アフターストーリー
アフターストーリー
「満開の 桜並木を さくさくと」
からからとキャリーバッグを転がしながら歩く。四年ぶりの地元の景色は、少しだけ寂れていた。あったはずの商店がなくなっていたり、公衆電話が消えていたり・・・・・・。ただ桜並木だけは、たわわなピンクを湛えている。
肺が温かくなり始めた甘い空気に触れて解けていくような感覚だ。重たい荷物のせいで背中に汗をかくからだろうか。体の中からじわじわと浸食されるような熱は北海道にはなかった。
「ただいま」
家の中に声をかけても、誰も返事はしてくれない。そもそも返事ができるのなら、飛行場まで迎えが来る。両親は相変わらず神社に魅了されている。きっと自分もそうなるのだろう、と。
荷物を玄関に置いたまま、智登世は石段に向かった。四年ぶりなのだから真っ正面から昇ってみたくなったのだ。額にまで汗が滲んだ。
澄みきった空気が熱くなった肺を冷ますと同時に、鎮守の杜に囲まれた青いシートが姿を現した。ちょうど社は改装中なのだ。休憩中なのか静かで、人の気配もない。
「帰ってきたよ、タカツ」
声は返ってこない。もしかしたら見えるように、再びなったかもしれないと思ったが、そういうわけでもないらしい。智登世は仕方ないとため息をついた。
「よ」
不意に背中を叩かれた。見ればすぐ後ろに務が立っていた。頭に手ぬぐいを巻いて、動きやすそうな作業着を着ている。最後にあったときより、一回り大きくなったようにも見える。務は二年前から宮大工に弟子入りしていた。
「姿を見るのは久しぶりだな」
「そうだね。久しぶり」
とはいえチャットなどで頻繁に連絡は取り合っていた。あまり久しぶりという気はしないのが実感だった。
「休憩?」
「いや、今日は終わり」
もう務は、神様元気? とは聞いてくれない。聞かれても困るのだが、少しばかり物足りないような気もする。それを見抜いたか、口角をにゅっとあげて務は悪戯に笑う。
「あとで飲みに行こうぜ」
「いいね」
まだ片付けが残っているらしく、務は資材のある方へ向かっていった。智登世も社務所に顔を出すために反対側へ向かう。
(こんな風に、またタカツとも交錯する日が・・・・・・くるわけないか)
小さなため息が、風に乗って空に舞った。
宵の口。小さな町だ、飲み屋と言っても二、三軒しかない。その一角だけがこの町の喧噪を一手に引き受けているようだった。
民家を改装して作った居酒屋は来て早々、すぐに人で埋まった。がやがやとした空間はあまり得意ではない智登世だが、ススキノの歓楽街を思えば、まだ可愛いものだった。
テーブル席は全部で三つ。一番奥を陣取ると、さっそく務は焼酎を頼んでいた。智登世もとりあえず生でなんて言うと心底驚かれたが、それを無視する。
「酒を飲みながら話すときが来るとは・・・・・・」
「大人になった気がするのはこんな時ばかりだな」
在学中はバイトもしていたが、二十歳を過ぎても大人になったという感覚はあまりなかった。今も親の跡を継ぐので会社に就職した連中よりは、子どものような気がしていた。
テーブルに酒が届くと、縁と縁を合わせた。こつんと甲高い音に合わせて乾杯、と言う。ほぼ同時にテーブルにやってきた冷や奴をつまみに、ビールを飲み下す。居酒屋のビールは総じてうまい。智登世がビールを飲めるようになったのも、居酒屋のおかげだった。
「神様、見えるようにはならなかったんだな」
「・・・・・・うん。まぁあまり期待はしてなかったけど」
あの日、あのとき、タカツの言葉を受け止めることができていたら。いやそもそも、寂しいという気持ちを抑え込んでいれば。それか
待ってくれという言葉に待つことができていれば。見えなくなることはなかったのかもしれない。
そんな後悔がずっとつきまとってくる。綺麗に片付けられた部屋の中にぽつりと開いた隙間のように、かみ合わない感情がじくじくと心を苛む。まだ智登世は寂しいと確かに感じていた。
務との会話は久しぶりなことではないので、途切れがちだった。しょっちゅう通話などしていれば、改めて話すこともないのだ。
「しっかし、次に智登世に会えるのはいつになるかな」
宮大工として全国を飛び回っているので、次は兵庫の神社に行くらしいと聞いている。さすがに四年も離れていれば今更寂しいという感覚もないし、いつかまた会えるとわかっている。智登世は残り少なくなっていたビールを飲み下すと、小さく笑う。
「まぁいつかは会えるよ、また」
四年前は務と道を違えることすら不安な気持ちがあったのだが、今では違う道を歩くことが当たり前になっている。
「たくましくなったな」
「四年も北海道行ってればな」
騒がしい店内に静かなため息が二つ漏れる。
(きっとどこかで会えるとわかっていれば・・・・・・)
離れは出て行ったときと変わらない。掃除はしてくれていたのだろうが、大きく配置が変わっていることはない。
酔い覚ましに窓を開けて外を眺めていると、一匹のタヌキがのそのそと山からやってきた。まだ冬毛のままでふくふくと丸い。三太は両親の寝床に近づくと体を横たえた。月の綺麗な夜だ。春霞の月はいつもより大きく見える。三太はその月をじっと見ていた。
月が綺麗ですね、とは昔の文豪の愛しているの翻訳だとか。今では通念的に月が綺麗ですね=愛しているになっているが、本来ならただ月が綺麗なだけだ。
「きれいだと 朧月夜に 言ってみる」
今更通じることなどないのだろう。この句もまた、月が綺麗だと言っているだけ。相手のいない言葉に今日何度目かのため息が出た。
だいぶ体が冷えてきた頃、不意に、部屋の中でかさりと音がした。虫でも出たかと思って振り返ると、ローテーブルの上に一枚のメモが置いてあった。見覚えはなく、さっきまでなかったように思う。
すぐに四年前のあの日を思い出す。あの手紙は今でも持っているし、荷物として送ったのではなく、キャリーバッグの中に入れて戻ってきた。
智登世は急いでそのメモの元へ四つん這いで近寄った。メモ用紙には桜の花びらが添えてある。薄ピンク色の花弁はふわっと風に舞うと、窓の外へ飛んでいった。風など吹いていないというのに。
『さくらまじ ともに帰らん おもいびと』
筆で書かれた達筆な文字は、確かに神様のものだ。
『春の夜に 思いふけるは 甘き君』
じわじわと耳まで熱がこみ上げてくる。ついつい甘い唇を思い出す。神様と初めてキスをしたとき、苺の飴の味がした。それをタカツも覚えていると思うと、羞恥がこみ上げてくる。
さらに何か伝えたいのか、目の前に次のメモが降ってきた。
『会いたい』
ぐっとこめかみに力を入れる。唇を惹き結んだが、酔いのせいかぼろりと瞳から落ちるものがあった。
「俺も、・・・・・・会いたい」
そうして伝えるのだ。月が綺麗だとか、そんな言葉を。
数年後
朝寝坊をした朝は、なんとなく気だるい。今日は休みの日だった。三人体制になっても、両親は相変わらず休みなく社に出向いたが、智登世は、しっかりと休日を取っていた。本来ならバイトも雇って、親も休むべきだが、神社が大好きな二人は何かないと休まない。
そうはいっても智登世も用はない。そうなるとどうせ社務所にこもるしかないのだ。仕方なく支度を調えて玄関を出た。
緑がどこまでも続く。五月の風が気持ちよく、大きく伸びをして肺にとり込む。もう三十になるが、それを皮切りに宮司を父親と交代することになっている。
六十近い父親は納得を無理矢理していたが、周囲からの説得で後継者の智登世により多くの経験をさせることになった。とはいえ、どうせ宮司を辞めても、父親は社に来るだろう。信仰心が、というよりは本当に社に魅了されている。
すがすがしい緑の中に一歩踏み出す。その瞬間、むせっかえる青葉の空気に思わず後ずさりをした。まるで大量の緑が押し寄せてきて、自分まで植物になったような感覚だった。そのまま光合成しそうな・・・・・・。
不思議な感覚に戸惑いを隠せずに、もう一歩後ろにさがると、不意に何かに当たった。しっかりとしたマットのようでもあり、いやだがそれは人のようでもある。世界が変わったような気がした。外していた眼鏡をかけ直したような、感覚だ。
顔を上に向けると、青いものが目に入った。白い肌に赤みが差している。驚いた表情で見下ろすその瞳には、どうして、とありありと書かれていた。どうしても、何も、それを知りたいのは智登世の方である。
なぜいきなり見える力が戻ってきたのか知らないが、冷たい手が頬をなぞる感触が懐かしい。
「見えているのか?」
「・・・・・・聞こえても、いるよ」
目の中に水膜が張るのを感じた。タカツの目の中もきらきらと輝いていて、うまく笑えていない。不細工に口角を上げるので、智登世もつられて笑った。
「キスしていいか?」
よいとも悪いとも言う前に、体の向きをくるりと反転させられる。
「会いたかった」
「俺も、会いたかった」
「こんなにも苦しいのか。今までの切なさがすべて俺の元に凝縮されているような気分だ」
「タカツ」
「もっと俺の名前を俺に向かって呼んでくれ、智登世」
もう一度名前を呼ぶ前に、タカツの唇で口を塞がれた。冷たい唇だが、やはり甘い。人工的な苺の味がする。
夏の川 思う場所から 溢れるか
おわり
水神様の社 いちみ @touhu-003
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