第4話

 不妊治療の間も、夫は常に優しかった。周囲に「不妊治療に協力してあげる優しい夫」とちやほやされた通り。不妊の原因の多くは私の体質にあった。夫はそれを責めるどころか、「仕方ないよ」「気長に待とう。子どもは授かりものだから」と穏やかに受け止めてくれていた。

 二年半の不妊治療にはたくさんのお金と時間がかかった。その間、不安になるようなことはなかった。この人とは死ぬまでこうして二人三脚で生きていけると、疑いようもなく信じていた。

 三十代半ばになって、ようやく子どもを授かることができてから、態度が少しずつ変わり出した。つわりがひどかったので、妊娠初期には動けないほど体調が悪い日が続いた。そんな日にも夫は毎晩のようにお酒の匂いをさせて帰ってきた。酔った状態の夫は、家事がままならない私を「一日中家にいるのに?」と詰った。休日も、ずっと臥せっている私にかけられる言葉は、「俺の飯は?」だけだった。里帰り出産をすると言った時も、まったく同じことを言われた。

 時々、私の体質のせいで子どもができなかったことを蒸し返して、「お前のせいで金をドブに捨てた」と吐き捨てることもあった。なんでそういうことを言うの、と一度言い返した私のことを、夫は「本当のことだろ」と鼻で笑った。思わず涙がこぼれたと同時に、大きな舌打ちが降った。「まったく、女は泣けばいいと思ってんだから」「おい、何泣いてんだよ。泣ける立場なのお前。仕事も家事もしないくせに」胸倉をつかんで揺さぶられると、殴られるかもしれない、という恐怖心で身体がすくんだ。

 それから私は、何を言われても、叱られた子どものようにうつむいて、黙っていることしかできなかった。

 やがてゆかりが生まれた。夫は育児に見向きもしなかった。「家事と育児は母親の仕事だろ。俺は稼いでるんだから」と言ってはばからなかった。「家にいるだけなのにその程度のこともできないのか」と言われると返せる言葉がなかった。産後のぼろぼろの身体で、ひっきりなしに泣く赤子の世話と家事に追われ、一時間とまとまって寝られない時期が続いた。気の休まる暇がなかった。手伝ってほしいと言って返ってくるのは、「お前が産みたいって言ったんだろ」という言葉だけ。義母が来たときだけは一人前に父親の顔をして、これ見よがしにミルクをあげたり、抱いてあやしたりしていたが、うんちをしたおむつを替えることだけは絶対にしなかった。

「今時のお父さんは何でも手伝ってくれていいわねえ。美和さんも楽でしょう」

 全く悪気のない義母の台詞を、曖昧に笑ってやりすごす日々。

 ゆかりに何か心配事があっても、「考えすぎだろ」「母親が神経質すぎると成長に良くないんだってよ」と、逐一小さな棘のある言葉が投げられた。私が気にしすぎで、繊細すぎで、弱すぎるのだと言い聞かせながら、専業主婦として家という鎖につながれ続けた。

 人当たりが好く、外面はめっぽういい夫は、家の中ではたびたび、不機嫌によって人をコントロールしようとした。それは私だけでなく娘のゆかりにも同様だった。一度、ゆかりがわがままを言って癇癪を起こしたとき、思い切り平手で叩いたのには血の気が引いた。

「手を出すのはやめて」

 必死に咎めたところで、「こんなの躾のうちだ」「言ってもわからないんだから身体に教えるんだよ」という持論を展開され、最終的に「お前はなんでもかんでも神経質すぎる」といういつもの話に帰結するだけだった。それでも、その時ばかりは折れなかったが、夫は苛立った様子で椅子を蹴り、自室に戻った。はずみでテーブルの上のグラスが倒れた。倒れた椅子を直し、床を拭くのは、やっぱり私の役割だった。

 次第に夫は、ゆかりの目の前で私を詰るようになった。髪を切りに行く間だけゆかりを見ていてほしいと頼んだ時は、「お母さんはお前より自分が大事なんだって」と聞えよがしに言い聞かせていた。「お母さんは本当にダメ人間だよなあ」と、ゆかりに追従させようとすることもあった。ゆかりが否定するとやっぱり不機嫌な顔になって、だけどゆかりに当たる代わりに、唾を飛ばしながら私を激した。少しずつ、少しずつ、心のやわらかい芯の部分が削られていくような感覚。それでも夫は、家にお金を入れてくれているから、周囲からは優しい父親としか見えていない。

 私が黙ってのみこみ続けるうちに、夫の要求や不機嫌はどんどん理不尽なものになっていった。時には矛先がゆかりにも向いた。波風を立てたくなくて、ゆかりが悪くなくて怒られている時でも、「お父さんに謝りなさい」と促したこともあった。自分が何をされた時よりも胸が痛んだ。



 夫に何か月も前から頭を下げ続け、久しぶりに友人と会うことを許された日。「それ、モラハラだよ」という友人からのひとことが、私の目を覚まさせた。

 モラルハラスメント。主に家庭や職場などで行われる、暴力を伴わない精神的な嫌がらせのことを、そう呼ぶことがある。友人から教えてもらうまで、私は何も知らなかった。

「ていうか、その感じだと、美和ちゃんとこDVもあるんじゃないの?」

「そんな、大袈裟だって。私がちゃんとしてれば怒鳴ることだってないし」

 いつも私に浴びせられていた口上が、いつの間にか口をついていた。友人はひとつ溜息をついて、「あなたの夫は大丈夫? モラハラチェックリスト」という記事を私に見せた。簡単な説明のあとに、ずらっとチェック項目が並んでいる。

 体調が悪くても、妻なんだから家事をすべきという態度をとること。気に入らないことがあると不機嫌オーラを出すこと。ちょっとしたことでキレること。理屈っぽく問い詰めること。ドアを強く閉めたり、床を踏み鳴らしたり、モノに当たること。「誰のおかげで生活できるんだ」と言うこと。怒鳴ること。自分の間違いを認めず、「自分にそうさせたお前が悪い」と正当化すること。

 十数個あったチェック項目は、びっくりするくらいに夫に一致した。夫のためにある言葉なのではないか、と思ったほどだった。

「今の環境、美和ちゃんにもゆかりちゃんにも絶対よくないよ」

 呆気にとられていた私に、友人は念を押すように言った。

「離婚しなよ。ああいう人は死ぬまで絶対変わらないよ」

「無理だって。私、仕事もしてないし。ゆかりだってこれからどんどんお金かかるし、夫が絶対に許さないと思う」

「ゆかりちゃんが無理なら、美和ちゃんだけでも立て直そうよ。まずは自分の心を優先しよう。余裕ができてから、子どもを迎えに行けばいいんだって」

 友人は言葉を尽くして私を説得した。私は安易には頷けなかった。ゆかりを置いて逃げる、ということは、夫の怒りの矛先がゆかりだけに向かうということではないか。そう思うと不安で仕方なくて、そんなひどいことはできない、と思った。

 思ったのに。私はそんな、ひどい母親になってしまった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る