第7話

 ほとんど会話もなく、駅に着いた。乗り物が運んでくれるだけだから気は楽だった。美波がお腹が空いたと言い、次の電車まで三十分はあったので、途中のハンバーガーチェーンで軽食を取った。ゆかりの好きだったキッズセットに思わず目が引き寄せられる。いつかの買い物の時、「ゆかり、あれ好きだったよね」と話しかけたら、「そんなのまだこーんな小さかった時じゃん」と、ゆかりは大袈裟な身振りをして笑っていた。背は四年生の中では高い方、と本人は言っていたけれど、私にとってゆかりはまだまだ、年端の行かない小さな子どもだ。

「おばさん?」

 怪訝そうに訊かれ、我に返る。美波はシェイクとポテトをつまんでいたが、私はアイスティーだけだった。ポテトいっこあげるよ、という言葉に甘えて一本齧る。ゆかりを妊娠していたとき、ここのポテトばかり食べていたのを思い出した。「つわりなのにそんなの食べれるの?」あの頃はまだちゃんと優しかった夫は、そんな風に笑っていた。でも、ほかのどんなものよりも、ここのポテトが食べやすかった。今は少し塩味と油が少しくどく感じる。ポテト自体は何も変わっていないはずなのに。

 電車が来るまで、ぽつぽつと会話をした。話すのは美波がほとんどで、私は時折相槌を打つくらいだった。癖の強い先生のこと。定期テストのこと。友達と行き違いになって、無視されるようになったこと。やがてそれが、厄介なクラスメイトも巻き込んだことで、その子たちがリーダーシップをとり、クラス全体のものになってしまったこと。あいつら全員ろくでもない。死ねばいいのに。美波は自身の痛みを吐露していく。愚痴に関しては、中途半端に見知った相手より、よく知らない行きずりの相手の方が、かえって心安いのかもしれない。私はじっとその話を聞いていた。

 美波が話しているのを見るのは、未来のゆかりを見ているような気分だった。そのうち、おばさんも何か話してよとねだられた。子どもがいると悟られるのはまずいと思った私は、咄嗟に夫と義母のことを口にしていた。

 ゆかりがお腹にいるころ、と言うのは伏せておく。風邪をひいて、においと塩味が分からないまま、ふらふらする身体でご飯を作った時。一口手をつけるなり、「なんでこんなまずい料理作れんの? おふくろに教えてもらったら?」と夫は言った。その時も啞然としたが、あろうことか、夫はその話を「うちの嫁の料理が不味くて困る」と、不幸自慢のように職場や義両親に喧伝していた。「こちらはいつでも大丈夫だから、都合が良い時にいらっしゃい」「夫の健康を守るのも妻の務めなんだから」義母が電話越しにそう言うのを聞いて、この人は夫を諫めなかったのだということが、手に取るようにわかった。背筋が凍るような感覚を、今でもよく覚えている。まともな人間は、今の私の周りには誰一人いないのだと。

「何それ、ドラマみたい。マジに嫁姑って大変なんだね」

 美波は楽しそうだった。

 ここに来て美波の口数が増えたのは、やはり不安の裏返しに思えた。電車に乗ってから、美波は何度も、確認を重ねるように手元の紙を睨んでいた。

「これからどうするの?」

 向かいのホームに電車が来て、風が吹き上げる。熱風だが、汗を帯びた体には不思議と心地いい。

「どうしようかな。行きの運賃のぶんしかお金ないし、とりあえずお母さんのところに飛び込んでから考える」

 もしも母親から拒絶されたら、ということは聞かなかった。聞けなかった。

 もしそうなったら、この子は簡単に、自分の人生を捨ててしまうような気がした。それを言葉にされるのが、怖かった。

 入れ違いに電車がやってくる。ドアが開き、人が吐き出される。私と美波はプラスチックのベンチから立ち上がる。

 弱冷房車なのが有難い。冷房と酷暑の繰り返しに身体が疲れ始めていた。

 


 電車とバスを乗り継いで、ようやく最寄り駅まで来たようだった。美波の希望で、家の前まで私は連れ添っていくことにした。

 狭い街だった。小さなアパートが密集して立っている。電線の数も多い。歩道もあってないようなもので、時折すれ違う車同士がひどく窮屈そうにしている。

「おばさんは、これからどうするの」

 リズミカルに歩を進めながら、美波が尋ねる。

「どうしようかな。知り合いに連絡して、とりあえず今日はビジネスホテルに泊まるかな」

「家には戻ってあげないの?」

「え?」

「いるんでしょ、子ども」

 私は思わず言葉を失う。「携帯。待ち受け、女の子が映ってたから」美波の声は心なしか尖っている。

 待ち受けは確か、ゆかりと一緒に水族館に出かけた時のものだ。水槽に見入っていると思ったら、カメラを向けた途端、ちゃっかりとポーズを決めたゆかり。満面の笑顔で、いい写真だった。

 血の気が引く思いがした。母親に置き去りにされたこの子に、まさに私がそんな母親であることが、とっくにばれていた。

「娘なの」

 美波は返事をしない。怒らせてしまったのだろうか、と思う。当然だ。

 そのまま、目的地と思われるアパートまでついた。「ここまででいいよ。ありがと」そっけなく言って、美波は私の目をまっすぐ睨む。

「迎えに行ってあげなよ。大事じゃないの? どうでもいいの?」

「違うよ、でも……」

「でも、何?」

「……私と来れば、娘は幸せになれないから」

「なんで?」

 問い詰める声はどんどん強くなる。

「お金がかかるでしょう。生活にも、学校にも、塾にも。私じゃ充分にかなえてあげられない。仕事だって、これから探さなきゃいけないんだから。あの子が将来大学に行きたい、私立の学校に行きたい、ってなっても、私じゃ、無理かもしれない。だったら、」

 だったら、夫のもとにいた方が幸せだ。何度も自分に言い聞かせた言葉を、私はまた繰り返そうとする。

「そんなことが何? ただの言い訳でしょ」

「……子どものあなたには、まだわからないかもしれないけど」

「子どもだから言ってるんだよ!」

 張り上げた声は、まっすぐ私の耳を貫いた。美波は顔を紅潮させ、泣きそうになっている。握りしめた手が小さく震えている。堪えきれなくなったように、目じりから雫が落ちる。

 わかってはいたのだ。あの人のところに、ゆかりを一人で置いておくのがどれだけ危険か。夫がどんなふうに私を悪し様に言って、それを見たゆかりがどう思うのか。私がいなくなって、次に矛先が向かうのは誰なのか。

「大人は仕事もできるしお金もあるからいいよ。子どもにはどっちもない。死にそうなレベルの怪我じゃなきゃ虐待なんて呼んでもらえない。かわいそうだとも思ってもらえない。黙ってたって先生も周りの大人も誰も気づいてくれない。誰も助けてくれないんだよ。まともに会話もできないような父親と二人きりにされて、ずっと、十何年も、閉じ込められて」

 行ってあげてよ、という声は、まるで取りすがるようだった。

「せめて一緒に行くかだけは聞いてあげて。行きたいって言ったら連れて行ってあげて。じゃないとこんな風になっちゃうよ。お金だけあったって、食べるに困らなくたって、自分を大事にしてくれない人のところじゃ、ぜんぜん、幸せじゃないんだよ。だから寂しさでよくわかんない男と付き合ってさあ、こんな……」

 最後はもう言葉になっていなかった。美波は「お願い」と何度も何度も念を押した。私の腕にすがって、へなへなと力なく座り込んでいく。私の向こうに過去の自分を見ているのだろうと思った。母が私に通帳を託した時と同じ。

「ごめんね。私といるの、辛かったね」

 美波は涙を落としながら、激しく首を横に振る。

「あたしはおばさんのおかげでここまでこれたの。今からはあたしはひとりで戦いに行く。だからおばさんも、戦って」

 絶対だからね、と彼女は言った。



 美波と別れて、帰りの電車の中、思い出すのはゆかりのことばかりだった。生まれたばかりの時の皺くちゃの顔。イヤイヤ期が激しく、毎日のようにスーパーの床でひっくり返って泣いていたこと。幼稚園の卒園式で元気に返事ができたこと。ランドセルを買ってもらって、よほどうれしかったのか、春休みの間、暇さえあれば背負っていたこと。雑巾をもっていかなきゃいけないことを前日に言ってきて、叱るとべそをかいていたこと。お母さぁん、と未だに膝に乗って甘えてくること。

 どうするのがあの子にとって幸せなのかどうか、私にはわからなかった。とにかく今日は日曜日で、夫が家にいる。一日考えてから行動しよう、と思った。安いビジネスホテルに泊まって、久しぶりにお湯をためて、ぬるめのお風呂にゆっくりと浸かった。静謐で、誰にも侵害されない時間。子どもが生まれてから今まで、ひとりでこんなにゆっくりできたのは初めてだった。

 頭の芯まで疲れていたのに、なかなか寝付くことができなかった。気づくと携帯のフォルダの写真を現在から順にさかのぼっていた。ぽちぽちと小刻みにスクロールさせながら、いつしか涙が止まらなくなっていた。どの写真のどの思い出も鮮明に思い出せる。ゆかりの笑顔や舌足らずな声も、昨日のことみたいに覚えている。

 


 次の日、怖気づく心を奮い立たせ、私は再び家へと帰った。ゆかりが学校から帰り、且つ夫が仕事でいない時間帯。玄関に夫の車はない。震える指に力をこめ、インターホンを押す。

 どたばたとした足音の後、元気よくドアが開いた。

「お母さん! おかえりい」

 昨日のことなどまるで忘れたかのような、のんびりした声だった。けれど、私の表情が硬いことを見てとったのか、ゆかりの顔がぴしりと固まる。

 たまらずゆかりの頭をぎゅっと抱き寄せる。「何、なに? 苦しいよー」文句を言いながらもどこか弾むような声音が、胸の中で聞こえる。私は腕に少しだけ力を込め、胸いっぱいに子どものにおいを吸い込む。

「ゆかり、お母さんと一緒に来る?」

「ん? んー」

 気の抜けた返事。事の重大さがわかっているのだろうか。「もー、苦しいってば」文句を言いながら顔を離し、ゆかりは平然と「一緒に行きたいなー」と言って笑った。にへら、と弛緩した笑顔。

「お出かけに行くんじゃないのよ? お友達とも離れるんだよ?」

「わかってるよ。もう四年生なんだから」

 生意気言っちゃって。私は小さく破顔する。

「ランドセルに教科書とか、学校に必要なもの詰めておいで。なるべく少なくね」

 私が言うなり、はあいと言って、ゆかりはばたばたと家に駆けこんでいく。なるべく少なく、と言ったのに、戻ってくるころには行商人のような大荷物になっていた。

 そのまま私たちはバスに乗り、昨日とは反対方向の電車に乗った。途中ではゆかりにねだられてハンバーガーも食べた。「お母さん、わたしさあ、すっごい昔だけど、あれ好きだったんだよね」キッズセットを指さしながら、ゆかりが言う。ほんの数年前のことを「すっごい昔」という娘に呆れながら、「そうだったね」と私は相槌を打つ。

 近くの席には小さな男の子連れの親子が座っていた。「おかあさん、見て!」と男の子が蝉の抜け殻を掲げ、「そんなもの今出さないで!」と悲鳴まじりに母親に叱られていた。どちらの気持ちもわかってしまってやるせない。

 アイスコーヒーに口をつけながら、昨日バス停で見た小さな殻を思い出す。あれは私が投影したような単なる空っぽではないのだと、そんな簡単なことに今更気がつく。あれにはきちんと持ち主がいた。重い殻を脱いで羽化した蝉は、濡れた虹色の羽を広げて、大人として外に飛び出したはずだ。

 私も今更飛び立てるだろうか。新しくやり直せるだろうか。

 自由など、私の目の前にあってもいいのだろうか。

「あ、お母さん、どうしよう」

 電車に乗った後、不意にゆかりが泣きそうな顔をした。何か深刻なことかと思ったら、「どうしよう、筆箱忘れちゃったかも」とのことだったから、私は脱力した。「どうしよう、お母さんが買ってくれたうさちゃんのやつだったのに」取り返しがつかなくなったように慌てる娘を「筆記用具くらい買ってあげるから」と宥めすかす。すると、「なんだあ、早く言ってよ」と、慌てたのが損だ、とでもいう風に、ゆかりは尊大な態度をとりはじめる。

 昨日、大丈夫だった? お父さんは暴れたりしなかった? 

 たったそれだけの言葉が、口から出てこない。言おうかどうしようか、と逡巡していたら、「あのさあ、昨日さあ」とゆかりが口を開いて、どきりとした。

「お母さん、お父さんと喧嘩して出てっちゃったとき、ゆかりのこと忘れてたでしょお」

 ゆかりがわざとらしく頬を膨らませて、拗ねてみせる。ひやり、としながらも、私は平静を取り繕う。

「そんな、ゆかりじゃないんだから」

「えー?」

 忘れん坊大魔王、ゆかりは、笑いながら怒ったように私を小突く。

「お母さんはゆかりのこと忘れたりしないよ」

「本当かなあ」

「本当だよお。ゆかりとは違うもん」

「もー」

 笑いながら足を揺らすゆかり。お母さん、と甘えたように私を呼んで、肩に頭を預けてくる。「なあに?」「なんでもない」そのままゆかりは私の手をぎゅっと握る。表に出そうとしないだけで、この子も相当無理をしていたのかもしれない、と思う。

 私はこの手の温度をきっと忘れないだろう。電車の揺れに身を任せながら、私はゆかりの頭をそっと撫でた。

 この子にいつか恨まられることがあっても。今この瞬間を、私は絶対に、後悔したりしないだろう。

  

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