第6話 はったり


 朝の八時。きっちりその十分前に三日小隊の部屋はノックされた。


「おはようございます」


 昨晩のことがあるために、真は気合十分だった。彼の性格の土台には負けず嫌いなところがあって、ここで怯えていては鬼と戦う前から負けているのではないかと、そういう自分の律し方をした。

 甲賀はほんの少しだけ顔をほころばせ、三日はその真逆で、舌打ちをして迎えた。


「お前、マニュアルは覚えたのか」


 席に着くなり真は怒鳴られた。賭けに負けた八つ当たりである。甲賀の微笑みに真は気がつかない。

 ある程度ならば頭に入っていた。だが、そもそもマニュアル書は分厚くとても一日では覚えきれるものではない。さらに真は要点を抜き取るということが不得意で、細かいところを指摘されれば、三日は指摘するだろうしそれが隊長として当然でもあるので、ボロが出る。瞬時にそれを理解して、


「半分ほど」


 と言った。


「覚えておけと言っただろうがぁ」


 三日は感情的にそばにあったファイルを投げつけ、それが真の胸に当たった。


(このヒステリーめ)


 口にこそ出さなかったが、真は憎しみを込めて激しく罵る。朝っぱらから不快になり、席に座るなりマニュアルを取り出し、読みふけった。

 煙草は途切れを知らず、ライターの着火音だけがしていた。猛烈な速度で読み進め、不思議と頭に染み込む知識の濁流に、俺も捨てたものではないと、真の鉛筆は彼なりの要点をマニュアルに書き加えていく。


「私はちょっと出てくる」


 昼には戻ると三日はビールの空き缶を灰皿にして、咥え煙草で出て行った。その姿に唖然としながら、真は時計を見る。午前十一時であった。

 甲賀は、あの人はいつも急ですので、と前置きして、書類から目を離さずに言う。


「いつ搭乗訓練と言いだすかしれませんので、それまでに、少なくとも魂鎧を歩かせるくらいにはなっておきましょう」


 動かすことは、できる。女神因子があれば魂鎧は動く。だが戦うこととなると、それはまた別である。

 自分の手足がある日突然長くなれば、人は容易に体を動かせない。歩くこともままならず、遠近感も狂う。そこを訓練によって慣らさなくてはならない。マニュアルを読むということは、つまりは大きくなった自分のサイズを知るということである。

 甲賀は自分の手足の長さを知っておけという意味のことを言った。


「三日中尉はどこへ」

「多分、市街へ。散歩ですよ。春川さんが集中できるように。あれで結構、気を使う人ですから」


 正午になると廊下が騒がしくなる。休憩のために軍全体が蠢きだした。全員が一斉に食事をとるのではなく、ただ昼には休息をとるようにという規則だけがあった。

 軍の食堂は女神因子をもつ者なら無料で食事ができた。体調不良や空腹、精神衛生上の問題は、女神因子の活性を阻害するため、そういう福利厚生の部分において、魂鎧に乗る者は多少優遇されている。

 真もそこで済ませようとしたが、甲賀がまだなにかしらの作業をしていたし、何より記憶力に自信がなかったために、真もずっとマニュアルと格闘している。

 彼は辞書を引かねばならない。こういったマニュアルは専門家が作ったものなので、ましてや試作機であるためにわからない単語が山ほどあり、それを整備士たちの教本を見ながら訳していく。三日が戻れば理解度を見極められてしまう恐れがあり、そうでなくても必要な知識である、真はぶつぶつと呟きながら、情報を食った。


「戻った」


 三日は手に紙袋を下げて、ドアを足で開けた。ドアの下部の色が剥げているのはそのせいだった。


「お帰りなさい。それは?」

「まんじゅうだ。腹が減ったから買った。お前、食うか」


 紙袋から一つ、ひょいと甲賀に投げて渡した。

 駅の近くに古い和菓子屋がある。生地であんこを包んだ、いってしまえばそれまでの、ごく普通のものだ。外まで買いに行ったのかと甲賀が聞くと、


「旨いから」


 と答え、煙草を吸った。軍服のまま向かったが、どうやら日常であるらしく、面倒事もないという。包装を破り、彼女は小さな口でまんじゅうを頬張った。飲み込むとお茶を飲み、煙草を吸って、またまんじゅう。これが昼飯、休憩なのだと、だらだらと文庫本を読みながらのんびりしていた。


(これが昨日、俺のひたいを割った女か)


 真はそう思う。どうみても縫わなくてはならない大きさの怪我だが、彼は自分でガーゼをあてて、それをテープで止めただけだった。


「お前も、食うか」


 返事も待たず、三日はまんじゅうを投げた。


「ありがとう、ござい、ます」


 継ぎを当てたような妙な返事になったのは、このひたいを割る女が、短気の体現者のような暴君が、こういうことをするのかと呆気にとられたのだ。思い返せば昨日はあんぱんをもらった。内容はどうあれ歓迎会も催してもらった。どちらが裏で表なのか全くわからない。この三日という上司は、俺をどうするつもりなのか。まさか人体を、心身を揺さぶるとどうなるか、そういう実験の最中ではないかと疑いもした。


「礼なんかいらん。それで、覚えたのか」


 睨まれ真は首をすくめた。

 彼にはこういう時に、むしろ堂々とする性質があった。危うい状況でこそ元気よく、という自分の中でのルールがあったのだが、三日はそれを許さないほど、鋭く冷たかった。

 まだ覚えていません。そう答えるのは簡単だったが、むくむくと反骨の、危うい状況は元気にという感情が湧き上がり、


「試験があるのであれば、ぜひそれを受けたいと思います」


 とわざわざ起立して言った。


「すごい自信ですね」


 甲賀は息をついて感心し、三日もこんな返事だとは思わなかった。せいぜい「はあ、できております」くらいのものだと油断していたので、


「おう。そうか」


 と歯切れが悪い。しかし彼女はそこで終わりにはしない。真の反骨などよりもよほど激しく机を叩いた。


「では午後より鎧を用いての演習を行う。甲賀ぁ、お前が相手しろ」

「はい。よろしく、春川少尉」


 聞いてはいたが演習はまだ早い。真は震え上がったが、何もかもが遅かった。


「よろしくお願いします」


 声だけは立派だが、握りしめた拳の内、汗でじっとりと濡れていた。

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