なんで逃げるの?

 深夜のことである。


 男は大きな物音で目が覚めた。

 それは耳を突き破らんばかりの物音であった。

 あまりの大きさにたまらず飛び起きた男は、なにごとかと瞬時にあたりを見渡した。しかし、しんと静まりかえった室内はどこにも異常は見当たらない。

 何かが爆発したわけでも、破裂したわけでもない。

 いたっていつもの寝室だった。


「はて?」と男は首をかしげた。


 気のせいだろうか。

 いや、そんなはずはない。自分は確かに大きな物音で目を覚ましたのだ。

 残業続きの仕事疲れで、ちょっとやそっとでは起きられない身体になっている。

 もしや、外で事故でも起きたのだろうか。


 男はそっとカーテンを開くと窓の隙間から外をうかがった。

 しかし、どこにも異常は感じられなかった。

 あたりはひっそりと闇に沈んでいる。


 不思議に思いながらも男はカーテンを閉じ、ベッドに仰向けに寝転がった。

 見慣れたいつもの天井。

 だが、今夜に限っては何かが違う気がした。

 どこがどう、というところまではわからない。

 しかし、何かが違う。


 誰かに見られている、そう感じるのだ。


 男は枕元に置いてあったスマホに手を伸ばした。

 真っ暗だった画面が、男の手によって淡い輝きを放つ。

 いたってシンプルなホーム画面。

 そこに表示されている時刻は深夜2時だった。


(深夜2時……)


 その不気味な時間帯に、男は真夏の夜にも関わらず背筋が寒くなるのを感じた。


(もしかして、いるのか……?)


 そう思うと自然と視線は天井の隅っこのシミに向かってしまった。


 以前からあったシミだが、よく見ると人の顔のようにも見える。

 細面の女の顏。

 それが、以前よりもくっきりとしているように感じられた。

 ニタァと笑ったようなその顔が、なんだか不気味だった。


「バカバカしい」


 男は自分に言い聞かせるように、あえて声に出してため息をついた。


 30にもなって霊に怯えるなんてどうかしている。

 そんなもの、いるわけがない。全部迷信だ。

 大きな物音だって、もしかしたら隣の住人が寝ぼけて皿か何かを割ってしまったのかもしれない。

 いや、皿でなくとも何かにぶつけたとか大いにありえる。

 このアパートは壁が薄い。

 ドタバタと住人が動き回る音はよく聞こえるじゃないか。


 そうだ、そうに違いない。


 隅っこのシミが若干人の顔に見えるのも、人の脳が勝手にそう見せてしまうシミュラクラ現象に他ならない。

 男はそう結論付けて、もう寝ようと目を閉じた。


 直後、枕元にあったスマホから軽快な着信音が流れ出した。

 ビクッと男は肩を震わせる。


(こんな真夜中に誰からだよ、もう)


 男はいくぶんか気分を害されながらスマホを手に取った。

 そこに表示された相手先を見る。

 表示されていた相手は「非通知」だった。


 トクン、と胸が高まる。


 真夜中の異様な音と共に目を覚ました直後の非通知からの着信。

 男は半ば反射的に「着信拒否」ボタンを押した。


 一瞬にして沈黙するスマホ。


 ホッとしたのもつかの間、数秒も経たずに再度「非通知設定」の相手から電話がかかってきた。

 まるで拒否されることを見越していたかのような早さだった。


「おいおい、マジかよ」


 男はうめく。

 流れる軽快な音楽とは裏腹に、スマホは不気味な雰囲気を漂わせていた。

 当然、男は出ることもなく今度はスマホの電源を落とした。


 男はようやく息をついた。

 しかし、誰からだったのだろう。

 真夜中の非通知の電話。イタズラにしてはかなりタチが悪いと思った。


(まあいい。明日以降もかかってくるようなら電話会社に相談しよう。非通知の相手なんて調べてもらえればすぐにわかるだろうし)


 男はそう思い、ようやく眠りにつこうと目を閉じた。


 直後、電源を落としたはずのスマホから再び着信音が鳴り響いた。

 たまらず男は飛び起きた。


「なんで? 電源落としたはずだろ?」


 しかし、スマホは軽快なメロディとともに着信音を響かせている。

 男はためらいながらも通話ボタンを押した。


「……はい」


 抵抗感はあったものの、スピーカーに耳を当てる。

 すると、通話口から異様な雑音とともに、か細い女の声が聞こえてきた。


「なんで……?」と女は言っていた。

「なんで逃げるの……?」と。


 それを聞いた瞬間、男は「あっ」と声を上げてスマホを耳から離した。


(これは……)


 男には思い当たる節があった。


 数年前、オーナーの謎の失踪によって廃園となった裏野ドリームランド。

 霊が出ると噂のその廃園に彼は先日、友人たちと訪れた。

 そこで耳にした声とまったく同じだったのだ。


 肝試し感覚で訪れていたものの、あまりの不気味さに入り口手前で引き返してしまった彼ら。

 その時、男の耳にこの女の声が飛び込んできたのである。


「なんで逃げるの……?」と。 


 男はまわりのみんなにそのことを話したものの、誰も女の声など聞こえていなかったため、男自身も気のせいかと思っていた。

 しかし、まさかスマホからその時の声が聞こえてくるなんて。


「なんで逃げるの……? なんで逃げるの……? なんで逃げるの……?」


 まるで念仏のように繰り返される声に、男はたまらず通話を切った。

 プツッと何かが切れたかのように、スマホから音の一切が消える。


 以降、非通知から電話がかかってくることはなく、不気味な静けさだけがあたりを包み込んだ。


 と、突然今度はスマホのカメラが勝手に起動し、撮影を始めた。


 カシャ、カシャ、カシャ。


 連続で鳴り響く3つの撮影音。

 男は思わず「おわ」と声をあげてしまった。

 何か変なボタンを押してしまったかと慌てて握り直す。

 しかし特に操作を間違えたような形跡は見当たらず、不思議に思いながら男は撮った画像を表示した。


「ひっ」


 男はスマホの画面に映り込んだモノを見て思わず悲鳴をあげた。


 そこに写っていたのは、真っ暗闇の中でぼんやりと浮かぶ女の顏だった。

 撮った方向は部屋の隅だろうか。

 暗い目つきで男を見つめている。


(なんだ、これは……)


 あまりの不気味さに男はたまらず電気をつけた。

 眩しい明かりが瞼を重くする。

 女が映っていたであろう場所は、特になんの変化も見られなかった。

 けれども、写真にははっきりと女の顏が映っている。


 それも3枚ともだ。

 よく見るとその顔は徐々にスマホのカメラに向かって接近してきているようだった。


「気持ち悪い」


 男はそう言って3枚とも画像を削除した。


 その直後、またもや大きな音が部屋中に響き渡った。

 ガシャンッとかバリンッとか、得も言われぬ異様な音だ。


 たまらず男は辺りを見渡す。

 しかし、やはりどこにも異常は見当たらなかった。


 辺りをうかがいつつ、スマホに目を向ける。

 と、今度はスマホの連射撮影が始まった。


 カシャカシャカシャカシャカシャ………


「ひいっ」


 突然の撮影に男はスマホを放り投げた。

 床に落ちたと同時に、スマホの連射撮影が止まる。


「………」


 床に転がり落ちたスマホ。

 不気味さだけが異様に伝わってくる。


 このまま無視をしたほうがいい。

 このまま何もしないほうがいい。


 男は本能的にそう感じていた。

 しかし、なぜか身体が勝手に動く。

 男は放り投げたスマホを拾い上げると、連射撮影された画像を画面に写し出した。


 うっすらと浮かびがる男の顏。


 どうやら連射撮影は自撮り用の内側のカメラからのようだ。

 青ざめた男の背後に、青白い顔をした女が写り込んでいた。


 それは枚数を追うごとに部屋の隅から男に向かって接近している。


 見たくないと思いながらも、男の指は意志に反して次々と連射された写真をスライドしていく。

 女の顏は徐々に徐々に男の背後に迫っていき、そして最後の1枚では男の肩越しに写り込んでいた。


 ヒヤリ、と男の首筋に汗がつたう。


 もし、この写真が意図的に撮られたものだとしたら。

 もし、この女がこの写真を撮ったのだとしたら。

 今まさに、自分の背後にはこの女がいるということだろう。


 男はスマホを握りしめたまま固まった。


 振り向く勇気も起きない。

 振り向こうとも思わない。


 と、ふいに耳元から女の声が聞こえてきた。


 か細い声で「ねえ、なんで?」と問いかけてくる。


「なんで逃げるの?」


 直後、スマホの撮影音が鳴り響く。

 投げ出されたスマホの画面に写し出されたのは、男の顏が血まみれの手によって押さえつけられた1枚だった。


「が……!!」


 部屋中に男の悲鳴が響く。

 そして、嬉しそうな女の声が続いた。



「ほら、もう逃げられない……」





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