第9話 Episode2-4 東京頂上決戦《承》

17 平穏


「……だねえ」


 日比谷ひびや公園内に設営された簡易指揮所、と言えば聞こえはいいが、自衛隊から租借そしゃくした野戦用大型テントの中で、並べたパイプ椅子の上で横になりながら、ANCLEアンクル作戦課第一小隊隊長入谷邦明いりやくにあきがぼそっと言った。そもそも隊長が指揮など取っていないのだから、正しくは指揮所ですらない。単なる待機所だ。


「何ですって?」


 その隣で並んだPCの監視カメラ映像を見ていた零音一人れおんかずとが、いぶかしげな顔を入谷いりやに向ける。


「平穏だねえ、って」


 入谷いりやがもう一度言うと、一人かずとはため息混じりに目を細めて視線をモニターに戻した。


「それに越したことはないだろうが、不良警部補」


 いつの間にか近くに来ていた整備主任の五位久作ごいきゅうさく巡査部長が、入谷いりやがアイマスク代わりに顔に乗せていたワークキャップを取り上げて自分の頭にかぶった。


「こんなところにあった……まったく、油断も隙もありゃしねえ」

「落ちていたんだ」

「作業台の上に置いてあるのを、落ちているとは言わねえよ」


 これ以上ないほどの縦組織にいるというのに、この人たちには階級差の意識がないのだろうかと、一人かずとあきれながらやりとりを聞いた。いや、だからこそ「ここ」にいるのかもしれなかった。冗談半分の口調とはいえ、機動隊員が「ANCLEアンクルは問題警官の収容所」だと話しているのを偶然耳にしたことがあった。


 それにしても、確かに平穏だった。

 主要日程二日目の正午を過ぎたが、何一つ不穏な動きはない。

 朝の内こそSPに囲まれたフランス大統領やらイギリス首相やらドイツ国防相やらが現れて、アウター・バディを興味深そうに見学していったが(おそらく本当にそのためにここに配置されているのだろう)、応対したのは技術主任の路地屋理佐ろじやりさで、もちろんそれらはフランス語や英語やドイツ語であったから、一人かずと入谷いりやは何を言っているのかわからない会話に頷きながら横で笑っているしかないのだった。つまりは何もしていない。そして迎賓館げいひんかんに向かう宿泊客を途中まで随行ずいこうして戻ると、もう待機以外にやることはないのだった。


 もっともそれは一人かずとらが封鎖区域のど真ん中にいるからであって、規制ラインの先では環境保護団体やら平和団体やら中東や南米出身者の団体やらが、西側首脳を糾弾きゅうだんするデモを四六時中やってはいるのである。警備の警官隊と揉み合いになっているというニュースもある。だがその前面には、高圧放水車を擁した機動隊が警備車両と共に道を塞いでおり、たとえ暴動に発展したとしてもここにまで火の粉が飛んでくるような気配はない。


「平和のための話し合いってのは、平和の中でやらなきゃ説得力がねえんだ」


 工具箱を取りに来たらしい五位ごいが、戻り際に言った。


「戦場で平和が大事なんて言ったところで、建前にしか聞こえねえ。実際、会議の声明なんて建前だからよ。本当に建前に聞こえちゃいかんだろ」


 とはいえ、いくら平穏だからといっても、そもそもこの時間、入谷いりやはガードナーでスタンバイしていなければならないはずなのである。交代で即応態勢を取ることになっているからだ。

 それを問われた入谷いりや欠伸あくびをしながら立ち上がった。


「ここは何も起こりゃしねえって」

「ここは?」

「ここはな」


「どうしてわかるんですか」

 一人かずとが問いただすと、入谷いりやは「考えてもみろ」と言う。


「十年に一度あるかないかの超厳重警備が敷かれてるんだぞ。わざわざそのど真ん中で事を起こす馬鹿がいるかよ」

「でも隊長だって嫌な感じがするって言ってたじゃないですか」

「だから、ここは、って話だよ……もし何か起こったら、そん時はたぶん決戦だ」


 入谷いりやは意味ありげに遠くを見たが、もとよりテントの中ではオリーブドラブのキャンバス地しか見えない。


「隊長、第一小隊より通信です!」


 連絡業務にあたる隊員が入谷いりやを呼んだ。


「いないと言ってくれ」

「いるって言っちゃいましたよ」

「昼寝の後の爽やかな気分が台無しだ」


 うなりながら、差し出されたマイクを嫌々手に取った。


「こちらペットショップ2。何の用だ」

「こちらペットショップ1。定期連絡だ」


 第一小隊隊長田村幹夫たむらみきおの声だった。ペットショップ1は迎賓館げいひんかんの斜め前、真田堀運さなだぼり動場に設営された第一小隊待機所のコードネームである。いや、おそらく向こうはちゃんとした「指揮所」に違いない。


「ご苦労……なことだ」


 わざとらしく付け足した皮肉を、田村たむらは無言でやりすごした。もっともどんな顔をしているかはわかったものではない。


「昼食後の記念撮影を終えて、予定通り午後のセッションに入った。周辺に異常はない。一時間前にグリーンフォースのデモ隊が権田原ごんだわらの第4検問を突破しようとしたが、機動隊に阻止された。逮捕者五名、負傷者七名うち機動隊員一名」


「知ってるよ」

 入谷いりや素気そっけなく言った。


「それより背中は市ヶ谷いちがやじゃねえか。自衛隊に蹴散けちらしてもらったらどうだ」

「それができれば我々は不要だ」


「……冗談の通じねえ奴だな」

 入谷いりやがマイクを手で覆いながら言った。


「そちらの状況はどうだ、ペットショップ2」

「状況も何も」と入谷いりやがうんざりしたように言った。「アウトリーチ招待客以外、誰も来やしねえよ」


 アウトリーチというのは、個別の議題に対して議長国が招待した国のことである。今回はアジア太平洋地域の経済・安全保障の関連で、いくつかの東南アジア諸国との協議がメイン・セッションの後に予定されていた。


「それだって一国の首脳陣だぞ。ちゃんと対応してるんだろうな」

「あたりまえだ。まったく、どれだけ信用がないんだ」


 入谷いりやは語気を強めて言ったが、実際に対応しているのは配備の警察官だった。


「忙しいんだ。切るぞ。オーバー」


 返事も待たずにマイクを返す。


「何が忙しいんですか」

 一人かずとがわざとらしくくと、入谷いりやは悪びれもせずに答えた。


「暇を持て余すのにだ」

「前線の人たちが聞いたら怒りますよ」

「全員が忙しかったら物事はちゃんと回らんよ」


 一人かずとはため息をついて、何とはなしに反対側を見た。少し離れた机で、卯月舞うづきまいが大型モニターを見ながらスティック・コントローラーを操作していた。もちろんゲームをしているわけではなく、周辺警備用のカメラ付きドローンを動かしているのである。その柔らかな輪郭の中に鋭い緊張を秘めた横顔に、一人かずとは数秒見惚れてしまう。


 戦場にいる女は女だと思うな、と隊の上官に言われたことがある。生命の危険がある状況では本能にブーストがかかるからだというのである。しかしながらここは戦場ではない。少なくとも今のところは、戦士の休息ですらない。

 一人かずとはおもむろに立ち上がると、並んだモニターを順に確認しているていで移動して、まいの横に立った。


「君がやる必要はないんじゃないかな、卯月うづき一士」

「いえ、周辺の地形も頭に入れておきたいですから」


 モニターに視線を向けたまま、まいは事務的に答えた。


「で?」

「いえ、特に異常はありません」


 そう言いながら一秒だけ顔を向けて一人かずとを見た。

 その瞬間、確かに一度会ったことがあると一人は思った。ただそれは確信と呼ぶには曖昧すぎた。いつかもどこかもわからない。ただ、この顔立ちが記憶のどこかにある、という根拠のない感覚だけだった。まいの配属部隊歴を見る限り、接点などどこにもないように思える。

 それとも単なる思い込みなのだろうか。存在しない接点のために、記憶を捏造ねつぞうしようとしているのだろうか。それにしたって「どこかでお会いしませんでしたか」なんて、いつの時代の映画の台詞だ。


「……どうかしたんですか」


 まいかれて、あわてて言葉を探していると、テントの入口が開いて路地屋理佐ろじやりさが顔を出した。


「そこのポリマー男子、どっちでもいいけど、ちょっと来てくれない?」


「ポリマー男子?」


 一人かずとき返すと、路地屋ろじやは「わかりそうなもんでしょう」と言いながらずり落ちた眼鏡を直した。


「ポリマースーツを着た男子、の略」

「何ですか」

「インドネシアの防衛大臣がガードナーが動くのを見たいらしいのよ。警備中だって断ったんだけど、聞いてくれなくて」


「スヌーピー、頼んだぞ!」

 離れた場所で頭の後ろで両手を組んで座っている入谷いりやが、背中を向けたまま叫んだ。

「隊長命令だ!」


 一人は大きく息を吐くと、まいの横顔に後ろ髪を引かれながら、路地屋ろじやの後に付いて外へ出た。


「……零音れおん君さあ、」


 歩きながら話しかけてきた路地屋ろじやは、一人かずとが「はい?」と答えると、突然立ち止まってくるりと後ろを向いた。ぶつかりそうになって慌てて一人かずとに、路地屋ろじやが半笑いで言う。


「わかりやすすぎる!」


「はい?」と一人かずとはもう一度言った。



 18 霹靂


 田村幹夫たむらみきおはその車を不審に思った。白バイとパトカーに先導され、フロントグリルの両脇に小旗をなびかせた黒いセダン、政府専用車に間違いはない。正門を通り抜けて迎賓館げいひんかんの前庭へと入っていく。しかし。


「この時間に到着や移動の予定があったか」


 監視モニターから顔を上げて、田村たむらは誰にともなくいたが、誰もが顔を見合わせて首を傾げるのみであった。


「確認します」


 通信担当の隊員が言った。が、その間にももう一台が真田堀さなだぼり運動場脇の405号線を曲がって正門を目指した。さらにもう一台、その後に車列が続いた。二台、三台、四台。少し置いて五台、六台、七台。


「どういうことだ……」


 田村たむらつぶやきを通信員の大声が追った。

「どういうことだ! 予定の変更とは!」


 それをまた田村たむらが繰り返す。

「予定の変更?」


「ケンネルよりハウンドドッグへ」

 ANCLEアンクル本部からの割り込み緊急通信が、第一小隊指揮所のテント内に響く。

「緊急事態発生。ペットショップ1、ペットショップ2、応答せよ」


「こちらペットショップ1」

 田村たむらは目の前のマイクにスイッチを入れて応答した。


「こちらペットショップ2、どうぞ」

 ややあって、第二小隊が反応した。入谷いりやではなく、通信担当者のようだった。どうせテントの外で煙草でも吸っているのだ。


「こちらブリーダーだ」


 作戦課長上原頼豪うえはららいごう警視正の声だった。課長自らが通信に現れることはまれだ。田村たむらの背筋に緊張が走る、と同時に入谷いりやの顔が頭に浮かんだ。「かん」か……AIが機械を制御するこの時代に。


「想定外の事態だ。たった今連絡があった。この後の第5セッションと総理主催のパーティーは、場所を移動して東京国際クルーズターミナルに停泊中の新造豪華客船『芙蓉ふよう』にて開催されることになった」


「何ですって!」

 田村たむらは人目もはばからずに叫んだ。


「そんな話は聞いていません!」

「私もだよグレートデン」


 上原うえはら田村たむらのコードネームで答えた。


「私どころか、警視庁も警察庁も寝耳に水なのだ。どうやら稗田ひえだ首相がサプライズで突然提案したらしい」

稗田ひえだ首相が?」


 田村たむらの脳内に浮かぶ入谷いりや腑抜ふぬけた顔が、稗田阿平ひえだあへいの見るからに狡猾こうかつそうな笑みに取って代わった。


「いや、突然そんなことを言い出したって、準備というものが……」


 田村たむらはそこまで言って、準備もなしにそんなことが言い出せるはずがないことに気づいた。


「我々が疎外そがいされていた?」

「そんなことは知らん……まあ実際こうして知らんわけだよ。何もな」


 投げやりな口調で上原うえはらは言った。


「とにかく、警視庁機動隊は移動に合わせて臨機応変に警備陣を動かすそうだ。既に追加の緊急交通規制が発動済みだ。我々はとりあえず淀川よどがわ司令の指示を待つ」


「……わかりました」


 マイクのスイッチを切った次の瞬間、田村たむらは目の前にあった折り畳みのパイプ椅子を思い切り蹴り飛ばした。


         ☆


 入谷邦明いりやくにあきはもちろん通信機のすぐ脇でそのやり取りを聞いていた。


「そういうことだ諸君」


 指揮所の中の全員が入谷いりやを見た。この指揮所が設営されてから、入谷いりやの顔が初めて隊長らしく引き締まるのを零音一人れおんかずとは見た。


「機動隊の諸君は上の指示に従ってくれ。ANCLEアンクルはとりあえず待ちだ」


「それでいいんでしょうか」

 一人かずとが言うと、入谷いりやは焦燥を見せるでもなく、落ち着いた口調で答える。


「下手に動くよりはマシだ。もし俺が何か事を起こそうとしているなら、この混乱を狙う。動かない敵ほど脅威になる」


 そして一転して笑いながら、今のうちにコーヒーでも飲んでおこうじゃないかと言って、煙草を一本箱から振り出して咥えた。

 路地屋理佐ろじやりさは何か言いかけたが、あきらめて肩をすくめると自分のマグカップを取り上げた。


 一人かずと卯月舞うづきまいを見た。まいは相変わらず、コントローラーを手にドローンのカメラ映像を凝視していた。その眼が、急に細くなった。顔を横に向けて入谷いりやを見る。


「……すいません、念のため報告します。新目白しんめじろ通り高戸橋たかとばし付近に不審車両が出現。大型トレーラー4台の車列が早稲田わせだ方面に向けて進行中です。四谷よつや方面に進路を変える可能性もあります。全車積載物あり、内容は不明」


「第一の連中に教えてやれ」

 入谷いりやが他人事のように言って、火のついていない煙草を指に挟んだ手でコーヒーを啜った。


「ペットショップ1よりハウンドドッグ」


 途端に第一小隊から通信が入った。


「警備対象車両群、順次移動を開始する。ケンネル、指示を請う。繰り返す……」


 入谷いりやが大きくため息をついた。


「……予想通りなら、最悪だな」


 そう言うと、指に挟んだ煙草を渋い顔で箱に戻した。


「ケンネルよりペットショップ2」


 入谷いりやは本部からの通信に怪訝けげんな表情を浮かべた。1じゃなくて2だと?


「フライング・スピッツ緊急発進せよ。目的地は川崎かわさき穴橋あなはしエレクトロニクス扇島おうぎしまラボ。全速力で向かえ。繰り返す……」


 どういうことだ?


 まいを見ると、彼女はテントの外へともう走り出していた。


          ☆


(なるほど、そういうことか)


 複数の傍受通信や暗号回線を超人的集中力で聴き分けながら、板野真亜玖いたのまあく一人頷うなずいた。何がサプライズだ。『芙蓉ふよう』の寄港、水陸両用軍事用重機の輸入と強奪、そしていまだに行方不明の理由、唐突に見えるサミットの予定変更、何も知らされない警備陣、徹底した情報統制……それらはわかりやすすぎるくらいに一本の線に繋がる。一点だけ気になるところはあるものの、そこは今のところ問題じゃない。


 すべては最初から仕組まれていたんじゃないか。おそらくは『ブラック・クリスマス』から。


 板野いたのはヘッドセットに繋がる通信回線を一般電話回線に切り替えて、とある番号を設定した。越権行為は承知だが、正しい手順を踏んでいる暇はない。ここで独断先行しなければ、淀川よどがわ総司令が我々を切り離した意味がないというものだ。せっかく調べたこの番号もこれで使えなくなるだろうが、そもそもこんな時のための情報なのだ。


「誰だ」


 相手は警戒心丸出しで通話に出た。


「お世話になっております」


 板野いたの大仰おうぎょうな口調で切り出す。


「名前は明かせませんが、ご存知ANCLEアンクルの者です」

「何、ANCLEアンクルだと?」


 相手は怒りを含んだ声で言った。ちょうど茶でもれたタイミングだったのかもしれない。


「なぜこの番号を知っている」

「申し訳ありません。わからないものを調べるのが私の仕事ですので」


 相手は少し黙った。小さくうなり声が聞こえた。


「何の用だ」


「単刀直入にお願いしたい」と板野いたのはハキハキとした声で告げる。「扇島おうぎしまラボにあるRR44ダブルアールヨンヨンを今すぐ拠出きょしゅつ願いたいのです」


「何だと!」


 相手はもし目の前にいたなら、手近な物を投げつけてきそうな勢いで怒声どせいを上げた。


「まあ落ち着いてください。我々は取引をしようというのですよ、穴橋あなはし会長」

「違法に盗み出した情報で取引とは、盗人猛々ぬすっとたけだけしいにもほどがある!」


 電話口の穴橋士郎あなはししろうは、テレビで観るような好々爺こうこうやのイメージからはほど遠い、狂犬を思わせる声で吠える。


「だいいちRR44《ダブルアールヨンヨン》はまだ完成しておらん。あと数年はかかる」

「目標初速の65%は達成しているのでしょう? それで十分です。我々はUFOを撃ち落としたいわけではありません」

「それでも断ると言ったら」


 板野いたの穴橋あなはしに聞こえるように大きく息を吐いた。


穴橋あなはしグループの組織的な介入があった事を裏付ける資料を公表するつもりです」


「何の話だ」

「もちろん『ブラック・クリスマス』の話ですよ」


 しばらくの沈黙があった。穴橋あなはしが小声で何かつぶやいた。「……の亡霊か」と言ったように聞こえた。


「何か言いましたか?」

「こっちの話だ」


 吐き捨てるように答えると、ゆっくりと続ける。


「ところで、その資料とやらは我が社にとって本当にクリティカルなのかね。我々はその辺の中小企業とは根本的に違うのだよ。時には法に触れることもある。だが問題が表面化したことは一度もない」


 板野いたのは、ええ、と素直に言った。


「言葉というのは曖昧あいまいなものです。その曖昧あいまいさを重ねて、存在しないことを事実に、事実を虚言きょげんにすり替えることを詭弁きべんという」


 何を言っているんだ、と割り込む穴橋あなはし板野いたのは無視した。


「ですがね、詭弁きべんが染み付いてしまった人間は、論理に破綻さえなければ相手は納得すると思い込んでしまうんです。実際には、言葉が伝えるものは意味だけじゃない……よろしい、では試しに公表してみましょうか。我々はANCLEアンクルが失敗した場合、その責任を穴橋あなはしグループに押し付けることも可能です。さて、世間はどちらを信用するでしょうね」

「おまえこそ詭弁きべんではないか!」

「では、記憶に新しいところで、新有明島しんありあけじま襲撃事件の直後、1キロ先の海上に穴橋あなはし海運の小型浮ドックが移動してきていた件はどうでしょう」


「それは知らん」


「……それは、ですか」


「……わかった」

 長い沈黙の後、穴橋あなはしは投げやりな口調で言った。


「会長が賢明な方で助かります」


 板野いたのは半ば本心で言った。穴橋士郎あなはししろうが本当に知らないとしても、驚くことではない。これは板野いたののかけた「カマ」だった。どう考えてもスレイプニルはどこにも上陸していないであろうからだ。

 穴橋あなはしの関与は疑いようもないとしても、既に世界的企業体である穴橋あなはしに、国を揺るがすリスクを取る必要などあるはずがない。おそらく穴橋士郎あなはししろうは戦略的指示を下ろす権力はあっても、現場のコントロールはできていないのだろう。いや、あまりに肥大化した組織でそれは無理というものだ。


「……どうすればいい」


「すぐに私のチームが開発センターに伺います。現場の社員を指示に従わせてください。それから仕様データのセキュリティを解除しておいてくれますか。いちいち突破するのは手間なので」


 穴橋あなはしは返事とも咆哮ほうこうともつかない声を上げて通話を切った。


         ☆


「ボルゾイからブリーダーへ」


 上原頼豪うえはららいごう作戦課長はそのコードネームの主を認識するのに数秒かかった。


「……GACCAガッチャか?」


「お見知り置きいただいて光栄です。いや、まだお目にかかってはいませんが」


 板野いたのは落ち着いた調子で言った。


親睦しんぼくを深めている暇はないのだがね。状況は当然知っているだろう」


 若干の苛立いらだちを感じさせる上原うえはらの声に、板野いたのかすかに笑った。


「ああ、すいません。もちろん、その件でです。残念ながら、詳しく説明している余裕はありません。結論から言いますと、これから作戦終了まで、実質的な指揮権をこちらに移管していただきたい」


「何? そんなことは……」

 上原うえはらの台詞を板野いたのは冷静にさえぎる。


淀川よどがわ総司令は既に承知しています」


「総司令が?」

 上原うえはらは通信相手に問いただす気力が急激に萎えていくのを感じた。伝地でんち情報課長との対話以来、同じ感覚に何度も襲われている。


(結局、我々は誰かの駒か……)


 王の頭に金将を打つために、守りの銀将を動かすべく打たれる捨て駒、それは歩に限ったことではない。次の王手で詰むならば、プレーヤーは平気で飛車とて捨てるだろう。いや、いつから自分たちは大駒だと思っていた?


「まず、ヴァルキュリスを一機、早急に発進させてください」


 返事を待つことなく、板野いたのが言った。


「ヴァルキュリスを?」

「ええ、至急運んで欲しいものがあります」


         ☆


 四谷よつや三丁目交差点の検問を警備する警察官の一人は、さっきまで背後にいたはずの機動隊の部隊がいつの間にか撤収してしまったのに気づいて、急に心細くなった。もっともこの場所での彼の仕事といえば、封鎖した道路をきちんと封鎖し続けることと、たまに必要あって侵入しようとしてくる車を検問所に誘導することのみであって、明治公園あたりの封鎖点と違い、デモ隊が集まるような空間もない。あと数時間、夕刻の交代時刻まで立ち続けていれば、何事もなく宿に帰れるはずだった。彼は岐阜ぎふ県警からの応援組だったのである。


 案ずるより生むがなんとやらだな、と彼は思った。ことによると『ブラック・クリスマス』みたいに、銃器で武装した一団に襲われるかもしれないと思っていたのだ。どう考えてもそんなことは起こりそうになかった。ひょっとしたらテレビで見た暴動の映像も、少しばかり派手に見えるよう演出されていたんじゃないだろうか。


 だから、目の前の赤信号で停まっている大型トレーラーのフロントグリルに、不自然に鉄板が取り付けられていることにも、さほど警戒感を抱かなかった。

 信号が青に変わり、右か左に曲がるはずのトレーラーがスピードを上げながら真っ直ぐ自分に向かってくるまでは。

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