第10話 イヤホン

十.イヤホン

 まるでボールが階段を転がっていくように、季節は過ぎる。スローリーだった景色はまるで電車の車窓から眺めているように急激に速くなる。だから夏の蝉時雨も、秋の紅葉した山も、とても味気ない。それでも進む季節に沿って確実に自分も歩む。




 タカツが見えていた頃は、イヤホンなどつけたことがなかった。話しかけてくる神様を無視できない、というのは建前で、ただ神様の声を聞きたかっただけだった。

 今はただ雑念を振り払うようにイヤホンを耳にはめている。何も音楽はかかっていない。休憩のたびにジャズミュージックを流しているのでスマホには繋いであるが。

 正月。世間は年の変わりに浮かれているような時分だ。昨年は神社の手伝いをしたが、今年は受験勉強だ。務はすでに専門学校を受験して受かっている。最近では気を遣ってか、あまり会おうとは言われない。先に受かっているからと妬ましく思うような心はしていないが、そうはいっても、務が気を遣ってしまうのだろうと、予想はつく。

 冬休みが終わればそのまま自由登校となるので、ますます会うことはないかも知れない。務ともとうとう離れてしまうのだ。こんなことなら北海道に行くなどと言わなければ良かった、と思う。もともと北海道でなければならない理由はなかった。だから無難に近場の大学に進み、無難にこの町に戻ってくれば、誰とも離れずに済んだかも知れない。

 そんな幻想を抱くくらいには、寂しさが心の中を逼迫している。


 不意にスマホが鳴動した。みるとチャットに、務から着信があったようだ。

『来た』

 たったそれだけの言葉だったが、じわっと目頭が熱くなり、こめかみが痛むのを感じた。急いで離れから出て母屋の玄関に向かうと、そこに務が小さな犬を連れて立っていた。人懐こそうに見上げてくる黒い目が、ぱちりと瞬く。

「あけましておめでとう」

「おめでとう・・・・・・、どうしたの? このこ」

 務はわずかにはにかんだ。務の背はすでに百八十近くまで伸びてしまっている。智登世は百七十にも満たないのでだいぶ上を向かなといけないのだが、笑顔は前と変わらない。そのことにほっとした。

「近所の人の家で生まれたんだ。俺んち昔飼ってたからさ、子犬をもらってくれって」

「名前は?」

「ポン酢」

 智登世は思わず笑ってしまう。しゃがんで触れるために手のひらを見せると、ポン酢はすぐにお手をした。はやくもしつけられているらしい。

「お前は偉いなぁ。何もないけど」

「じゃ、俺らはこれで帰るわ」

 子犬を連れてきている時点で、きっとすぐに帰ってしまうのだとわかっていた。だがそれが何だか寂しくて、引き留めてしまいそうになる。待って、という言葉はかろうじて出なかったが、務がドアを閉めようとした瞬間、それまで静かだった子犬が何かに怯えるように鳴いた。

 車でも通ったのかと思ったが表は静かだ。務は不思議な顔をしながら手を振ってドアを閉めた。

「・・・・・・タカツ?」

 いるのだろうか、だが、何も見えないのだ。さきほどよりも目頭が熱くなる。噛みしめた奥歯が痛いほどだ。それでも堪えきれなかったものが、頬をぬらした。

「俺は、おれは・・・・・・」

 それ以上は言葉にならなかった。

(会いたい)




 季節は速く過ぎていく。冬だと思っていたら暦の上ではすでに春が訪れた。

 花粉症のためにティッシュが手放せなくなった。受験の年にならなくても、と思う。

 今まで神頼み、ということをあまりしたことがなかった。神様は身近なもので、決して雲の上のものではなかったから、お祈りなどしたことがなかった。今もする気はない。両親に合格祈願でもしとけと言われたので、社の前に立っている。キャリーバッグを脇に置いて手を合わせる。

 何も考えず、ただ目をつぶって祈っている振りをする。

 目を開けても目の前にタカツはいない。青い神様は、ただの人になった智登世には見えない。奥歯を噛みしめて、こめかみをぐりぐりと両手の拳で押しつぶす。

 そろそろ車が出る時間だ。務が飛行場まで連れて行ってくれることになっている。彼は自由登校の間にすでに自動車免許をとっていた。智登世が体の向きを変えたところに、ふわりと、白いものが落ちてきた。それは封筒だった。慌てて手を伸ばすと、重さを感じさせないそれは手の中におさまる。

 周囲を見回しても誰もいない。宛名はないし、筆跡にも見覚えはない。恐る恐る中を覗けば、一枚の紙が入っていた。

『ゆく君を 梅東風ともに 連れ去りたい』

 思わず息をのむ。すっかり感じることのなかった四季の、色や匂いが押し寄せる。

「なんで今なんだよ・・・・・・」

 破り捨ててしまいたくなったその白い紙を、しかし思いとどまって力なくその場に膝をつく。

「春疾風 見えないあなた におう花」

 春の強い風が吹き込んで、匂い立つ花の香りを思い出した。まだ枯れ山の上には春めいた空が広がり、ぼんやりと遠くがかすんでいる。(神様に恋をして、どうか神様、なんて、そりゃないよ)



終わり

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