第16話 それまでは


「ご心配をおかけしまして、申し訳ありません。春川、ただいま戻りました」


 勢いも荒々しく、真は職場へと戻ってきた。退院してから数時間後の昼のことである。


「賭けは私の勝ち」

「糞ったれ。どうして戻ってきやがる。そのまま辞めちまうか、死んじまえばよかったんだ」


 なんともひどい言い草だが、三日の秘された喜びを甲賀は知っている。


「もう体はいいのか」


 そこには三日小隊だけでなく、生苦と菜ノ花もいた。生苦は心配したんだと真の顔をまじまじと見つめた。


「残っちゃったわね」


 菜ノ花は自分の顔を指で撫でた。真のひたいから頬までかかる縦の切り傷を、悲嘆なく「箔がついて格好いいわ」と言った。


「お二方にも、ご迷惑をおかけしまして」

「とんでもない。楽しいものを聞かせてもらった」

「と、言うと」


 真はなんのことかよくわからない。


「それより三日、彼の退院祝いだけど」

「そんなもんやらねえよ」

「もう手配はしてあります」

「さすが甲賀だ。やはり、うちに来い」


 あだ名をつけたものを愛すというのは本当だ、と真はこのかしましさにうっとりとした。整頓された机上はおそらく甲賀がしてくれたのだろう、しかし嫌がらせに積まれた空き缶は誰がやったのかは言うまでもない。


「お気遣いなく。私も病み上がりです。また傷が開いては、というよりも、新しい傷が増えでもしたらかないませんので」


 真は何気なく言ったつもりだった。だからこそ本音が出た。

 どっと吹き荒れる笑い声は生苦と菜ノ花からだった。甲賀も頬を軽くつねっているのは、微笑みを消すためだろうが、あまり制御できていない。


「そんなに可笑しなことを言いましたか」


 生苦はいつもの凛とした雰囲気をぶち壊し、腹を抱え、


「いやあ、いうようになって嬉しいのさ」


 と、また笑う。黙ったままの三日、どれだけ睨みをきかせても無駄だった。


「そうよね。傷なんて、増えたら困るわ。三日も自重しなさいね」


 いかにも心配しているようだが、結局は吹き出した。


「あのな、ここはあんたらを笑顔にする場所じゃねえんだよ。さっさと帰れ」


 煙草のフィルターを噛みちぎりそうになっている。三日は散々に文句を言って、


「お前が悪いんだからな。付け込まれやがって、ドジ踏むとこうなるんだよ」


 真に火種を向けた。赤い髪は野暮ったく、手入れのされていない荒れ野を思わせる。


「私には話が見えませんが謝罪の必要なことでしょうか」

「あれ? 蘭子ちゃん、言ってないの?」

「いやあ、てっきり菜ノ花さんか、甲賀が伝えるものかと」

「畜生の行いは主人の御心のまま。指示がなくば動けませぬゆえー」

「誰が言うか、付け込まれる奴が悪いのさ」

「あの、私は何をしたんでしょうか」


 真はたまらず冷や汗でそうきいたが部屋はあれほど賑やかだったのに、一気に静寂に包まれた。誰も教えたがってはいない。悪意とかは抜きにして、とりあえずからかっておもちゃにしてみようという、三日に慣れ過ぎた者が陥ってしまう「三日化」だった。


 甲賀も便乗し続けようと考えたが、どうやら生苦はからかい側に回るようだし、もともと菜ノ花は悪ノリするタイプなので、私がやらねばいつまでも真はおもちゃである、とすぐに事実を告げることにした。


「前回の戦闘で、あなたの独り言が漏れていたんですよ。私と三日中尉に」

「それがなぜ付け込まれる隙に——な、な、独り言! それは、つまり」


 フラッシュバックする戦場。俺はあの時、何を口にしていたかを脳内の霞を払い思い出す。


 ああ、三日に対する暴言が、感情のままに漏れていた!


「震えた手で通話スイッチを入れて、興奮してたんだろうね、そのまま通話を切り忘れたんだ。甲賀から教えてもらったよ。いい啖呵をきるじゃないか」

「私は『でこの借りがある』が好きだわ」

「な、菜ノ花大尉、勘弁してください」


 羞恥に耳まで赤くして泣きべそ寸前の真に、三日は追い討ちをかけなかった。煙草を吸って、時折目を細めて、茶化し、罵倒の声を発するだけである。


「黄色さんもナマクラも、その続きはまた今度。飯でも食いながらにしようぜ」


 ひとしきり騒いだ後、三日は煙草の火を消した。


「お前が場を仕切るとは」

「楽しみで早く行きたいのよ、これから退院祝いがあるから」


 退勤まであと十分、驚くことに、彼女たちはなにをするでもなく長時間真をからかっていた。


「うっさい。あんたらにも仕事あんだろ?」


 非番と声が重なった。


「私らは私らの部下と楽しむさ」


 最後に生苦は「生きていてくれて嬉しいよ」と真の胸を叩いた。


「私も本当に心配したんですよ」


 二人が帰って、退勤時刻。甲賀は急ぎでもない書類を片付け終わったのか、首を左右に鳴らした。

 返事に困り、視線が絡む。


「無茶は慎んでください。特に、ああいう無茶は」


 上官への反抗ではなく、三日への反抗だ。それさえしなければ、春川真はもうすこし入院が短かっただろう。傷が残ることも、おそらくはなかった。


「返事は?」


 詰め寄る甲賀、三日が「もう出ようぜ」とコートを着込んだ。今冬初の雪である。

 無茶をするなと言われても、真からすれば甲賀たちの方がよほど無茶である。その二人の先導で前回と同じ居酒屋に向かった。


「甲賀ぁ、お前煙草買ってこい」


 入口の前で、三日は立ち止まる。


「俺が行きますよ」

「私が頼まれたんですから、中で待っていてください」

「ちょっと急げよ」

「おかしな表現ですけど、わかりました。ちょっと急ぎますね」


 甲賀は急ぐどころかのんびりと、ポケットに手を突っ込んで角を曲がった。


「おい」

「は、はい!」


 上官に買い物を任せてしまったと、真は落ち着かないでいるところに声がかかったものだから、上ずった声がでた。


「なんだ、返事だけは一人前だな。入れよ、寒いぜ」


 ビール、お茶。刺身、厚揚げ。三日個人の財布から出ている以上、文句もないが、少し寂しい卓上に、小さな灰が落ちる。


「挨拶も乾杯もしない。好きに飲め」

「ありがとうございます」

「話があるなら、聞いてやる」


 これは、お前から切り出せ、という合図だ。そう直感した真は核心に触れた。


「保留とは」


 と、刺身をつまむ。


「愛の先に何があるか、知ってるか? 世間じゃ結婚だったり、ガキをこさえたり、そういう慣例があるようだが、私は違うように思う」


 保留の理由だろうか、彼女の哲学が語られる。


「愛ってなぁ、それで終わりなんだ。先はない。そうだろう、政略結婚、強姦、そこに愛があるか、あったか、芽生えるか、そんなのは確かめようもない」


 厚揚げを頬張る。酒を飲む。会話は頻繁に途切れた。


「愛を交わした時点でな、そこから人は進めない。なぜなら、愛を交わせば、どちらか死ななきゃならねえからよ。命は一つだ。少なくとも、私と」


 箸を向ける。そこに殺気はない。


「私とお前、死ぬしかないんだ。でもこうして生きているし、簡単に殺すのも、やればできるが、なんだか妙な気分じゃねえか。だから保留なのさ」


 マグロ、イカ、サバ。病院食に飽きていた舌だったから、しびれるほどに美味かった。


「まあ、そのうち死ぬだろうから、それまでは、ええと、それまでは、ほら、あれだ」

「それまでは」


 いつのまにか入口に立っていた甲賀が手に煙草を遊ばせて、座敷の畳に膝を滑らせる。


「それまでは、仲良くやろうぜ、と仰りたいのですか?」


 三日一生の不覚か、厚揚げと酒の混合物を真にぶちまけ、激しく咳き込んだ。


「はぁ? 冗談ばかりの手前だがよ、今回ばかりはただじゃすまさねえぞ」

「なんだかんだありましたが、これからもよろしくね、そう仰りたいんですよね」


 甲賀はしなを作って、可憐に放った。顔だけが無表情である。


「最終警告だ! 喋るな、帰りやがれ!」

「可愛い部下が頑張ったから、怪我も治ったしお祝いしよう、そういうことなんですよね」


 甲賀はいつもの鉄仮面。三日はやや頬を染め、それが怒りかどうかは真にはわからない。


「八つ裂きにしてやる!」

「私を追いやって時間稼ぎをして、二人きりで素直になりたい、こういう算段だったんですよね」

「殺す!」


 ついには取っ組み合いになった。真は止めるのも忘れて、甲賀の言葉をなんども反芻した。


「春川ぁ、今日限り、こいつの言うことは無視しろ。口をきくな」

「独占だー。部下の独り占めを許すなー」


 荒れる、荒れる。祝いの席に暴力が満ちた。店主は黙ってテレビを見ていた。


「もし甲賀さんの言うことが本当なら」


 真の発する穏やかな音で、三日たちはピタリと静止し、その続きを逃すまいと耳を動かした。


「俺は嬉しいですよ。ありがたいです。三日さんがそうお思いであればの話ですが」


 愛については理解を得ず、三日についてはそれ以上に理解しがたい。仲良くといわれても彼自身戸惑いもある、なにしろいつだって厳しさの中にいたのだから。


 だが、やはりこの男は変わり者で、どんなに優しかろうが心が広かろうが、人間として成熟していようが、むしろそういった連中の方が受け入れられない三日からの歩み寄りに、人懐っこい犬のようにすり寄っていった。


「どうなんですか、三日さぁん」


 声だけは悩ましげに、甲賀は肘で突いた。払いのけるでもなく、三日はそのままじっとしている。ふと胸のポケットの煙草を見つけ、それを真に投げ渡した。


「やる。なくなったら、言え」


 素直じゃないですねと甲賀は呟いたが、三日は黙ったまま酒を飲んだ。

 しばらくするとまた喧騒が戻り、外にはぼた雪が降っている。畳には所々に染みがあり、真の傷は三日を見るたびに疼く。


「なぁに見てやがる。文句があるか」


 立ち込める煙の中で、彼女はぶっきらぼうに言った。真はいいえと首を振り、甲賀の茶化しを耳だけで喜び、刺身を食った。

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クルナカレ しえり @hyaru

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