第8話 夏の前の静けさ

八.夏の前の静けさ

「カーテンの 隙間から見る 梅雨の山」

「邪魔だとつゆも 思えないのか」

 下句を読むとそそくさと神様はカーテンの前から退けた。居間の窓を開けると、鈍い光が差し込む。曇天で今にも雨が降りそうだ。順調にやってきた梅雨は、昨日までなかなか止まない長雨をもたらしていた。山は一層緑を濃くし、本格的な夏場を迎える準備を始めているようだ。

「入梅の 空うつす田の 青い苗」

 居間からは隣の家の青田が見える。春にはアカツメクサが咲き乱れていたのだが、耕耘機で耕されてしまった。




 数日は見えなくなっていた黒い者が再び現れるようになったことを、まだタカツに言うことができないでいた。罪悪感のようなものを抱きつつも、智登世は毎日その黒い者と対峙する。話すことも、触れることもない。黒い者はいるだけなのだ。




 気づけば外は雨が降っていた。昼間だというのにカーテンを開けていても暗い室内には電灯がついている。その下で、智登世と務は向かい合って勉強をしていた。宮大工になるという夢があるからだろうか、最近務はことあるごとに勉強会を開く。そういうとき、彼は遊ぶことはない。

 とはいえ、集中力の切れ目はある。用意していた紅茶を飲み下し、い草のラグの上に思いっきり大の字になると、自然とため息が出た。智登世にとって勉強は苦ではないが、あまり集中力は続かない。もって一時間。そんなことなので、受験は不安しかない。

「神様はいる?」

「いない」

 途端に務が伸びをする声が聞こえてきた。彼もまた疲れてしまったのだとわかる。静かな部屋にカエルの鳴き声が響き、それが静かだという事実に拍車をかけるようだった。

 逆さの窓の外に黒い者が見えたが、雨に当たっても動く気配はない。寒そう、冷たそう、可哀想。そんなことを思っても、黒い者は動じない。人の思いは伝播するから、あまり可哀想などと思ってはいけないよ、と誰に言われたか。

「智登世さ、見えてんだろ」

「何を?」

 智登世ははぐらかす。タカツの力を持ってもしても、見えてしまうなど、恐ろしくて認めたくはない。だが、その黒い者自体には恐怖心は抱かないのだ。もうそっとしとけば、そのうち飽きてしまうのではとさえ思う。

(そんなことはないのだろうけど)

 その割には確信している。もっと智登世に近い者なのだろう。伝えたいことがあるのか。とにかく危害を加えようという意思だけは感じられない。

「なんか元気ないしさ」

「そう? いつも通りだと思うけど」

「神様と何かあった?」

 何かと言えば、あった。にわかにキスの感触を思い出して、頬が火照る。神様との関係に恋人などと名前をつけるわけにもいかないだろうし、明確に好きだ惚れたなどと言われたわけでも言ったわけでもない。

(もしかしたらタカツは加護を与えるためだけにしているのかもしれないし)

「何もないよ」

 そう言って、わずかに悲しい気持ちになった。何もないのが悲しいのか、それとも何かあると言えないのが悲しいのか、よくわからないでいると、机の向こうから大きなため息が聞こえてきた。

「隠さなくてもいいのに」

 足で足を蹴られる。ごめん、と心の中で呟いて、智登世は蹴り返した。




 窓の外の黒い者は雨に溶けるようにいつの間にかいなくなっていた。




 タカツとどうにかなりたいわけじゃない、と言い訳する自分と、ずっとタカツの傍にいられたら、と願う自分がいることを智登世は自覚している。

 だが自覚すればどうにかできる感情ではない。恋心を認めれば認めるほどつらくなり、否定すればするほど傷つく。そのたび黒い者は大きく存在を増しているようだった。まるで自分の感情とリンクしているような。

 はやく大学に受かってしまいたかった。そこで知り合った女性と、将来幸せな家庭を築いて、可愛い子どもを産んでもらって・・・・・・。

(そこにタカツはいるのだろうか)

 そして思考はタカツへと戻る。目を瞑っても眠れない夜は、いつも不安と焦燥でいっぱいになる。智登世は抱きついてくるタカツの胸に顔を埋めてその体温のほとんど感じられない体を冷たいと感じるのだった。

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