第5話

 行く当てもなくバスに乗っているうちに、景色は随分変わっていた。誰かの押した降車ボタンの音で、ふと意識が引き戻される。いたたまれなくなって、何かに追い立てられるように、慌ただしく料金を払い、バスを降りた。降りてから、何をしているのだろうと我に返った。熱々に熱されたアスファルトの上に降り立って、日焼け止めを塗ってくるのを忘れたことを、不意に思い出した。

 海の見える住宅街だった。人通りは少ない。道はぐるっと坂になっていて、カーブの外側に海面が輝いている。日に焼けたバス停の色と、空と海の青と、濃い緑。強い日差しに焼き殺されそうだった。

 どこからか蝉の声がしていた。忘れられたような蝉の抜け殻が、バス停の端にちょこんと残っていた。何もない、空っぽの抜け殻。

 まるで今の私だ、なんて、少女じみたセンチメンタルが頭をよぎる。

 鞄の紐を肩にかけなおし、私はゆっくりと歩き出す。少し歩いただけで暑さでくらくらしてきそうだ。今日の最高気温は三十八度、とニュースで言っていたっけ。いつから日本はこんなに暑くなったのだろうと嫌になる。

 そんな猛暑の最中に、蹲っている人影があった。十代半ばくらいの女の子だ。セーラー服の白色が、黒いアスファルトの中によく目立つ。

「大丈夫?」

 私が声をかけると、少女はぐったりした様子で私を仰いだ。顔が真っ赤になっている。熱中症だろうか。狼狽した私の傍らで、少女がふるふると首を振る。黒いしなやかな髪がそれに合わせて揺れる。

「救急車、呼ぼうか」

 それにも少女は力なく首を横に振った。「でも、その様子じゃ……」と食い下がったら、「絶対にやめて」と、不意に強い声がした。「親に連絡がいくのは絶対に嫌なの」「だけど」「今救急車呼んだらここで飛び降りて死ぬから」

 蝉の声までが、一瞬止んだように思えた。

「……とにかく、どこか涼しいところに入らないと。歩ける?」

 私は少女を強引に引き連れて、古いギャラリーの横にある、小さな食堂に入った。涼しい場所に入って、冷たい飲み物を飲むと、少しは顔色がよくなったように見えた。お昼ご飯はまだらしいが、何か頼もうかと言っても、少女は頑として断った。それから会話が消えた。テレビから聞こえる昼のバラエティの喧騒が、静寂の中に場違いに降った。

「おばさんのお節介でごめんね。……だけど、心配だったから」

 少女はだんまりを決め込んだまま、何も言わない。

「何かあったの?」

「……関係ないでしょ」

 きっぱりと跳ね除けられてしまった。こちらまで身構えるような警戒心が、肌にぴりぴりと痛い。

 何も頼まないでいるのも気が引けたので、宇治金時のかき氷を頼んだ。五百円もするかき氷。自分のために甘いものを買うなんていつぶりだろう。夫に知られれば「無駄遣いだ」と詰られる。「誰の稼いだ金だと思ってんだ」と、頭の中に声が聞こえる。もう家を出たのに。自嘲したくなり、夫の呪いが想像以上に根深いことを思い知る。

 かき氷が届くまで、少女は私から目をそらすように、黙ってテレビを見ていた。頬杖をついた横顔は、十代の少女にしてはひどく大人びて見えた。冴え冴えとした冷たい目。それなのに態度に怯えと警戒があるのが、どこか悲しかった。この子は何かに傷つけられてきたのだと、容易に想像がついたから。

「私ね、逃げて来たんだ」

 お冷の水滴をなぞりながら、思わず口から零れ出た。こんなことをこの子に言っても仕方ない、と思うけれど、先に手の内を明かすことで少しは警戒が解けてくれるのではないか。そんな甘い期待が言葉の上に乗った。単に吐き出したかっただけかもしれない。

「夫が、少し……なんていうのかな、乱暴な人で」

「DVでしょ」

「そんな風に言うほどのものではないのよ」

「DVされてる女の人はみんなそう言うんだよ」

 まっすぐな少女の声には、やはり棘があった。間もなく、店員のおばあさんがかき氷をテーブルに届けてくれる。「娘さんとお出かけ?」朗らかな声に、私は思わず「そうなんです」と笑顔を取り繕う。

 かき氷は思っていた以上に大きく、顔と同じくらいのサイズがあった。濃い緑色の上に、白玉とつぶあんが乗っている。ひとりでは食べきれそうにない。少しもらってくれないかなと、苦笑いで少女に頼んだ。少女は渋々スプーンを受け取った。

 抹茶のほろ苦さと甘さが懐かしかった。夫は甘いものが好きではないし、ゆかりは抹茶の味を「苦い」と嫌がる。長いこと口にしていなかった。

 ――ゆかりは大丈夫だろうか。

 心の中がざらりと削れる。

 小皿に取ったかき氷を、少女はおずおずと口にする。おいしい、と小さく呟く声に、私はそっと胸を撫でおろす。

「……私も、逃げたの」

 意を決したような声。うん、と私は頷く。なるべく優しく聞こえるように。

 親に連絡が行くのは嫌だ、と言っていたときから、うすうす、そんな感じはしていた。

 張り詰めていた糸が切れたように、狭い肩が震える。身体を丸めて泣くのがひどく子どもじみて見えて、胸が痛かった。



 泣くと少しはすっきりしたようで、少女はぽつぽつと自分の近況を語り始めた。半ば水になりかけたかき氷を、しゃく、しゃく、と食べながら。私もかき氷を片付けながら、その話を聞いた。

 少女は美波と名乗った。県立高校の一年生。父親と二人で暮らしている。父親はアルコール依存症で、家にいればウイスキーや焼酎を開け続ける。虫の居所が悪ければ、何を言っても怒鳴られるし、何も言わなくても怒鳴られる。教科書や服を捨てられたり、時には髪を引っ張られたり、顔を叩かれるなどの暴力もあるという。

「お母さんは?」

「あたしがまだ小さい時にさっさと出てった。うちの父親、クズだから。ケンメイだよね」

 何もかも諦めたように言って、美波はしゃくりとかき氷を食べた。容器の中には緑色の液体がどろりと溜まってきている。

 目立つ痣も、傷もない。パッと見ただけでは、家庭内暴力を受けている子だと判断するのは難しい。は巧妙に、傷がつかないようにするか、見えない場所を狙う。そうすればすぐに露見しないからだ。その程度の理性は、彼らにもあるのだ。身に覚えがある。

「今日は珍しく機嫌がよくて、嬉々として競馬に出てったから。今しかないと思って出てきたの」

「それは……」私は一瞬言葉に詰まる。「思い切ったことをしたね」

「別に。ずっと出て行きたかったから。タイミングの問題」

 重なるときは重なるんだよね、と少女はひとりごちる。それから先は、あまり多くを語ろうとしなかった。

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