冷たい人間
「あなたって本当に冷たいのね」
妻の言葉に、夫は絶句した。
冷たい?
何を言っているんだ。
「バカを言うな。オレのどこが冷たいんだ」
反論する夫に、妻はうっすらと笑みを浮かべる。
「冷たいじゃない。本当に」
「冷たくなどない。長年連れ添った亭主に、いきなり何を言い出すんだ」
「怒らせてしまったのなら、謝るわ。でも、よく考えて。なぜ私が急にこんなことを言い出したのか」
ふむ、と夫は考えた。
目の前の妻と連れ添ってから30年となろうか。
取り立てて大きなケンカもなければ、別れようと思ったこともない。
子供はすでに自立し、家庭を築いている。
思い当たる節はまったくなかった。
「もしかして、愛想をつかしてしまったのか? このオレに」
「愛想ならとっくにつきてるわ。30年も一緒だったんですもの」
微笑む妻の表情が、それが本心かどうなのかをわからなくさせる。
「そうか、愛想がつきていたのか」
ガックリとうなだれる夫に妻は言った。
「勘違いしないで。愛想はつきてしまったけど、だからといって不幸だったというわけではないわ。むしろ、幸せだった」
「そ、そうか……?」
現金なもので、夫は妻のその言葉に笑顔を見せた。
しかし、ならば余計に腑に落ちない。
なぜ「冷たい人間」と言われなければならないのか。
「オレは、今までまっとうに生きてきた。拾った金は必ず交番に届けるし、他人の悪口は絶対に言わなかった」
「ええ、そうね」
「賭け事もしないし、他人を陥れるような嘘もつかなかった」
「それも知ってます」
「困った人がいれば手を差し伸べるし、泣いている人間がいれば慰めてやった」
「それがあなたの信条ですもの」
「だったらなぜ冷たい人間と言われなければならないんだ!」
激昂する夫に、妻は穏やかに答えた。
「あなたは、気づいていないのよ」
「なにを……?」
訝しく目を向ける夫。
その目に映る妻の指先が、彼の足元を指差した。
するするとその指先を追って行き、夫は唖然とした。
足元に、自分の身体が横たわっている。
真っ白い顔をして、目を瞑りながら仰向けになっている。
その顔に、生気はない。
「あなたは、もう、死んでるの。冷たい人間なの」
「う、うそだ……。そんな……」
がくがくと膝を震わせながら、夫は一歩一歩後ずさっていく。
その時、カタン、と背中に何かが当たった。
振り返ると、自分の顔写真が大きく飾られた祭壇が目に入る。
彼がぶつかった衝撃で、位牌が倒れた。
「こ、これは……」
「あなたの葬儀。これから始まるの。参列者がもうじきここに来るわ」
「オレは……なんでここに……」
「本当に残念ね。車に轢かれそうになった猫を助けようとしたばっかりに……」
妻の言葉に、夫の記憶が鮮明によみがえる。
雨の降りしきる夜。
仕事帰りにコンビニに立ち寄り、缶ビールを買って外に出ると、猫が道路を横断しているのが目に入った。
(お、猫だ)
そう思ったのもつかの間。
ものすごいスピードで突っ込んでくる車のヘッドライトに気づいた彼は、無我夢中で道路に飛び出し、猫を突き飛ばした。
そして、彼は今ここにいる。
「そうか、猫を助けようとしてオレは……」
「そう。本当にあなたは優しすぎよね。でも安心して。あなたが助けようとした猫はここにいるわ」
妻の足元には、夫を見上げる猫がいた。
まるで、彼に礼を言っているかのような顔でじっと見つめている。
「無事だったんだな、よかった」
「にゃあ」
猫の甘い鳴き声に夫は微笑むと、妻に目を向けた。
「じゃあ、オレは死んだんだな。今のオレは、魂なんだな」
「そうよ」
「魂のオレが見えるってことは、お前、霊感があったんだな」
「ええ。言ってなかったけどね」
30年も連れ添いながら、初めて明かされる事実に夫は小さく笑うと祭壇を見上げた。
「いろいろとやり残したことはいっぱいあるけど、死んでしまったのなら仕方ない。あの世へと旅立つよ」
「さよならは言わないわ。来世で会いましょう」
「……あ、ああ! ああ! もちろんだとも!」
言うなり、喜びで顔をいっぱいにした夫の身体は光に包まれ、そして消えていった。
妻の足元には、文字通り冷たい身体だけが横たわっている。
夫の魂が消えたと同時に、妻の隣に一人の中年の男が近づいてこう言った。
「無事に旅立ったかい?」
「ええ。なんの未練もなく」
「それはよかった」
男はしゃがみこむと、猫の頭をなでながら言った。
「これで、お前とは何の気兼ねもなく付き合えるというわけだ」
「ほんと、いいタイミングで死んでくれたわ」
「自分で猫をけしかけといて、よく言う」
「だって、早くあなたと一緒になりたかったんですもの」
「亭主に言った『来世で会いましょう』というのは本音かい?」
「もちろんよ。でも、来世で会いましょうと言っただけで、一緒になるとは言ってないわ。来世も一緒にいたいのは、あなただけ」
ふふふと笑う妻の笑顔に、男はニヤッとした。
「お前は、本当に冷たい人間だな」
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