⑩全知の鬼(最終更新日:2003年8月10日)

―― プロローグ 彼の七月二十七日 ――

 どうしよう。涙が止まらない。


 感覚が無い。


 自分というものを感じるだけの理性がないのか。


 雄武は、立っていた。少なくとも外見上、彼はそれ以上のことを何もしていなかった。

 都内、どこにでもありそうなアパートの一室。二階。角部屋。六畳一間。


 その部屋の住人を、今殺した。


 雄武は立っていた。壮絶な格好で立っていた。

 その右手に握られているのはどこにでもありそうな包丁。ディスカウントストアで一本九百八十円。この部屋にあったものではない。買って来たのだ。

 足元に転がっているこの男を殺すために持って来た。

 その包丁、それを握る右手、ありえないほどに撒き散らされた赤。

 血の赤。

 包丁がぬめる。鈍い光を跳ね返すはずの刀身にこびりつく血液。滴り落ちる赤。柄と手の平の間にも存在する気色の悪い感触。

 感覚が無いはずの、今何も感じないはずの自分に感じられたそれ。

 ぬるい。

 顔面が、Tシャツ一枚の上半身が、奴の右手を押さえ付け封じていた左腕が、変色して酷い色になっているジーンズに包まれた下半身が、薄く切り裂かれた首筋が。

 全てがぬるい。

 返り血を浴びた、と表現したくない。

 奴の心臓を一突きにした包丁。その時点では汗でぬめっていたその柄を掴み、自分が何をしたのか。

 飛び散ってきた血潮。血糊。大出血といっても過言ではない、その滝のような血の雨に当てられ、それでも自分が何をしたのか。

 復讐という名を借り、自分が奴に何をしたのか。

 返り血を浴びた、と表現したくない。

 何の勲章か。この赤が。わざわざまっさらなTシャツを着込み、手持ちの品をディスカウントストアのビニール袋だけにし、完全に殺す気でこの場に臨み。

 そして狙い通りにことを進めて。

 何を言うか。

 髪の毛がぱりぱりに固まってきた。

 奴は、最期に、何を言ったのだっけ?

――助けてくれ、と。

 それだけか。それだけか。

――はい。

――はい。

 雄武は、立っていた。

 足元には、肉の塊が転がっている。死体とも言う。身元が分かっているから遺体とも言う。他殺死体とも言う。全身を滅多刺しにされて失血死した猟奇殺人の被害者とも言う。

 どうでもいい。

 感覚が無い。


 七月二十七日。夏は真っ盛り。暑い。気温が高い。


 クーラーは効いている。ぬるい。素肌に気持ちの悪い汗が浮かんでいる。それが他人の血液と交じり合い、不快感を誘う。

 涙が止まらない。

 頬を流れ落ちる涙にもその段階で血が混じる。

 蝉の声が聞こえた。


 テーブルの上にはファッション雑誌が。そしてコンビニで買って来たらしい食べかけの弁当が。奇跡的にそこだけ無事だ。何の被害も無い。


 すぐ隣に雄武。その横に死体。


 雄武は息をしていた。当然だ。興奮の去った彼の呼吸は穏やかで、余り普段と変わりない。ただ若干浅く速い。

 死体は息をしない。ぬるぬるとフローリングに広がっていた真っ赤な池も、いまやその動きを止めている。仰向けで、穴だらけになったTシャツを着た、穴だらけの胴体を持つ男。目が開いている。右手は、三本の指があらぬ方向に曲がっている。折られている。大事の前の小事でしかない。

 雄武が大きく息をついた。

 むっとするような血の匂い。死臭。

 知るか。

 感覚が無い。

 いや、感覚はある。感覚がある。


 実感が無い。


 その全てに。この状況に。仇を討てたというのに。緋子の心を殺した男を、自らの手で殺したのに。

 知るか。

 涙が止まらない。

 嗚咽が止まらない。

 悔しいのでもない。嬉しいのでもない。悲しいのでもない。虚しいのでもない。

 何故泣く? 俺は何故泣いている?

――それは、予想していた事象と訪れた現実の間にあったギャップに対し、精神的な負担を減らすための肉体的応答反応です。

――それは、予想していた事象と訪れた現実の間にあったギャップに対し、精神的な負担を減らすための肉体的応答反応です。

 五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い。

 肝心な時に役にも立たないくせに。

 救いがない現実自体を変える力もないくせに。

 何が全知だ。何が万能だ。

 人一人幸せにする力もなかった。

 殺せた。おかげで殺せた。

 それでも、それでも、それでもそれでもそれでもそれでもそれでもそれでも――

 俺が望んでいたのはこんなことじゃない。

 雄武が望んでいたのは、こんなものではなく。

 ただ、ただ、ただただただただただただ――

 緋子と幸せに暮らしたかったんだ。

 愛する女性と幸せに暮らせればそれでよかったはずで。


 だが今。

 足元には死体。その男の口は開いている。

 断末魔の叫びの形のまま。

 それを聞きつけた近所の人間が。


 何をするのか。


――警察を呼びます。


 もう呼んだのだろうな。


――そうです。


 いつ来るんだろう。


――間もなく。正確な時刻は本日午後一時五三分一七秒頃。


 あと四分か。

 雄武は立っている。一言で言えば、全身真っ赤になって。自身も多少の傷を負いながら。

 多少どころではない傷をこの部屋の住人に負わせ。

 足は素足。血に浸る。


 玄関まで五秒でいける。

 逃げようと思えば、あるいは可能な距離か。


 ぬるい。蝉の音が聞こえる。滝のように。

 涙は止まらない。滝のように。

 指紋のついた凶器を持った男。他にも物的証拠は山のように残っている。

 動かしようが無い事実。


 人殺しになっちまった。


 父さん、母さん、ばあちゃん、じいちゃん、その他諸々の親族の皆さん、世話になった近所の皆さん、高校時代の先生、高橋、木村、山路、楠木、岡江、六膳、松木さん、小野上さん、九条のだんな、もう数え切れないけどなんか俺の知り合いだった人たち。


 そして緋子。


 緋子……。


 俺は人殺しになっちまった。

 雄武は人を殺してしまった。


 全然、全然全然何の意味も無かったよ。


 人なんて殺すものじゃないな。


 後悔先に立たずってホントだな。


 ぬるい。ぬめる。包丁が、邪魔、邪魔。

 投げた。

 テレビのモニターに直撃し、ガンっと音をたててから床に転がった。白い、小さな傷が一六インチのそのど真ん中についた。もう売れないな、あれ。


 血に染まった右手を眺めてみる。わけがわからないくらい焦点がぼやけた。

 Tシャツの裾で拭ってみる。

 そう簡単に取れるわけがない。シャツも真っ赤。右手も真っ赤。


 人を殺した。


 押し殺した嗚咽が喉から漏れる。喉が鳴る。

 頭を抱えたい。血に濡れる。どちらが? 両手? 頭?

――どちらも既に血液で汚れているため、双方とも汚れる、と結論付けて支障ないかと。


 吐き気がする、かと思っていた。

 人なんて殺したら。

 血なんか見たら。


 意外と平気だったわ、俺。

 こんなことなら、あの時、医学部行ってれば良かった。医者になれたかも。結構なりたかったのに。血が駄目だから向いてないと思ったんだよ。


 あと。猫背を直したかった。で、緋子と一緒に歩いた時に、ちゃんと身長差通り、自分の方が高いように見せたかった。緋子が高いヒール履いたら結局追いつかれるんだけど。


 今更何言っても無駄か。


――否。


 いいよ、もう。

 いいんだ、もう。

 お前にも、というか、そんな擬人化が正しいのかどうか、俺にはさっぱりわからないんだけど、とりあえずこの俺自身の能力に助けられてここまで来たってことは、俺にもわかっている。

 雄武は、それだけは理解していた。

 何を後悔しても、この能力を選んだことだけは後悔したくない。

 してはいけない。


 パトカーのサイレンが聞こえた。

 蝉の音も聞こえる。

 夏。


 助けてくれ、か。それしか言わなかったか。

 謝らせるのを忘れていた。

 緋子に向かって謝罪させるのを忘れていた。


 土下座とか、そういうことさせて、改心したような仕草をとらせて、その後に、死なない程度に痛めつければそれで良かったかもしれない。


 知るか。

 馬鹿か。

 こんなこと考えるな。

 今更。今更。


 生唾が飲み込めない。

 恐怖でもない。覚悟はしていた。

 焦燥も無い。狼狽も無い。

 ただ、喉が渇いた。


 緋子。


 一つだけ。これだけ伝えたかった。最後にこれだけ伝えたかった。

 伝わるかな。あいつ、伝えてくれるのかな。


『君だけでも幸せに、暮らしてくれ』


 あーあ。

 何で涙が止まらないのか、理由は教えてくれなくていいけど、不思議だわ。

 それだけ。


 ドアが開く。

 鍵もかかっていなかったわけか。


 どうでもいいや。


 その七月二十七日。

 彼、小林雄武は――――




―― その一 ――

 昔から、早く大人になりたかった。

 理由なんてもちろん山ほどあったが、ごくごく一般の人が考えるのと同じで、ひたすらにあれが羨ましかったのだ。

 神性限定約定能力。通常、単に『能力』と呼ばれたり、場合によっては『神性』と、本質と全く異なる部分で略称されたりする、あれである。

 小林雄武の場合、神性限定約定能力について初めて意識したのは、彼が四歳の時である。幼稚園という、内情を説明しがたい組織の一員だった彼は、初めて大人が能力を使う様を目の当たりにした。実際は、それまでにも何度か目撃していたのだろうが、行使された能力を見て、それが能力によるものだと認識したのはその時が初めてであった。それは、組織全体で慰安の意味を込めてか近くにある大きな公園に徒歩で出向いた折のことだった。

 遊歩道に沿うように植えられた木々が、太陽の光を細かく円形に切り取りつつ、園児と呼ばれる組織の構成員達を泰然と見下ろしている。雄武達は隣の者と他愛も無い話をしながら、黄色い帽子に独特な水色の服という統一されたいでたちで、園長を始めとする自分より地位の高い者、そう、引率の大人のあとに付いてゆっくりと歩いていた。

 すると、向こうから別の大人が歩いてきた。実はその時点では全くそのことに注意を払ってなどいなかったのであるが、少なくとも客観的に見てそれは事実としてそこにあった。その大人は、見た目ごくごく一般人であるという風を装っていたが、虫のいどころが悪かったのか性格が悪かったのか、怒気をはらんだ雰囲気と刺々しい表情で、近付いたら怪我をすることになるタイプの人材であることは明らかであった。その男は、喫煙という、メリットの少ないたしなみをしながら、靴の裏をすり減らしたいのかやけに接地時間の長い不思議な歩き方で、二列に並んだ幼稚園児とすれ違いつつあった。

 その時。後ろの園児にちょっかいをかけるために後ろ歩きをしていた一人の園児が、少し列からはずれて紐の長いバッグを振り回そうとした。その行為自体にどんな意味があったのか、今となっては良くわからない。何せ、幼児の発想というのは大人の発想とは次元の違うところに位置しており、容赦が無いことで有名だ。

 その容赦の無い、もしくは脈絡すらない行動は、向こうから歩いて来ていた大人の弁慶の泣き所にバッグを直撃させるという結果に繋がった。バッグの中には弁当箱や、水筒が入っている。ステンレス製の水筒は、硬い。

 園児は、それに気付くや否や即座に振り返り、ごめんなさい、という謝罪の言葉を口にした。迅速だった。教育の行き届いたなかなかに感心な態度であるという程度の評価を与えても罰は当たらないと思う。

 一方の大人は、しばらく動きを止めていたが、

「ああ?」

 という、よくわからないことを言ってその園児を睨みつけると、いきなり煙草を投げ捨てた。しかも、それは明らかにその園児を狙って投擲されていた。幸いなことに、煙草は黄色い帽子に腹を向けてぶつかって、どこかに焦げ跡を残したりすることなく地面に落ちたが、それを見ていた引率の大人の一人が、煙草を投げた大人に食って掛かった。

「ちょっと、危ないでしょうが。この子の非は認めますが、やっていいことと悪いことがあるんじゃないですか?」

「ああ?」

 再び、その大人はそんな音で鳴いた後、

「うっせ、死ね。殺すぞ、ブス」

 という、暴言を吐いた。

 その時、戦々恐々としながら状況を見守るしかなかった雄武は、確かに見た。煙草を捨てた方の大人が、引率の大人の胸倉を掴み上げ、右手を相手の顔面にかざし、そして――その右手から炎を吐き出したのを。

 轟々と音をたてて燃え盛る火炎が引率の大人の顔を包み込んだ。

 大人の悲鳴が、そして園児達の悲鳴が当たりに木霊した。

 引率の大人は炎から逃れるように身じろぎしたが、胸倉をつかまれて体を固定されているので逃れられない。その手をはがそうと必死になって両手で掴んでいるが、純粋な筋力の差で、上手くいかない。徐々に力も抜けていき、苦しげなうめき声もだんだん聞こえなくなっていく。

 だがそれは、実際の時間にして五秒と続かなかった。

 傍から見ていれば唐突に、それが終わった。

「う、うわああああああああ、す、すみません、すみませんでした!」

 これが、煙草を捨てた方の大人のせりふである。

 自分の右手から噴き出している炎を消すや否や、引率の大人を掴んでいた左手を離し、その場に膝をついた。地面に頭を擦りつけるように低頭し、

「本当にすみません、ごめんなさい、許してください!」

 と叫び続ける。

 げほ、げほ、とむせるように息をついていた引率の大人は、髪が縮れて妙な風になっており、顔にも何箇所か水脹れのようにまでなった火傷が見られたが、どうにか無事なようで、土下座する大人を睨みつけた。

「私に謝るより先に、煙草を投げつけた子に謝ってください」

 煙草を投げ捨てた大人は、言われたとおり土下座の向きを変え、園児に向かってごめんなさいごめんなさいと七回くらい繰り返した。

「シュウちゃん、相手にだけ謝らせていいのかな?」

 顔面を火傷している引率の大人が、事の発端をつくった園児に向かって優しく問い掛けた。問われた園児は、しばらく呆けていたが、

「こちらこそ鞄を振り回してごめんなさいでした」

 ぺこりと深く頭を下げた。

 その頃には、園長や、他の引率の大人たちが駆けつけており、顔面を火傷した大人の身を案じていたが、彼女は気丈に大丈夫だと言い張った。それから、

「もう行っていいです。二度と、こんな真似はしないで下さいね」

 と、平静を装いながら、どこか嘲りにも似た感情を交えた口調で煙草を捨てた大人を追い払って、そして、いきなり倒れた。膝から崩れるように、顔面から前のめりに地面に向かって行った。体格のいい引率の大人がそれを支え、ざわつき出した園児を静めたり、救急車を呼ぶよう指示を出したりした。

 雄武は、何も出来ずに、本当に何も出来ずにそこに居合わせただけに等しかったが、

「西下さんの能力ってセイシンソウサ系なの?」

「確かそうですね。ヤクジョウ文が五千字越えるくらいの相当緻密な奴らしいですよ」

「へえ、結構怖い能力なんだね」

「まあ、そのおかげで今回は助かったんですし、いいじゃないですか」

 と、小声で交わされる大人たちの話を聞いて、詳しい会話の内容は理解し切れなかったものの、あの煙草を捨てた大人の豹変振りと合わせて考え、『セイシンソウサ系の能力』のかっこよさに憧れを抱いた。

 隣の園児は、きらきらと目を輝かせて、

「あの、火が、手から火がでる奴ってすごいよね、すごかったよね」

 と雄武に同意を求めてきたが、そんなビジュアル的な点は、残念ながら彼の心には響いておらず、ただ、圧倒的な暴力に対して、それを全く目に見えない方法で切り抜けた、ニシシタ先生の力を純粋に凄いと思った。

「ね、すごかったよね、よね」

「全然」

 なおもしつこく訊いてくる隣の子供にすげなく答えて、泣かせた。

 雄武はこの時から、早く大人になりたい、大人になって能力を手に入れたい、と願うようになった。

 小学校高学年の頃になると、神性限定約定能力についての正確な知識を道徳の授業で本格的に扱い始める。

「皆さんもご存知のように、神性限定約定能力は、大人になるとどんな人でも貰える神様からの贈り物です。皆さんが望む力を手に入れることが出来ますが、そこにはいくつか条件がありまーす」

 四年生の最初の道徳の授業。藁半紙で作られたプリントが回ってきた。

『神性限定約定能力の約束』

「まず、左上、『はじめに』のところを読んでくださーい」

 派手な枠取りのされたタイトルの下から、びっしりと小さな文字が並んでいる。

『はじめに。神性限定約定能力(以下、能力)は、二十歳の誕生日を迎えれば誰もが手に入れることの出来る特殊な力のことを意味します。とは言え、扱いに注意をしないと、取り返しのつかないことになったり、また、それ以降の人生をずっと後悔して生きていくことになったりするかもしれません。そうならないように、能力についての理解を出来るだけ深め、清く正しい能力の使い方を考えていくようにしましょう』

 とはいえ、

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