第7話 黒い者
七.黒い者
高校三年生にあがって、すぐに全国模試が行われた。
教室から見る外は早くも夏の様相を呈している。生物室は日当たりが悪いので比較的涼しいが、それでもじんわりと汗をかく。蝉でも鳴きそうだが、まだ虫の声は控えめだ。
まだ四月後半だ。今年の夏も暑いのだそう。それだけですべてのやる気が吹き飛びそうだ。智登世は虫かごの中の土を眺めた。そこには昨年まで飼っていたカブトムシが残した子孫がいる。つまり幼虫が埋まっているのだ。
生物室の一角を借りて飼っているのだが、三年生になり後輩もいない生物部なので、引き取り手を探している。今のところ、近くの小学校の生物係に譲ろうという案が出ている。
「落ち込むなよ」
務が呆れたようにため息をついた。先からなんど別れを惜しんでも、名残惜しいのだ。
「加奈子・・・・・・」
「オスだけどな」
冬を越した大きな角を持つカブトムシだ。このカブトムシは虫好きの少年が預かってくれることになっている。
「そういえば、模試だったんだって?」
「そうだな」
専門組の務は模試を受けていない。模試があったことすら知らなかったと見える。結果、判定はBでさい先は良かった。一年頑張れば受かるだろう、という見立ては誰でもできた。
「でも、判定がAでもBでも結局落ちたら意味ないんだよな」
中高一貫校の高校なので、受験をしたことがない。保育園も、小学校も、中学校も当たり前のように受かってきたのだ(小中に関してはどうやって入ったのかもわからない)。そんなだから、智登世の胸の中には不安しかなかった。
それを務もわかるのか、大丈夫、だと無責任なことは言わない。それはとてもありがたいし、普段通りの務が智登世を平静にさせていた。
いつまでもカブトムシを見つめ続けてもしょうがない。智登世は視線をあげた。目の前のガラス窓に、人影が映る。それは務であるべきだった。
(え?)
見た瞬間ぎょっとする。それは黒塗りの人の姿をした何かだった。何かをしてくるわけではない。ただそこにいる。ちょうど生物室の出入り口付近だった。
勢いよくふりかえると、しかしそこには何もない。もう一度窓を見たが、すでにそこにいたものはどこにもいなくなっていた。
「どうかしたか?」
務の守護神であるハスキー犬も何も反応がない。
「・・・・・・いや」
「何か見えたか?」
あまりに一瞬のことで、自信がない。ただの見間違えという可能性も多いにあった。
「ちょっと、疲れてんのかも」
務は深い追いはしてこなかった。本当に疲れていると思ったのかも知れない。智登世も疲れているのだと思った。
二月の花見以降、タカツのスキンシップは良くも悪くも、度を増した。もともとほとんどなかった接触なので、ひどく見えているだけかも知れないが。社の目の前であごを指で持ち上げられたときは智登世もさすがに驚いた。
加護とは神との接触によって生まれる契約らしいので、日々口づけを交わしているタカツと智登世の間には、すでに契約が結ばれているはずだ。容易には解けず、北海道だろうが海外だろうが薄まることはないという、のだが、黒い人影が目の端に映る。
離れの窓から覗いていた。今まで家や社に異形の者は現れることがなかっただけに(三太はタカツに許されている)、驚きと気持ち悪さ。基本的に神様の力で近づくことはできないはずだ。
今もじっとこちらを見てくる黒煙のような人影は、しばらくすると消えてしまう。タイミングはまちまちで、すぐ消えるときもあれば一時間くらい様子を見てくるときもある。
「お前、名前は?」
知らない人に不用意に話しかけてはいけないように、知らない何かにも話しかけてはいけない。話しかけることによって、パーソナルスペースに呼ぶことがあるからだ。だが、智登世は話しかけた。
怖くないからだ。気味の悪さはあるのだが、なぜか恐怖はない。
しかし、人影は何は言葉を発しない。待てどもそこに佇むだけだ。そして消えていく。風に梳かされるように。
すぐに窓際に寄っても、そこに何かいたという痕跡はなかった。
「最近変なこと、起こってない?」
背中に張り付くタカツに、智登世は思い切って聞いてみた。今日は歓迎会だが何かで、両親は留守にしている。台所に立ってカップ麺を用意しているのだが、猫が甘えるようにタカツはまとわりつく。
「んー、平和そのものだよ」
鬱陶しいとは何度も嫌がったが、たいした抵抗ができていない。結局智登世もタカツを受け入れているのだ。恋や愛などと言うには少しばかり照れてしまうのだが、五分を待つ間のこの背中の体温は存外悪いものではなかった。
「何かあったのか?」
タカツのセンサーにも反応しない異形の者などいるのだろうか。智登世は不思議に思う。
「・・・・・・黒い影が、たまに見える」
「今は?」
「今はいない」
タカツは智登世を反転させて、おでことおでこを付き合わせた。
「舌を出して」
「え?」
「絶対に消えないところに印をするだけ」
智登世がおずおずと舌を出すと、タカツは口の中に人差し指を突っ込んできた。上あごの部分をこすられくすぐったいが、口を閉じることができないので、端からよだれが垂れていく。いくらそうしていただろうか。本当は数十秒のことだったかもしれないが、智登世にとっては数分にも感じられた。
「印は俺の意思がないと絶対に解けない。たぶん、もう見えないし近寄れない」
口の中から指を退けると、タカツは興奮しているのか頬が上気していた。智登世がその表情をまじまじと見ていると、恥ずかしくなったのか、視線がそらされる。
「所詮、人の体が元になっているんだ」
ぼそっと呟いた言い訳のあとにだめ押しとばかりに口づけが落ちてきた。智登世はいつもそれを受け止めるだけだ。どうしたらよいかなんてわからないのだから、タカツの服の袖を掴むしかない。
カップ麺の五分はあっという間にすぎていた。
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