第9話 晩夏の候

九.晩夏の候

 蝉鳴き暮れる夏、七月後半。

 離れの室外機がごんごんと大きな音を立てて止まった。それにともないエアコン使えなくなり、部屋はあっという間に灼熱の地獄と化した。一時的に客間に居をかまえることになったのだが、そこもエアコンの調子が悪いらしく、効きが悪い。

 ため息交じりに外を見れば空ばかり青くて、日陰は濃く、わずかに吹いた風が風鈴を鳴らした。白い入道雲が空高く立ち上り、とても夏らしい日だ。からんと麦茶の入ったガラスコップの氷が音を立てたような気がするが、気のせいかも知れない。




 金髪のヤンキーはいつかと同じように、石段に座る智登世の隣に腰を下ろした。今日は目元と耳は隠せているようだが、立派なしっぽが存在感を示している。

 時分は夕暮れ時。五時半を迎えようとしているが、まだ外は明るい。受験の鬱憤を晴らすために涼しくならない風に吹かれようと出てきたのだが、吹かれたとして何か変わるわけでもなかった。暗い気持ちに引きずられるようにして、あの黒い者も階段の下に見える。

「けっこうな大物を連れているな」

「あれが見えるの?」

 まぁな、と三太は言う。

「人は大なり小なりあいつを持っている。普通は見えないんだけどな」

 からかうように、怖いか、と聞かれ、智登世は首を横に振る。気味は悪いが怖くはない。

「最も端的に言えば、あれは自分自身だ。不安や悲しみなどが集積したものだ」

「どうにかならないの?」

「気持ちを消すしかない。だけどそんなことできるわけがないからどうにもできない。なるべく小さくすることはできるが、自分次第だな」

 階段の下にあのときと同じようにタカツが姿を現した。ちょうど黒い者と並び、途端にそれは崩れ去るようにして姿を消した。

「不安をはき出すのも、一つの手だと、俺は思う。タカツは受け入れてくれるぞ」

 にやりと笑った三太はそのまま立ち上がると、社の奥へ向かった。どこまで知っているのかドギマギしていると、いつの間にかタカツが目の前にいた。大きな手のひらが伸びてきて、額の汗をぬぐっていく。

「大丈夫?」

「・・・・・・タカツは今も、俺が遠くへ行っても寂しくない?」

 眉がしらにしわが寄った。唇は引き締められ、何かを耐えるような視線だ。先ほどまで三太がいた場所に、タカツは座る。

「行くなと言えば、行かないでくれるか?」

 今からでも志望校を変えることはできる。北海道でなくても別にかまわないのだ。ただ、少しの反抗心でつい北海道になってしまっただけで。

「ずっと俺の傍にいてくれと言えば、いてくれるか?」

 切に迫った問いかけに、頷くことは簡単だ。だが、それができないのは、ずっと一緒にはいられないことを知っているからだ。この町には大学はない。このまま高卒で神社で働くこともできないわけではないが、大学に行きたいという気持ちはごまかせない。

「智登世が頷かないのと同じくらい、俺も言えないことはある。寂しいと言ったって、せんのないことだよ」

「・・・・・・わかった」

 寂しいと言わせたところで、留まるわけではないのだ。だが、寂しいと言ってほしかったのも事実だ。頑として言わないつもりのタカツと視線を合わせることができず、智登世はうつむく。

「か、帰ろ」

「智登世、俺は」

 タカツの言葉を遮るように、階段を足早に下っていく。待ってくれと、言われたような気がするが、智登世はそれを振り切る。じわりと視界が歪む。自分勝手で幼稚な要求だとわかってはいるが、受験の不安感をぬぐいたかった、それだけだった。

(俺は、寂しい)

 

 家の玄関でおかえりと迎えてくれたのは、黒い者だった。




 タカツが姿を現さなくなって、二日が過ぎた。エアコンの効きの悪い客間で、やる気もなくごろりと畳に背中をつける。どうやら社で過ごしているらしい。喧嘩と言えるのかわからないが、見えるようになってからは初めてのことで、戸惑う。いや、何をして良いかわからないというのが正しいか。

 へそを曲げているのはどちらだろうか、いや、どちらもかもしれない。智登世はさめざめとため息をついた。かたん、と音がした方を見ても、何もない。

 そういえば、と智登世は思い至る。最近黒い者も見ないのだ。心に残る不安も、悲しみも、寂しさも、怒りも、まだ小さくなったわけではないのだが。三太の言うことが正しければ、いるはずで見えるはずなのだが。

 からんと、麦茶の氷が溶けていく。支え合っていた氷が液体の中で動いて、形を変えていく。まるで、自分たちの関係のようだ、と智登世は思った。

 不意にこつこつ、と窓が鳴った。縁側を見やれば、そこには務がいたのだが、どこかいつもと違う。何が違うのか、わからない。なけなしの冷気を逃したくなくて、玄関を指さした。

 玄関に来た務は確かに違和感がある。その正体を知るためにじっと姿を見てみたが、喉に小骨が引っかかったような違和感しかない。

「今日も勉強しに来たんだけど、いい?」

「彼女とデートは?」

 楽しみだ、とはしゃいでいたのを思い出す。

「別れた」

 可哀想に、と思った瞬間、何かが頭の中ではじけたような感覚がした。智登世は務の周囲を注意深く観察をするも、何も見えない。

 智登世にとってそれが問題だった。いつもいる大型の狼のような犬、つまり務の守護神がいない。

「務、最近危ないことあった?」

「いや? ないと思うけど」

 ということは、守護神はいなくなったわけではないのだろう。昔から女の子に振られることはあっても、怪我や病気にはなりにくい質だ。質というか、護ってもらっているのだ。

 見えなくなった黒い者と務の守護神。では、タカツは?

 智登世は務を押しのけて玄関を飛び出した。靴も履かずに裸足のまま、砂利の上を走る。足が痛いなどと言ってはいられなかった。足がもつれそうになるのを堪えて、石段をのぼりはじめる。すぐにスピードは落ちるのだが、心だけははやる。後ろから務が追いかけてきているのがわかるが、立ち止まって待つことはしない。

 一番上まで来ると、神社の清らかな風が吹き抜けていく。参拝者は暑いからかいない。社務所には両親がいるだろう。

「智登世、どうしたんだよ」

 下からの務の問いには答えないで、智登世は社をじっと見つめた。いつもなら、智登世がやってくると姿を現すタカツがいない。いや、いるのだろう。神社が清心に保たれてるということはそういうことだ。

 見えていない。

 隣に並んだ務が足下に靴を置いてくれる。

「神様に会いに来たの? 元気?」

 元気なのだろうか、智登世にはもうわからない。

(あぁ、神様・・・・・・)

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