると言った感じで尋ねた。何を言っているんだ? 野菜炒めは野菜炒め。どこからどう見ても野菜炒めでしかありえない。

「何って野菜炒めじゃないか。炒め物は嫌いか?」

「いや、嫌いじゃない。嫌いじゃないけど………」

「けど?」

「普通、トマトときゅうりを炒めるかな?」

「炒めるだろ」

 野菜炒めなのだから。

「………………………セトラさんたちは、この料理食べたことある?」

 少年は、何かすがるような目つきで、セトラさんと姫巫女さんに助けを求めた。セトラさんは、首を縦に振って肯定を示す。

「空也君も食べてみなさいって。見た目ほど不味くはないですよ」

 姫巫女さん………見た目は不味いんですね? 少しショックを受ける俺だった。

「はあ………」

 半信半疑の空也少年。

 うーむ。もしかして俺、料理のセンス無いのか?



 午前三時を回った。

 静か過ぎる夏の真夜中、車のシートをいっぱいまで倒して、オレは煙草をふかしている。

 ここは、ある高級マンションの専用駐車場だ。ここの家賃を聞いたときには、オレも死ぬほど驚いた。こんなところに住む奴がいるのか、と疑わずにはいられないほど、馬鹿高い。この専用駐車場も無論、住民以外は車を止めてはいけないということになっているが、そんなものは無視だ。

 ちらりと、右に目をやり、サイドミラーで後ろを確認する。ちょうど、マンションの入り口である大きな自動ドアが映りこむような角度に設定してある鏡は、依然ライトアップされ続けているその様子を、克明にオレに示してくれた。夜中でも、明るい。防犯面での意味もあるのだろうが、無駄のような気もする。まあ、人間明るいほうが安心するらしい。

 意識せずに、煙草を咥えて、吸う。三年前から愛好しているこの安い銘柄の煙草は、もはやオレの一部だと言っていい。欠かしたことなど無いし、一日五箱は吸っている。肺を悪くするのだけが、今心配なことだ。

 その時、サイドミラーの中に、動きがあった。自動ドアの奥から、小奇麗なスーツを着こなした若い女が出てきたのだ。右手には、茶色のブリーフケースを抱えている。特徴らしい特徴は無いが、二十代後半だろうと思われる顔の化粧が、少し薄すぎる気がした。まあ、濃すぎるよりは、ましだが。足元を見ると、ストッキングに茶色のハイヒールを履いていて、コツコツという靴音が今にも聞こえてきそうである。

 あんなヒールの高い靴で、よく歩けたものだ。オレは、少しだけ感嘆した。もちろんほんの少しだけだ。どうせ、走ることなどはできないだろうから。

 オレは、手元にあったファイルで、ターゲットの顔を確認する。あの女で、間違い無いか?

 ………………………。

 オーケイ。あいつだ。このマンションに住むある人物の、恋人だ。

 真夜中に帰ったら不自然だぜ、おねーちゃん。

 オレは、煙草の火をポータブル灰皿で消すと、静かに車を降りた。心持ち腰を曲げるようにして、こそこそと見つからぬように女の後を追う。できるだけ早く、追いつきたいところである。

 しかし、オレが、彼女との距離をわずか五メートルまで詰めたとき、彼女は突然振り返った。そして、オレの姿を確認すると、右手のブリーフケースをこちらに向けた。まるで、バズーカでも抱えているかのように。

「動かないで。これは、殺傷能力を備えた武器よ。動くと容赦無く発砲するわ」

 おー怖い。

「やれやれ。一般人を突然脅し始めるとは、最近のOLはなかなか大胆だな。ベッドの上でもそうなのかい?」

 女は、きっと目尻を上げてこちらを睨んだ。冗談も通じないのか。

「あなたはどこの所属? どうせ恭介を殺しに来たんでしょ?」

 地場恭介。それが、この女の恋人の名前だ。ある有名な商社に勤めるサラリーマンで、社内での評判も良く、将来が期待されている。その彼が、命を狙われているのには、理由が全く無い。恐るべきことに、彼は二ヶ月ほど前から、突如命を狙われるようになったのだ。

「さっきも言ったろ。オレは一般人だ。地場を殺しに来たのでもない」

「嘘。殺し屋はみんなそう言うわ」

「なるほど。何故、地場が二ヶ月間生きていられたのかわかった気がするぜ。あんたこそ何者なんだ?」

 問うと、女は余裕の笑みすら浮かべて見せた。

「一般人よ」

「嘘だな。何せ、殺し屋もみんなそう言うんだろ?」

 言いながら、オレは右手を女の方に向けた。

「この右手は、特殊な義手でよ。ボタン一つでロケットのように飛んで行くんだ。動いたら、撃つぜ」

「私のほうが早いわ」

「じゃあやってみるか?」

 じりっと、女が動いた。本当にやる気のようだな。

 一瞬で、けりをつけなければ………。

 女が、ブリーフケースの横手に目立たないようについている引き金を、引いた。

 今だ!!!!!

 オレは、大きく右に跳躍し、左の手でポケットから一本の煙草を取り出す。さっきまでオレがいたところで、どーんという大きな音とともに小規模な爆炎が上がった。おそらく、コンクリートの地面にクレーターができているだろう。

「あんたは、恋人でもあるが、実は地場のボディーガードでもある。違うか?」

 返事は、言葉ではなかった。再び引き金が引かれて、ブリーフケースから手品のように火薬玉が飛び出す。相当なスピードで飛来しているはずだが、オレには遅すぎる。左前方に転がって被弾を避けて、煙草に火をつけた。後方で、炎が花開く。

「そんなあんたが、何故こんな夜中に彼の元を離れるのか? 最も危険な夜中に、だ。その答えは簡単。もう、守る必要が無いからだ」

 少し、女が動揺していた。

 その隙を逃さずオレは、一瞬で彼女を間合いの中に入れる。そして、煙草の火を彼女の目に近づけた。その距離は、五センチきっかり。文字通り目の前にある煙草を見つめ、女は動けない。オレは、空いている左手で、女からブリーフケースを奪い取った。

 聞く。

「地場は、もうこの世にはいない。違うか?」

「違うわ」

 オレは、唇を湿してから、ちょっと考えて言いなおした。

「地場は、あんたの目の前で、幽霊のように消え去った。違うか?」

「な、なんでそれを………」

 言ってしまってから女は、慌てて口を塞ぐ。そして、煙草の火を恐れずに、こちらを睨み付けて来た。………やれやれ。

 オレは、その煙草を口へ持って行き、いつものように、吸う。さらに、彼女から二、三歩離れて、話しやすい間合いを作った。女は、訝しげにこちらを見ているが、攻撃には出てこない。それを確認して、ようやく話を始めることにした。

「ついさっき、午前三時ジャストに、地場は消えてしまった。それは間違い無いか?」

「………あなた、一体何者なの?」

「さっきも言っただろ。一般人さ。ちょっと一般的じゃないけどな」

「腕が飛ぶところとか?」

「あれは、ただのはったり。オレは丸腰だったからさ」

「嘘………それじゃ、私………」

「発砲したことは気にするな。あれは、オレが悪い。と言うか………今までのあんたへの非礼は全て詫びよう。あんたに、オレが敵じゃないとわからせるには、ああするしかなかった」

 オレは彼女を挑発し、戦闘に突入した上で、誰も知らないはずの事実を言い当てて彼女の虚を突き、相手よりも優位に立った後で、恐怖を与えそしてそれから解き放つ、という一連の行動を行うことにより、かすかながら自分のことを信頼してもらったのだ。ちょっとした、心理戦である。

「オレは、地場から全てを聞いていた。奴は、自分が今日消えることも薄々知っていたし、そうなるとあんたが地場をどうにかして助け出そうとすることも予想していたんだ」

 彼女は、黙っている。

「そしてオレは地場から、あんたを止めるように依頼された」

 はっとなって彼女は、オレを見つめた。オレは、それを正面から受け止める。

「オレは探偵なんだ。私立探偵駒沢良素」

 彼女の視線には、敵意すら混じりかけていた。その気持ち、わかるぜ。オレは、彼女の瞳を見つめたまま、なおも一人で話し続ける。

「地場とは中学時代からのつきあいでな。奴とは親友だった」

 言って、にやりと不敵に笑ってやる。

「………そこで、探偵としてではなく、奴の旧友として、オレはあんたを手伝おうと思っている。もちろん、あんたの返事次第だ。嫌なら嫌と、言ってくれれば良い」

 彼女は、意表を突かれたようで、ぽかんとしていた。無言のうちに返事を促すと、彼女は、ふっと笑う。

「いいわ。私としても、何の情報も無くて困ってたところだし、あなた、なかなか役立ちそうだしね」

「そりゃあ、どうも。おっと、そろそろここを離れたほうがいい。さっきの爆発音のせいで、パトカーがやって来る」

「………一旦、恭介の家に戻りましょ」

「………そういえば、名前聞いてなかったな」

 もちろん、地場から渡されたファイルには、彼女の名前も書いてあったが、オレは知らないふりをした。

「百合香。喜多沖百合香」

「百合香か。いい名前だ」

「知ってたくせに」

 思わずオレは肩をすくませた。

 そして走り出して、地場の自宅マンションに向かうのだった。



 まさに、僕が鳴海について話し始めようとした時、どこかで、どーんという花火のような音がした。思わず、四人で顔を見合わせる。

「今の、何だろう?」

「………何かの武器のような気がするな。私は前にもどこかで……」

「え、銃か何かですか?」

 玲人サンが驚きの声を上げると同時。もう一度、同じ音が聞こえてくる。

「うーん。私の聞いた感じでは、何かこう、火薬みたいな物を撃ち出して、それを着弾時に爆発させ、敵を攻撃するといった、あまり見かけない特殊な兵器ですね、今のは」

 かわいらしい顔に精一杯悩んでいる表情を貼り付けて、姫巫女さんが導き出した結論は、まるで目の前にそれがあるかのような説明口調だった。何となくおかしくて少し笑っていると、彼女は目ざとくそれを見ていたようで、テーブルの上に大きく身を乗り出し、

「天誅」

と、ぼそりつぶやいて、僕の唇に自分のそれを重ねる。僕は、すぐにざっと後ろに椅子を引いて、その魔の手から逃れた。けれども、少しの間だけとはいえ、彼女の唇は確かに触れていたのだ。その余韻を確かめるように、自ら唇に指を当てて、僕はセトラさんにこう尋ねる。

「そんな兵器、知ってるのか?」

 彼は、少しの間考え込むような仕草をした後、

「………確か、ある組織の連中が使っていたな」

 と、独り言のように答えた。

「とにかく、なにがあったのか見に行ってみませんか?」

「私も賛成です。何か、事件かもしれないですし」

 事件とは、やはり怪奇事象のことだろう。

「行くか? 浜口?」

「そうだね。夏の夜中に野次馬ってのもいいかもな」

 『気分転換には』と続けようとして、やめておいた。

 玄関の方に歩いていく三人を、少し離れて追う。さすがに、きょろきょろ辺りを見まわしたりはしなかったが、何せ他人の家だ。やはり、もの珍しかった。

「早くしてくれ、空也少年」

 何にせよ、気付かぬ内に立ち止まっていた僕は、玲人サンの声で、あわてて歩き出す。三人はすでに家の外に出てしまっているようで、玲人サンだけが、ドアの向こうから顔を覗かせて手招きした。………行動が機敏だな、この人たち。

 ばたん、とドアが閉まった。

 僕が意識を失っている間に運び込まれたために、全く見知らぬ少し広い玄関で、愛用のスニーカーを見つけ、履く。凝った装飾の施されたドアノブに目を落とし、扉を押し開ける。そこには玲人サンしかいなかった。

「二人は?」

「エレベーター呼んでる。ほら、行くぞ」

「鍵かけないでいいの?」

「構わねえさ」

 そう言って歩き出す彼の後に続く。

 ホテルのような通路だった。マンションの通路は普通、外に直接面していて、落下防止のために胸の高さまでのフェンスがある。しかし、このマンションは、通路が完全に建物の内部にあって、外の景色を見ることのできない造りになっていた。おそらくその分、室内からは良く見えるのだろう

 部屋を出て右手に向かって歩くと、今度は左に通路が折れていた。そこを曲がると、エレベーターが一台設置されていた。かなり広いマンションのように思えるのに、何故エレベーターが一台しかないのかは疑問だが、とにかくそれは、口を開いて僕らを待っている。すでに、セトラさんと姫巫女さんは中に入っていた。

 『開』のボタンを押しながら、こちらを見つめている。僕らは、視線に引きずられるように慌てて乗り込んだ。

 ドアが、閉まる。僕が乗り込んだ直後というタイミングだった。せっかちなのか? この人たちは?

 ふわり。体が少し軽くなるような気がした…と思ったら、すぐに今度は重たい慣性を感じさせてエレベーターは停止した。途中の階で止まったのかと思ったら、表示は一階だった。………非常識に速くないか、これ?

 ドアが開ききる直前に、滑り出すように姫巫女さんが降りる。男三人も、負けじとすばやくフロアに降り立つと、左手に見える管理人室とおぼしき、受付もかねた、ガラス張りの小窓のついている一角をちらりと見やり、すたすた早足で歩いた。しかしそれでも、自動ドアのエントランスをくぐる直前まで、姫巫女さんに全く追いつけなかった。彼女は、見た目に反して歩くのが尋常じゃなく速い。

 何故自動ドアを通る時に追いついたのかと言えば、彼女が単に立ち止まったというだけの話。重要なのは、姫巫女さんがそうしたのは、外から一組の男女が入ってきたためだ、ということだろう。男の方は、ドラマの中で刑事が着るようなコートを真夏にも関わらず羽織っていて、右手には茶色のブリーフケースを持っていた。二十代後半だろうと思われるその顔は、頭のよさそうな切れ長の目を有していた。女の方は、化粧っ気のない小さな顔にスーツの良く似合う、どうみてもOLという風貌だ。何故か手ぶらではあったが。

 二人は、こちらに向かって軽く頭を下げると、僕たちの乗ってきたエレベーターの方に向かって行った。

 僕らは、一度エントランスから出た。外の風は、なんだか生ぬるい。

「今の二人何階に行くのか、ここから見てわかるか?」

 セトラさんが、僕たち三人に問い掛けた。何故そんなことを聞くのか気になったが、わかるかどうか聞かれたからには、と試してみた。自動ドアのガラス越しに中を覗いて見ると、例の二人はすでにエレベーターに乗ったらしく、そこにはいなかった。小さく小さく見える、エレベーターの上部についた階数表示に目をこらすが、どこのランプがついているのかまではわからない。目は結構良いんだけど………。

「五階に止まっていますね」

 可愛い声が、セトラさんに言う。

 もちろん姫巫女さんだ………。良く見えたな、あなたは。

「五階、か」

 それを受けてセトラさんは、口元を手で隠すようにし、考えこむ仕草を見せた。姫巫女さんは、期待に満ちた目でそれを見ていたが、僕と玲人サンはわけもわからず、顔を見合わせるばかりだ。

 少ししてから、セトラさんが顔を上げた。口もとに当てていた手をみんなの目線の中心辺りに持ってきて、人差し指を立てる。提案を表すボディーランゲージだ。

「私はあいつらを追おうと思う」

「何でですか?」

 不思議そうなというより咎めるような口調で玲人サンが訊いた。

「くわしい話はあとだ。お前たちは、あの音がした場所を突き止めて、現場の様子を撮っておいてくれ」

 セトラさんは、首に下げていた本格的な一眼レフカメラを姫巫女さんに手渡すと、急ぎUターンして、自動ドアをくぐっていった。そのままエレベーターの前に行った辺りまで見てから、僕は二人に尋ねる。

「あの音、どの辺から聞こえたかわかる?」

「向こうだぜ、たぶん」

 玲人サンが、エントランスを出て左手方向に伸びる、マンションの私有だろう道路のはるか向こうを指差した。

「ええ。私もそう思います。パトカーのサイレンも向かってきているみたいですしね」

 姫巫女さんはそう言ったが、僕にはそんな音は聞こえない。しかし、彼女は人より感覚が鋭いみたいだし、信じるべきだろう、これは。

 ともかく僕らは、音がしたと思われる方向へ、早歩きで進んでいった。

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