203号室の男

 そのハイツの203号室に住む者は、謎の死を遂げるといわれている。


 2016年8月4日。

 件《くだん》の部屋に住む一人の男性が路上で死んでいるのが発見された。

 その顔は恐怖で歪み、両目はえぐられていたという。

 身体は硬直したかのように強張り、両手を握りしめたま仰向けの状態で倒れていた。

 他に外傷はなく、ただ両目のくぼみからどす黒い血が流れているだけであった。


 男性はすぐさま救急車で運ばれ、司法解剖にまわされた。

 その結果、とんでもない事実が発覚した。


 男性の死因はショック死。

 何の変哲もない路上でそのような死に方をしていたことにも驚きだが、さらに検視官を驚愕させたのはその固く握りしめられた拳であった。

 硬直の始まった両手を広げてみると、そこから出てきたのはふたつの目玉だった。

 えぐりとられた彼の両目である。

 どうやら、彼は自分で自分の両目をえぐりとったらしい。


 いったい何があったのか。

 事件に巻き込まれたのか、はたまた単なる事故なのか。

 しかし事件にしてはかなり異質で、事故にしてはかなり不気味であった。


 さらに謎なのは、男の身元が一切わからないということだった。

 賃貸の契約書に書かれていた男の履歴は全部偽者で、彼が何者でどこから来たのか、一切が謎に包まれていた。

 彼はいったい何者なのか。


 警察はまず、この被害者の男性について、ハイツに住む住人への聞き込みをすることから捜査を始めた。



≪証言1:101号室の50代男性≫


203号室の方ですか?

いやあ、特にこれといって面識はないですねえ。

だって、203号室でしょ?

このハイツの端と端じゃないですか。

数回挨拶をかわした程度ですよ。

朝と晩に。


え? そういうのって面識があるっていうんですか?

すいません、私にとってはそうは言わないもので。


どんな印象だったか?


ううん、そうですねえ。

良く言えば普通の男性、悪く言えばこれといって特徴のない方でしたねえ。


ゴミ出しの時に、ねずみ色のトレーナーとズボン、つっかけで外に出てくるような方ですから。あまり印象に残ってない、というのが正直なところで。挨拶もその時にしたんですよ。


ただ、まあ、声は非常に小さかったですねえ。

「おはようございます」の「す」の部分しか聞こえませんでしたからね。

どちらかというと、ちょっと陰気な感じではありました。


そういえば、その方、ご存じだったんでしょうか?

以前203号室に住んでいた人間が近くの川に身投げして死んだってこと。

そりゃもう、大騒ぎだったらしいですよ。

救急車やパトカーが何台も来て。

何事かって、みんな集まってきたみたいで。


ただ、自殺ってことで処理されてしまったみたいでテレビではやらなかったですけどね。


え、その以前住んでいた方のことですか?

さあ、それはわかりませんね。


私も単身赴任で3か月前に越してきたばかりですし。

203号室の方が引っ越して来られたのはそれから2か月あとですので、ちょうど1か月前ですね。


つまり私が言いたいこと、わかります?

たった1か月前に来た人間について私があれこれ知ってるわけがないってことですよ。

もういいですか? 会社に行かないと。


それから私に聞くよりも103号室の方に聞いた方がいいと思いますよ? 真下の部屋の人なんですから。



≪証言2:103号室の夫婦(30代の男)≫


203号室の方ですか?

ええ、確かに1か月前に越してきました。引っ越しのあいさつに来られましたから覚えてます。感じのいい方でしたよ。最初の方は。


どんな職業についているかとか、そういったのはいっさいわかりませんね。ごめんなさい。

ただ、不定期に外出してましたよ。

朝も夜も関係なく。

いったん外出すると、帰りはかなり遅かったと思います。時間を計ってたわけじゃないので確かではありませんが、夜中に出るとだいたい帰ってくるのは朝方でしたかね。朝に出ると、戻ってくるのは夕方くらいで。


つまり、不規則な生活スタイルでしたね。


ただ、ここ最近、何かに悩まされているらしくって……。

ときおり、ドン! ドン! と何かを投げつける音がしてくるんです。

うるさいなあ、とは思いましたけど、文句を言うのも憚られて……。

よくあるじゃないですか、住人のトラブルが事件に発展するって。

うちには3歳になる息子もいるので、もめ事は避けたかったんですよ。


誰かが訪問してきた形跡ですか?


んー、それはなかったと思います。僕が知る限りですが。

チャイムの音って、下の階でもわりと聞こえるんです。それがなかったですから。訪問客は僕が知る限りなかったですね。


何について悩んでいたかまではわかりませんよ、さすがに。


直近で見たのは、一週間くらい前だったかな。ひどくやつれてて、本当に1ヶ月前にあいさつにきた住人かな、と思ったくらいです。目なんか、充血しちゃって。ブツブツ何かつぶやいてましたね。怖くてあいさつもしなかったですけど。


僕が知ってるのは、それくらいです。



≪証言3:103号室の夫婦(30代の女)≫


私が話すことはありません。

夫の証言が全てです。


ただ、夫が勤めに出ている間、私が子供の面倒を見ているとたまに大きな物音が聞こえてはきました。

何かを叩き壊すような音と、ちょっとした奇声が。


「わあ」とか「消えろ」とか叫んでたような……。

何があったかまではわかりませんけど。

その度に息子が怯えるので、近所の公園に出かけたりしてました。しばらくすると、奇声がおさまるものですから。


第一印象ですか? 夫はなんて?


そうですか……。

私には感じのいい人には全然見えませんでしたね。

どちらかというと、ちょっと裏の顔がありそうな印象でした。笑顔が作り物というか。まあ、死んでしまった人間を悪く言うのもなんですが、あまりお近づきにはなりたくないタイプでした。正直、少しホッとしていたりもするんです。

ひどい女とお思いですか? でも、奇妙な物音で怯える息子のことを考えると、結果的にいなくなってくれてよかったというか……。


あ、でも、だからといって私が何かしたかとか、そういう疑いはかけないでくださいね。

何か少しでもお役に立ちたいと思ったからこそ、こうして洗いざらい正直な気持ちを述べているだけなんですから。

ほんと、あらぬ疑いだけはかけないでください、お願いします。


そういえば、201号室のよしのさんからお話は聞きました?

あの方、20年近くもこのハイツに住んでらっしゃいますから、何か知っているかもしれませんよ。



≪証言4:201号室の70代女性≫


はい、あたしが201号室のよしのでございます。

この裏野ハイツに住み始めてから20年はたちましょうか。いろんな方々との出会いと別れを経験させてもらいました。今、住んでいる方たちはみなさん親切で、それはもう、嬉しい限りです。


はい、もちろん203号室の方も覚えておりますよ。

名前は教えてくれませんでしたが、なんでも昼も夜も関係ないお仕事だとか。ええ、ええ、世の中にはいろんなお仕事がたくさんありますから、別段珍しいことでもありません。何も不思議には思いませんでした。

けど、一つだけ妙なことはありましたねえ。


あたしは引っ越してきたその日に、その方と初めてあいさつをかわしましたんですが荷物が旅行かばん一つだけだったんです。


入居してきたその日に「荷物の運び入れ、お手伝いしましょうか?」と尋ねたのですが──なんです? 年齢を考えろですって? ふふふ、こう見えてもあたしゃ足腰は丈夫なんですよ。2階の階段を毎日上り下りしてますからね──それはまあ、ともかくとして、その方、どうも引っ越しの荷物は何もないそうなんですよ。


妙でしょう?


これから住もうって部屋に、テレビも洗濯機も冷蔵庫も設置しないなんて。

まあ、本人曰くテレビも見ないし洗濯機はコインランドリーで済ませると言うし、食事はすべて外食で済ませるというから男の一人暮らしはそんなものかと無理に納得はしました。


けど、今思うとやっぱり不思議ですねえ。

そんなに長居する気がなかったのかもしれませんね。だったら、ウィークリーマンションに住めばいいのに。何か理由があったんでしょうね。


で、しばらくはその方、特にどうこうなく過ごしていたみたいなんですけど、2週間くらい前からですかね。急に人が変わったみたいに荒々しくなって。


どんな感じだったか?


そうですねえ、なんだか、常に周囲を警戒しているというか。キョロキョロと辺りを伺うような仕草で出かけてましたね。声をかけても返事をしませんし。


なんだか、数年前に自殺した田野さんみたいで……。


あ、田野さんは知ってますよね。え、知らない? あなたそれでも警察の方ですか?


田野さんは、以前203号室に住んでいた住人です。近くの川に身を投げて死んでしまったんですけど、ちょうどその2週間前くらいに同じような症状だったんですよ。

何かに怯えてるというか、震えながら周りを見渡してましてね。


「どうしたんですか?」

と聞いたら

「構わないでくれ」

と逃げていってしまいまして。


で、それっきり。


次に見た時は、川から引き揚げられた田野さんの遺体でした。もちろん、田野さんが入れられた袋のほうで、遺体そのものを見たわけではないですけどね。


でも、その方もまるきり田野さんと同じ症状だったもので、心配になってしまいまして。


203号室の方にも

「もし」

と声をかけたんですが走って逃げてしまいまして。


いったい、なんだったんでしょうね。


仕方がないので警察に相談をしたんですが、まったくとりあってくれなくて……。

あ、別にあなたを批判しているわけではないですよ。

ただ、警察も早めに対応してくれていたら、あの方も死なずに済んだのではないかなと。

……ああ、本当にあなたのことを言っているわけではないですからね。誤解なさらずに。


そういえば、102号室の方とはお話なさいました?

なんだか、203号室の方ともめていましたけど。



≪証言5:102号室の40代男性≫


……はい。

ええ、203号室の……。

確かに、口論はありましたけど……。

何もしてないっていうか。


そもそも、面識もありませんでしたし……。


ええと、僕を疑ってるんですか?

僕は何も知りません。

ただ、203号室のあいつが、いきなり因縁をつけてきたんですよ。


何を言われたか?


ええと、なんだったかな。


「お前のやってることは知っている」だかなんだか。

なんのことだと思いましたよ。

別に僕、何も悪いことしてませんし。


おまわりさん、もしかして僕が無職ってことで、決めつけてません?

こう見えても日雇いのバイトとかして働いてますよ。正規のバイトです。なんでしたら、確認してくださってもけっこうです。


203号室の彼、ちょっとイッちゃってる感じでしたね。なんかこう、鬼気迫ると言うか。

彼、言ってましたよ。


「自分は公安局の者だ」ってね。

笑っちゃいましたよ、それ聞いて。だって、どう見てもそんな人には見えなかったですもの。目なんか釣りあがっちゃって。


え、いつのことか?


そうですねえ、彼が亡くなる3日前くらいでしたかね。

こうも言ってました。


「潜入捜査の邪魔をしないでくれ」って。


どんな潜入捜査をしてるんだか。あれ、絶対クスリやってますって。僕を疑うより、そっちの線で調べたほうがいいんじゃないですか?


あ、そういえば101号室の方とはお話しなさいました?

嘘か真か、203号室の彼、101号室の方を追ってると言ってましたよ。



     ※



 その日、101号室の男が捕まった。

 逮捕容疑は外患罪。つまり、国家の安全を脅かそうとした罪である。

 彼は裏野ハイツを拠点とし、スパイ活動を行っていたとされている。

 203号室の男は、公安として密かに彼を追っていたのである。


 それが発覚するや101号室の男は逃走を試みて、そのまま御用となった。

 203号室の男の身辺を洗っているうちに、警察はとんでもない大物を捕まえたのであった。


 ただ、これで一件落着とは言い切れない。

 1か月間、この男を追っていた203号室の彼の身に何があったのか。

 時たま奇声を発していたのはなんだったのか。


 101号室の男は、逮捕後、歯に仕込んだ毒をあおり自殺した。

 そして、203号室の男も謎の事故死として処理された。


 すべては闇に葬られてしまったのである。



     ※



 時は何事もなく過ぎ去っていく。


 203号室の男の変死事件は人々の記憶の隅に追いやられ、世の中は何事もなかったかのように動いていた。

 あの事件から半年。

 空き家となった203号室に新たな住人が越してきた。

 この春、社会へと旅立つ新社会人である。


 彼は引っ越しのあいさつに住人の部屋をまわっていた。


「はじめまして。このたび203号室に越してきた二宮と申します」


 201号室のよしのは扉を開けてさわやかな青年を迎え入れた。


「これはこれはご丁寧に」


 にこやかな笑顔を向ける。

 青年は優しげな老婆の笑顔に内心ホッとしながらもさらに頭を下げた。


「自分にとっては初めての一人暮らしですので、なにぶんご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」

「ああ、ああ、そんなにかしこまらんでくださいな。こちらこそ、よろしく」


 笑顔のまま立ち去ろうとする青年によしのは声をかけた。


「もし」

「はい?」

「他の部屋にあいさつに行くのであれば102号室はやめておいたほうがいいですよ」


 その言葉に青年は訝しげな顔を向ける。


「どういうことですか?」

「あの男、部屋の中で何か怪しげな薬を作っているみたいで。幻覚や幻聴を起こす妙な薬をこさえているらしいんですよ。たまにハイツ内で漏れ出ることもあって……」

「そんな。だったらすぐに警察に言ったほうが……」

「警察には何度も言ったんですがね、なんも相手にしてくれないんですよ。変な因縁をつけられると危ないですし、関わらないほうがいいですよ」

「そうですか。教えてくださってありがとうございます」


 ペコリと頭を下げて部屋に戻る青年。

 それを見送りながら、よしのはホッとためいきをついた。


「まったく、日本の若者はすぐに人を信じるのぅ」


 そう言って、チラリと後ろを振り向く。


 そこには──


 椅子にしばりつけられてぐったりとした男がいた。

 自分で取ったのか、両目がえぐられている。


「さて、あの男はどれくらい持つかねえ。人間の恐怖は最高のごちそうだ」


 老婆はそのまま、見るもおぞましき鬼へと姿を変えたのであった。



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