第14話 理屈


 好意で迎えはした。それに罪と罰についても、決着はついた。最後にもう一つ真にはやらなければならないことがあった。

 ベッドから降りて正座をした。これから三日の靴でも舐めるかのように深く頭を下げる。


「言葉の綾だ。真に受けるな」


 三日は先ほどの、来なければよかった、の悪態についてのことかと思ったが、そうではない。


「いいえ。私の戦場での愚行に、中尉は罰をお与えになられました。しかし、それであなたの溜飲が下がるはずもございません。今後はきつく自制し、このようなことのなきよう努めます。申し訳ございませんでした」


 真は激情の人であり、それを理想に押し込むことによって防いでいるのだが、血なまぐさい戦場が理想と理性を忘れさせ、三日の命を奪おうとした。このことを時間が経つにつれ恥じ、そして三日を案じた。


 三日は足を組み、さりげなく真の頭を蹴った。


「愚行とは、私もろとも鬼を撃ち殺そうとしたことか。お前はしらを切ったが」

「白状するほかありません。私の殺意は本物でした。だから、あなたの御名を頂戴することになりました」

「ああ。そのおかげで私もお前の矮小で、チンケで、粗末で、腐った、反吐の出る、軟弱な愛を押しつけられた」


 傷の上の包帯に、そっと靴が触れた。ざらざらと、しかし柔らかく撫で擦り、真は平伏したまま顔を上げることができなかった。屈辱ではなく、こうなって当然と、ひたむきな真摯さによってだった。

 ぐりぐりと包帯を移動する三日の靴。目玉を布越しに爪先でなぞり、上下左右に揺れ、包帯が剥がれかけた。すると彼女は真の髪を無造作に掴んだ。少しおもてを上げさせ、包帯とその下にあるガーゼをもむしり取った。

 真は悲鳴をあげなかった。激痛もそのはずで、傷口は開き、多少出血している。まだ完全にふさがってはいない。

 これに三日は根性と気概をみた。鼻を鳴らし、ここがあの居酒屋であるかのように、傷に唾を吐いた。


「ただ、私にああして愛を与えた者はいない」


 どんなかたちであろうと、いるはずもなかった。戦場で味方同士で潰し合えば必滅であるし、上官を傷つけようとした真の行動は重大な軍規違反だ。それを愛と呼ぶものは彼女以外にいない。


「私たちは互いの命、愛を交わしたわけだ」


 三日は真の鼻先数十センチでそれを言った。

 燃えるような瞳は、しかしおちつきに落ち着いている。真の傷口に触れた赤い前髪は、微動だにせず、割れたそこをくすぐり続ける。鼻孔は匂いを、煙草でもなく血でもなく、三日独特の体臭を拾う。


「中尉は、どうしてあのようなことを」


 戦場での宣言、率直すぎたと真は聞いてからまた俺のどこかが裂け割れるのではないかと、恐れはしないが、覚悟した。それほどに三日は鋭い雰囲気をまとっている。


「あの場で言ったことが全てだ。戦う上での理だ。命を奪う代わりに命を与える。命とは愛であり、愛とは我が名。こういう理屈があってのことだ」


 真には、よくわからない。三日がいうような理屈など聞いたことがない。もしかすると、それは彼女の中だけに存在する、他人が触れることのできない領域にあるのかもしれない。


「その理法でいけば、私は理にかなっていない。私はあなたに、いわば死だけを与えようとした。あれは愛ではありません」

「お前は嘘をついたのか? あの矮小なる弾丸を、愛と呼ばわったではないか」

「嘘ではありません。ですが、私は死を察知し、その最後にと、皮肉を言ったのです」

「人間とは極限にこそ性根を現す。お前の皮肉は、意識の方向が私であるという証明だ。お前の性根には、私がいる。これを鉄の礫に乗せてぶつけた。これを愛と、その告白と呼ばずになんというのだ」


 真はぞっとした。これほど屁理屈を並べ、都合よく解釈をする者がどこにいよう。

 撃たれてなおそれを愛と言いきったその思考回路は、複雑ではなくごく単純なものなのかもしれず、自分の信じるものを信じる、したいことをするという、やはりそれは真の知っている三日の姿であった。


「愛はともかく、告白は飛躍ではないでしょうか」


 真はようやく、鷲掴みから解放された。「正座だ」と厳しく言われ、そうした。


「お前の気持ちはよくわかる。感情の吐露を抜きにしてもだ。大勢の前だ、羞恥がそれを邪魔したのだろう。だが、ここには私たちしかいないのだ」


 誰もいない割には、彼女は上司と部下という壁を取り外さないまま、ここが戦中であるかのごとくに会話をする。だらけてゆるい、あの三日小隊の部屋の彼女の姿ではない。


 真は自分に三日に対しての愛情があるとは思えない。もちろん恩はある。親しみもある。元来感情的な男だし、情に左右されやすい。

 しかし、愛ではない、気がした。そのくせこれが愛だというような気もする。三日の言葉を聞いていて、彼女にどういう思惑があるのかはわからないが、これが愛だと錯覚するのが、どうしようもなく怖かった。


「幾度も戦場には出たが、あれほど初体験が多いことは稀だ。愛を交わすのも、告白も、なるほど人が甘美だと酔いしれるのをいつも笑っていたが、なかなかどうして、煩わしいような痒いような、痛痒とでも言おうか、虫が這うような心地がする」


 三日は笑みをつくらない。それが何より恐ろしい。


「この感情が、お前由来の愛ならば」


 真はもう叫んでこの場を立ち去りたかった。痛痒などではない、上官に愛を説かれ、怪我をおしての正座、話の着地点も見えないままなのだから。ただただ苦しいばかりである。


「次からは我が名より、お前を差し出すほうがいいな」


 初めて笑んだその口元、紡がれたるは狂った妄言、やはり俺のひたいを割った女、さすが三日の勿来だと、真は愛とかなんだとかを忘れ、


「差し出す、さし、あの、もう一度願います」


 と泡を食った。


「父母よりの愛に勝るものはない、ないのだがそれと同列、といっては過言だが、ううむ、まあ、忘れろ」


 勿来の名が彼女にとって命と同列であり、奪う代わりに名を与える。それが三日のロジックなのだが、ここに真の命が加わると、どうも己の名を越して最上位に当てはまるらしい。

 誰のひたいを割ろうが、鬼を蹂躙する武者であろうが、そこは一介の女子らしく、照れもあったろう、忘れろとごまかしはしたが、彼女の方こそが告白をしているのだから。


 それは、あなたは私のもっとも大切な人である、とそう言っているのだから。


「忘れろとおっしゃるなら」

「てめえ! ふざけるんじゃねえ!」


 正拳が真の頬をとらえた。看護婦が様子を見ない程度に音と威力に配慮した、渾身の一撃だった。


「あれだけ啖呵を切っときながら、何を日和っていやがる。私に恥ぃかかせる気か」


 悶える真、わかってはいたが、三日は横暴が過ぎる。数ヶ月の付き合いでは到底理解し得るはずもなかったと、己とはまるで別の生き物だと確信した。

 彼としても見舞いは嬉しかったし、愛とは何かの議論をしなければ、ただ会話を楽しめたとも思う。


「そうかよ、口に出すのも憚れるか、ええ、おい。どうなんだ言ってみやがれ」


 畳み掛けられるといよいよ困ってしまう。真は口の開閉だけで音が出ない。三日は息も荒く、しかし居住まいを正し、彼が落ち着くのを待った。彼女にしてはかなり穏便である。


 二人は戦場で交わされたとある情について語り、確かめ合っている。

 春川真のそれは、一つは憎しみである。邪険に扱われての一瞬の血の沸騰だ。そこから一気に実力差を知り、諦めの境地まで達した。達した先にあったのは尊敬と意地である。敬うから意地を張った。俺でもやれる、認めてくれという子どものような欲求、それを貫かなければ、殺意が嘘になる。愛というのならば、彼は我が身こそを愛おしんだ。己を嘘としないため、反骨だけを頼りにあの戦場を駆けたのだ。


 三日の情とは、愛である。ただその愛とは、彼女のいうところの愛なのだ。それは与えるものであった。両親からそれを受け取って以来、彼女はそれを独自の理法でばら撒き、受け取ることはしなかった。それをこの新米兵士が、真がどうぞと恭しく献上してきたのだ。これは初めての一大事であり、だからこそ三日も思い悩んだ。何しろ体験したことのない暴威の渦ともいうべき何かが胸を焦がすのだから。


 春川真の多数の感情が複合した憎しみは三日の理屈でねじ曲がり、純粋な愛として受け取られた。これがおおよその真実ではある。


「愛というものは複雑で、すぐにお答えできるものではないと思います。それを考える時間をください」


 真の結論は先送りであった。三日を理解するまで、それはいつまでも訪れないかもしれないが、当面は保留にしておきたかった。そして己の内にある暖かな、いや、燃えるような昂りの説明がつくまでは答えなど出せそうにもなかった。


「もう出ているだろう」


 三日は一歩も引かない。


「あの弾丸が愛でないのならば、お前は死ぬしかないんだ。私の愛を受け取ったのだから、死ぬべきなんだ。命を二つも有する者はなく、しかし春川、お前はどうだ。私と自分の、二つも命を持っている。これはおかしい。だから一つ捨てなくてはならん」


 引かないどころか、押してきた。三日哲学の押し付けである。


「捨てろ。いいや、捨ててやる」


 三日の腕が伸び、真の首筋に指が食い込んだ。


「ま、待ってください」


 締め付けられ、か細い声は届かない。三日はより力を込めて血管と気道を潰そうとした。


「あれは愛ではないのだろう」


 聞きようによってはだが、いつもの彼女とは違う声音である。酸素と血流の巡らない真の脳はいつになく冷静であり、


「わかりませんが、今更あれを愛だと言っても、それは単なる命乞いになる。ですから、愛の真偽はともかく、こうされては大人しく死ぬほかありません」


 つぎはぎされた布のように、そっと置くようにして言葉を絞り出した。


「私があなたに愛を告白するとき、それは戦場以外ではありえない」


 瞬時に三日は手を離した。真の命を重んじたのではなく、その続きを急かすようだった。


「あなたを心底殺したいと願ったとき、私は愛を口にします。それで納得していただけませんか」


 三日は顎に手を当てて思案する。心ここに在らずだが、ただ瞳は真だけを見つめていた。


「それは、今を置いて他にないだろう。自分で言うのもなんだがな」


 冗談を言っているのではない。客観的にそう判断した。あなたがそれをいうのか、と真は感情の奔流を抑えることができず、正直な男であるだけに、頷いた。


「その通りです。性は春川、名は真。この真をあなたに捧げます。名とは命、愛、なのでしょう。これよりあなたの命を奪う」


 真の拳が三日の鼻先に突き刺さった。上官に手をあげればそれだけで重罪であり、彼は未遂に終わったがこれが二度目の反逆で、退役だけでは済まない。

 その威力も凄まじい。上体を起こしただけの、肩を痛めた怪我人の放てる速度の拳ではなかった。腰と背筋で打ったそれは、殺すとまではいかないが、気絶くらいはたやすくできるものだ。


 自分の身の上と意地を秤にかけ、それが即座に意地へ傾く気性だからこそ、三日の愛をいただくことになったのだ。

 三日は椅子から転げ落ちた。椅子の足を掴んで鈍器としたが、無駄だった。真はもう鬱憤を晴らすように爛々と目を怪しく光らせ、頭部への鈍痛など歯牙にも掛けていないのだから。

 馬乗りになって拳を叩きつける。しかし一発目から外れて床を打った。崩れた姿勢、突き飛ばされて、互いの位置が入れ替わった。


「殴らせたのも、押し倒されるのも初めてだ」


 ギラギラとしたその目つきは真の比ではない。これが愛を論じた女かと、真は大の字になって、またしても取り返しのつかないことをしたのだと深く悔いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る