第3話

 私のしていることはごくシンプルだった。ただ自分の世界を閉じていく。無理やり閉ざされるよりもずっと楽で、傷つかずに済む。我を通したいという贅沢さえ言わなければ、親や親戚や周囲の人や、いわゆる「世間」からは及第点をもらえる。

 そうやって、目に見えない何かに迎合し続けているうちに、自分という芯は、もはやどこにあるのかわからなくなっていた。

 短大を出て、親戚の紹介で、県庁の街にある小さな会社に勤めた。女の子は嫁入りまでの社会勉強として勤める人がほとんどで、男性社員たちの士気向上のためのお飾りとしての役目が与えられていた。私たちがするべき仕事は、お茶出しや掃除といった雑用が中心で、あとは取引先との会食の際にお酌をしてまわり、コンパニオンの真似事をすればよかった。

 誰にでもできる仕事。もっとちゃんとした職務を任されたいと、女性社員から不満はあったようだ。けれど私にとってはむしろ心安かった。特別なスキルを持つわけでも、矜持があるわけでもない私にできることは、「誰でもできること」以外に何もない。私は与えられた役目を淡々とこなした。

 そんな態度が、「美和ちゃんは奥ゆかしくていいね」と買われることもあった。「今ドキの子には珍しいくらいしっかりしてる。わがままも言わないし」

 それは換言すれば、自我がなくて御しやすい、ということなのだけれど。私はそれに気づかずに、ありがとうございます、といつも通りの笑顔を浮かべた。

「ちょっとお、それどういう意味ですかー?」

 同僚の女の子が不満げな顔を作って上司に絡む。「お前さんがお転婆すぎるってことだよ」「美和ちゃんの爪の垢でも煎じて飲めよ」「えーっ、ひどーい」

 上司はまんざらでもなさそうな顔で、同僚をつつく。

 結局可愛がられるのは、慎ましさとは無縁のこういう子たちだということも、私は学んでいた。けれど、自分はこういう立場にいるのが当然なのだ。甘んじて受け入れなければ、まして不満なんて覚えれば罰が下る。そんな気がしていた。それでも、こんな自分を愛してくれる人などいないのではないかと思うと、孤独感にうっすらと寒気がした。

 夫と初めて会ったのはこの頃だった。忘年会の時、騒ぎ立てる社員たちを横目に見ながら、彼は居心地悪そうにビールを飲んでいた。「なんかいい話ないのお?」「いや、特には」「なんだよ、若いんだからもっと遊びなって」そんな風な調子で絡まれているところに、私も巻き込まれた。「美和ちゃんも独り身なんでしょ? 若い者同士仲良くやんなさいよ」

 彼氏とかいるの、と上司に明け透けに訊かれて、私は苦笑しながら否定する。すると有無を言わさず彼の隣に座らされた。

「まったく困っちゃいますよね」

 上司がいなくなった後、内緒話のように囁かれた声に、私は不思議なくらい動揺していた。

 私はまだうぶな娘だった。親が気を悪くしない丈のスカートを履き、周囲の求めるがままに、慎ましく清楚な娘であろうとしていた私には、男性とつきあった経験もまたなかった。同じ年頃の娘たちが一足飛びに経験したあらゆることを、私は知らなかった。

 彼と付き合い始めたのは、自分が遅れているんじゃないかという焦りもあったからだ。周りの子たちのお喋りについていけない。「美和ちゃんは純粋だねえ」とくすくす笑われるのが耐え難い。出遅れて「お局さま」になってしまうことが怖い。

 だから、彼からのアプローチは素直に受け入れた。それだけじゃなく、私はきちんと彼の好意が嬉しかった。こんな自分を好いてくれる人間がいる、ということが、たまらなく心地よかった。生まれて初めて自分を肯定できた気がした。

 教科書をなぞっていくような平凡で穏やかな恋愛は、私にとっては地に足のついた、安心できるものだった。「普通」を逸脱しないことだけが私の安息だった。普通に恋愛をして、普通に結婚をして、普通に出産をして、母になる。私はそれ以外の選択肢を持たなかったし、望もうともしなかった。

 結婚を決めると同時に、自然と退職も決まった。夫は人当たりのいい人で、周囲からの評判もよかった。全ては円満に進んでいった。姑も、こちらが下手に出ている限りは穏やかな人だった。結婚生活もとりたててトラブルはなく、世間に聞くような夫の横暴もなかった。やがて夫が転勤になり、故郷を離れても、不安など何もなかった。この人と二人でなら何も怖いことはないと思った。

 私は幸福だった。

 何年待っても子どもができないというただ一つを除いて。

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