座席

 会社員・平野武雄ひらのたけおは「まずい」と思った。


 電車通勤で久々に座席に座れたと思いきや、目の前に老婆が立ちふさがってきたのである。

 これは非常事態だ。

 ぜひとも譲るべきであろう。


 しかし。

 しかしだ。


 譲りたくはなかった。

 小さい人間と思われても仕方のないことだが、彼にとって電車の席に座れるか否かというのは、その日一日の運試しである。賭けに近いものである。

 少し大げさに言うなれば、その日の仕事のモチベーションを左右するほどのものなのである。


 せっかく賭けに勝って運よく目の前の席が空いて座れたのに、なぜわざわざ譲らなければならないのか。


 そもそも、老婆が立っている場所は優先席付近ではない。

 シルバーシートは、扉を挟んだ向こう側だ。

 ならば、譲ってやる義務はない。


 平野武雄はそう自分に言い聞かせ、どっかりと座席に腰かけたまま微動だにしなかった。


 電車がやがて動き出すと、彼はホッとため息をついてチラリと老婆に視線を映した。

 その瞳に映る老婆の顔に、平野武雄はゾッとした。



「はよ席を譲らぬか」



 老婆の目はそう語っていた。

 吊革に必死に左手を伸ばし、右手の杖で身体を支えている。

 どう見ても、辛そうだ。


 しかし、かといって平野武雄も席は譲りたくはなかった。


 二人の間に不穏な空気が流れる。



「この老いぼれを見て、席を立とうともせんとは。ぬしには慈悲はないのか」

「座りたかったらあちらの優先席に移動してください。きっと、他の誰かが席を譲ってくれますから」

「わしゃ、今この場でここに座りたいのじゃ」

「それはできない相談ですね」



 お互いに言葉は発さない。

 目を合わせながら、そんな押し問答を繰り広げていた。


 そんなこととも露知らず、平野武雄の隣にいた女性が席を立った。


「おばあさん、どうぞここにお座りください」


 辛そうに立つ老婆がいたたまれなくなったのであろう。

 しかし、返ってきた言葉は意外なものだった。


「ありがとね。でも、けっこうですよ」

「で、でも……」

「いいの、いいの。お気になさらないで」


 女性は腑に落ちないながらも、すとんと腰をおろした。


(なんだ、別に座りたかったわけではなかったのか)


 そのやりとりを聞いていた平野武雄はホッと胸をなで下ろす。

 そして、再度老婆を見上げると、戦慄した。



「わしゃ、ここに座りたいのじゃ」



 その目は、如実にそう語っていた。


(おいおい、なんでそう睨むんだよ。席なんてどこでもいいじゃないか。なんで隣の女の好意を拒んでまでここに座りたがるんだよ)


 いささか不愉快ではあったが、女性の申し出が断られた手前、自分が譲るわけにはいかなかった。

 ここで自分が席を立ち、目の前の老婆がこの席に座ったとしたら席を譲ろうとした隣の女性のほうがいい気はしないだろう。


 不幸なことに、平野武雄の降りる駅はまだずっと先だ。

 老婆がどこまで乗るかはわからないが、下手をすれば何駅もこの状態が続くことになる。


 彼は次第に汗ばんできた。

 たらたらと汗が額から滴り落ちてくる。

 ポケットからハンカチを取り出し、額をぬぐうも次から次へと汗が噴き出てきてしょうがない。

 気が付けば喉もからからだった。


 老婆はそんな彼の様子を愉快に眺めていた。



「ふん、席を譲らなかった罰じゃ」

「このババア……」



 目だけでそんな会話を繰り広げる。

 不思議なことに、老婆と平野武雄の間には両者にしかわからない意思疎通が生まれていた。


 その時、ポンと車内アナウンスが流れ、到着の駅名が告げられる。


「おお、ここじゃここじゃ」


 老婆はそう言って、電車を降りていった。

 老婆がいなくなって、初めて平野武雄は思った以上の大量の汗をかいていたことに気が付いた。


(ふう、いなくなってくれてよかった)


 何度も噴き出る汗をぬぐいながら最後に電車を降りる老婆の姿を確認しようとしたが、なぜか老婆の姿はどこにも見当たらなかった。


「あ、あれ……?」


 キョロキョロとあたりを見渡すが、どこにもいない。この駅では降りる人間は少なく、すぐにもわかりそうなものだが、その姿は確認できなかった。


「すいません、あのお婆さん降りましたよね?」


 平野武雄は思わず隣の女性に聞いてみた。女性は驚いた顔をして

「ああ、あなた見えていたんですか」

と答えた。


 その言葉に、少しドキリとする。


「み、見えていた?」

「てっきり、見えていないのかと思ってました」

「……?」


 意味がわからずにポカンとしていると、女性は教えてくれた。


「あのおばあさん、この辺りで亡くなった方なんです。ああやってたまに現れては、目で訴えたりするんですよ」

「な、亡くなった……? あの人、幽霊だったんですか?」

「ええ。霊感の強い人でないとわかりませんけど」


 言われて平野武雄は首をひねった。

 確かにいつの間にか目の前に立っていたという印象だったが、かといって自分には霊感はない。

 霊がいると仮定した上でも、見えるはずがない。


「あの、わたし霊感なんてまったくないんですけど……」


 彼の言葉に、女性は微笑んだ。


「霊感がなくても、条件さえ合えば見えることがありますよ」

「じ、条件……?」

「あなたの座ってる席、そこに座るとたまに見える人がいるんです」

「ど、どういうことですか?」

「つまりですね、その席で亡くなったんですよ、あのおばあさん。心臓発作で」



 その言葉に、頑なに座席を立つのを拒み続けていた平野武雄が飛び跳ねるように席を立ったのは言うまでもない。

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