第2話

 物心ついた時から、口をつぐむ癖がついていた。私も母も、女であるというだけで、あの家では我を殺しているしかなかった。

 私が生まれたのは、山間の小さな田舎町だった。住人のほとんどが顔見知りで、親戚のように気安く、距離が近かった。景色は果樹園と山ばかり。いつも土と植物の青いにおいがしていた。そんなところだったから、少しでも噂の種になることができれば、ほんの二、三日のうちに隅々まで知れ渡ってしまう。

 小学校のとき、私が絵画のコンクールで小さな賞を取った時も、そうだった。賞状をもらって帰った次の日には、学校の登下校や母と買い物に出ているときなど、すれ違うたびに近所の大人たちから賛辞を受けた。「美和ちゃん、すごいのね」「将来は画家先生かね」大袈裟に囃す声に母は決まって、困った様子で謙遜を繰り返した。この子は本当にだめで。家でもいつも気が利かなくて。

 否定されるたびにどこか胸が痛んだけれど、仕方のないことだった。ああして遜ることをしなければ、礼儀を知らないと人々の口に上ってしまうことを、母も私も知り尽くしていた。お世辞はお世辞として受け取ることが不文律だった。

 外では謙遜に徹する代わりに、母は家の中では私を目いっぱい褒めた。賞状と絵を大事に飾って、その日は私の好きなロールキャベツを夕飯に作ってくれた。「ねえちゃんばっかりずるい」と弟は台所で飛び跳ねながら抗議したが、「今回はお姉ちゃんのお祝いだからね」と母は弟をいなした。すると弟は癇癪を上げて居間で泣き始めた。思い通りにならないといつもこうする子だった。おもちゃや本を手当たり次第に壁に投げつけ、母は大声で弟を叱りつけた。すると弟はますます大きな声で泣く。そんな風に大きな声で泣けるのが、私には羨ましかった。

 弟が生まれた三歳の時から、私には「お姉ちゃん」としての役割が与えられた。「お姉ちゃんなんだから我慢しなきゃ」と、色々なものを弟に譲らなければならなかった。嫌だと言うとわがままだと叱られた。弟はゴネればゴネるだけ美味しい思いをするのに、私はそれに頷かないだけで詰られる。男の子はやんちゃだからと許されることも、女の子だから、お姉ちゃんだから、許されない。そうして、大きな声を出すことも、食事の間に足を崩すことも、友達とはしゃぎながら駆け回ることも、いつの間にか私の中からなくなっていた。

 体力を使い果たした弟は、寝室にどたどたと駆け込むと、そのまま布団にもぐってしゃくりあげていた。母は困った顔をして鍋をかき混ぜていた。私は台所につきっきりな母の代わりに、弟が投げて散らかした服やおもちゃを、ひとつひとつ拾い上げて、片づけた。

 その嫌なタイミングで、父が帰ってきたのだった。

 ただいま、という声を聞くと、お帰りなさい、と玄関先まで父を迎えにいかなければならなかった。母は鍋の火を止めて、父の鞄を受け取っていた。私はその傍にいながら、不穏な気配を悟っていた。父には時折、それとわかるほど機嫌が悪い時がある。弟は泣いたはずみでそのまま寝入ってしまっている。「孝は」玄関にいない弟に気づいたのか、父が咎めるように言った。「寝てるの、疲れてるみたいで」母の宥めるような言葉にも、父は無反応で靴を脱ぐ。

 父はどちらかといえば穏やかな方だ。とりたてて暴力も癇癪もなかった。周りの大人たちがしていたように、子どものいたずらやわがままを叱る時に、拳骨を食らわせることもなかった。だが父の口数の少なさは、時に無言の威圧に変わった。そんな時母は、消えかかった火を必死に焚きなおすように、過剰なほど気を回し、口数を多くした。そうすることで、我が家はギリギリのところでバランスを保っているように見えた。

 父母と私だけで囲んだ食卓は、時々母が何か話そうとするが、ちっとも会話が続かなかった。息が詰まるほど静かだった。美味しいはずのロールキャベツは、噛み切れなくて食べづらいばかりだった。箸と食器の触れる音だけが響いていた。私は黙々とご飯を咀嚼した。

 テレビではプロ野球のスコアボードが映っていた。ルールも選手もわからないから、私にとってはちっとも面白くない。父の贔屓のチームが失点し、瓶ビールを注がれながら、父が面白くなさそうに眉をひそめた。

「今日ね、美和が絵で賞をもらったんですって」

 CMに切り替わったタイミングで、間を埋めるように母が切り出した。

 父は何も言わなかった。褒められることを子ども心に期待していた私は、父が何の反応も示さないことに胸が痛んだ。傷つけられたような、裏切られたような気分だった。けれど母が、私が何かを口にする前に、私をそっと目で諫めた。お父さんは疲れてるんだから。母の口癖だった言葉が脳裏をよぎる。

 味噌汁で白いご飯を呑みこみながら、私は自分を納得させるための言葉を探そうとした。私は確かに傷ついていたのに、自分が被害者意識を持つことが、ましてそれを表明することなど、ひどく恥知らずな行いであるような気がしていた。

 自分を落ち着かせるために、ざわつく気持ちを必死に宥めていた時。

「女が絵なんか描けて何になるんだ」

 グラスを口に当てたまま、ぼそりと父が言った。

 私は父を敬愛していた。口数が少ない分、思慮深くも見える父のことや、彼が時折見せる不器用な優しさが好きだった。だからこそこの言葉は、私に深々と刺さり、たやすく抜けることはなかった。

 その時から私は、自分は何かを誇ってはいけないのだと悟った。

 それから私は何かを望むことをやめた。自分に特別な何かがあると、それが発揮できる機会があると期待することをやめた。どこにでもある封建的な田舎の家の中、のびのびと遊びまわる弟の傍らで、私は母にぴったりとついて、掃除の仕方や、料理や、針仕事の仕方を教わった。「女の子だから」「いずれお嫁に行ったときに、恥をかかないように」そんな風に与えられた何もかもを、私はそのまま受け取った。

 中学生になるころには、母と交代で夕飯を作るようになった。野球を始めた弟のクラブチームのお金を捻出する必要があって、母は時折働きに出るようになっていた。その日は私が夕飯をつくり、洗い物をし、掃除をし、洗濯物をとりこんで畳んだ。えらいわね、いいお母さんになれるわね。そんな周囲の声にも、母はやっぱり「そんなことない、美和なんか本当にだめで」と謙遜していた。

 弟が「少しは勉強しなさい」と言われる傍らで、私に吐かれる言葉は「勉強よりも大事なことがあるんだから」「優先順位を考えなきゃね」だった。その場合の優先順位とは、父の機嫌を損ねないことと、率先して家事を手伝うことだった。

「今どき、女の子にも短大くらいは行かせてあげないと」

 高校三年生の時。母が出した助け船にも、「女に学なんかつけて何になる」と父は静かに言った。「そこまで我を通したいなら頭の一つでも下げたらどうだ」と言われるがまま、私は床に正座して、頭を下げた。

 女に学なんかつけて何になる。女性の社会進出、という言葉が面白がって取りざたされていた当時、その言葉が私の鋳型だった。社会に出て活躍する、という言葉はひどくきらびやかで、だからこそ私の選んではいけないものだった。あれは都会の特別な女の子だけが歩くことのできる道なのだろう。私のようなありふれた人間には、ずっとお似合いのありふれた人生がある。そう思っていた。

 そのころの私は、知識だけが唯一誰にも奪われないことも、知識が身を守る術になるということも、何一つ知らなかった。女に学をつけても意味はない。いつか家庭に入り、子どもを育てるのには、最低限の読み書きさえできればいい。下手な知恵は女をつけあがらせ調子に乗らせるだけだ。そんな周りの人間たちの言葉を、無抵抗に受け入れることでしか、私は存在してはいけない気がしていた。従順さが私の価値のすべてだった。

 土下座をすることもなく大学受験をした弟は、いつしか露骨に私や母を侮るようになっていた。弟を諫める言葉は、私の中にはどこにもなかった。子どものころは弟よりずっと出来がよかったのに、いつの間にか弟にあらゆる面で追い越されていた。男の子は大器晩成だからね、と母は言った。そうか、だから仕方のないことなんだと、自分を納得させるための言葉を、私はまた探した。

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