第6話 梅

六.梅

 家の庭木に梅の花が灯る季節になった。苔むした石や松が雑多にも見える庭には祖父の趣味で梅の花が六本ほどが植わっている。離れの窓からはその梅がよく見えるので、控えめに咲いた白い花びらを眺めるのがここ最近の智登世の楽しみであった。気候が安定しているおかげで、散る速度もゆっくりだ。




「盃に 朧月夜の 梅の香よ」

 離れに酒を持ち込んだ神様は、ほろ酔い加減でそのように一句。文才があるわけではないので、智登世には歌の善し悪しはわからないが、言いたいことはわかる。そういうときだけ酒が飲めないことがなんとはなしに、悔しい。

 寒がりのくせに、酒のせいか窓は開けっ放しだ。うっとりと赤い盃片手に梅を愛でる姿は時代を超越しているようだが、近くの遠赤外線ヒーターがやはり現代だと。

「梅の香と 身を切る風と タカツかな」

「・・・・・・寒かった?」

「現在進行形で」

 課題が手に着かないので、シャーペンを置いてタカツのそばに膝でにじり寄る。ベッドから毛布を引きずり下ろして身にまとうと、一緒になって窓枠から見える梅と朧月を眺めた。すっかり春めいてきた、と言いたいが気が緩んだ頃に雪が降る。三寒四温というよりは、五寒二温の一週間だ。

「北海道に行くと聞いた」

 両親が話しているのを聞いたのかも知れない。なんとなくタカツには志望大学のことを言っていなかった。

「カニ、ウニ、イクラにシャケ」

「送らないよ」

 まるで磁石が吸い寄せられるように、視線が合う。黄色い瞳が優しく智登世を見ていた。盃を傍らに置いて、その手が伸ばされる。ほら、というように揺らされたので、思わず毛布の割れ目から手を出す。ゆっくりと触れると、いつもより体温を感じられた。ひどく低い体温ではあるが、一応温度はあるようだ。

 手のひら同士をくっつけると、わずかにタカツの方が大きいことがわかる。

「こうして触れることも叶わなくなるのか」

 タカツがじりじりと寄ってきた。

「智登世と抱きあって眠るのが好きだったんだがな」

 毛布ごと抱きしめられて、ようやくタカツが酔っているのだと気づく。人好きの神様だが、接触は控えめなのだ。智登世の額に、タカツの額がこつりと当たる。

「元気でな」

「・・・・・・あのさぁ、まだあと一年以上あるんだけど」

 それにまだ合格もしていない、と智登世はタカツの頬を緩くつまんだ。タカツは面白かったのかクツクツと、笑う。一通り笑い終わったら、小さく息を漏らした。

 それが合図だったのか、そのまま押し倒されるように、後ろへ寝転ぶ。智登世の初キスはまだだ。おそらく両親にも祖父母にもされたことはないはずだ。神様と初めてキスをするのか、いいのだろうか。疑問よりも先に好奇心が勝って、どんどん近づく唇にそっと目を閉じる。

 触れそうなほど近づき、吐息が唇を撫でた瞬間、がたんと大きな音がした。タカツも驚いたのか、飛び上がると、そのまま足下を見て大きくため息をついた。

 見れば酒瓶が倒れ、酒がこぼれていた。残り少なかったとはいえ、じわじわと畳を浸食していく。

 それと同時にこみ上げてくるものがあった。羞恥心というやつだ。智登世は、毛布に頭までくるまって、タカツの問いかけも無視した。




 狸が庭を徘徊している。冬毛に包まれてふくふくと丸くなった狸だ。山里では珍しくない生き物だが、智登世が見るのは初めてのことだった。割合可愛い。

 母屋の軒下に体を横たえると、ひとつあくびをした。花見でもしているのだろうか。視線は梅の木に向かっているように見える。

「狸が花見をしているよ」

 智登世の上から窓の外を見たタカツは小さく口角をあげて笑った。

「三太か」

「・・・・・・あれが?」

「おや、知り合い?」

 知り合いと言うほどでもないが、話したことはある。異形の者ではあったが、まさか狸だったとは。智登世はごろんと腹を天に向けた三太を眺めた。野生のやの字も感じられないほど、油断している。

「三太は夢狸と言ってな。人の夢を主食にしている化け狸だ。夢と言っても寝ているときに見る夢だぞ」

 そういえば、三太が寝転がっている場所は、両親の寝室のあたりだ。ちょうど食べているのかも知れない。

「なんで普通に見えてるんだろ」

 ここ最近はタカツと務の守護神の影響でほとんど見えていなかった。見えても人魂くらいで、ほとんど害がないものばかり。ということはあの狸は害がないのか。智登世は年の瀬のことを思い出す。死にそうだと心配して出てきた三太は、確かに害はなさそうだった。

「あれは俺の話し相手だしな」

 狸が話し相手だと、言っていたような。タカツ曰く、狐ほど気性は荒くないし、話し上手で、そして少し間抜けなところが良いところらしい。務も、浅い側溝にはまって出られなくなった(と思い込んでいる)狸を見たことがあると言っていた。耳と目元の模様を隠せずに現れたことも追加すると、確かにおっちょこちょい、と言うべきか間抜けと言うべきか。

 智登世が狸から視線を外してタカツを見やると、電流が走ったように、目が合う。本当に電流が走ったのかもしれない。火がついたように頬が熱くなる。


「顔が赤いぞ」

 神様は意地悪にそう言う。ここ二、三日まともに目を合わせることができなかったのだ。

「そんな顔をべつの人の前でしてはいけないぞ」

 初めてのキスは、少し甘い味がした。

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