飛んで火にいる

澄田ゆきこ

第一章 蝉

第1話

「離婚させてください」

 三和土に額をこすりつける。声も身体も情けなく震えていた。夫の怒気がつむじに刺さる。娘のゆかりは、怖がっているのか部屋から出てこない。じっと気配を消している。

 お願いします、ともう一度深く頭を下げた。床についた指がぎくしゃくとこわばっていた。きりきりと胃を絞るような沈黙だけがあった。汗が首を伝って胸元に流れ込む。

 土下座を屈辱的だと思うほどのプライドすら私には残っていなかった。何度この人の前でこうして頭を下げたかわからない。

「もう限界なの」

 ふり絞るように言うと、夫は私の言葉を嘲るような口調で繰り返し、鼻で笑った。脳天に夫の爪先がぶつかる。

「被害者ぶりやがって。毎日食って寝てるだけの豚が、何が限界だよ。お前みたいなクズ人間が離婚してどうするって? 一人で生きてけんのかよ、あ?」

 弄ぶように蹴られる。痛くないわけじゃないけれど、力加減をしているのだ、とわかる。致命的なミスは犯さない、この人の一抹の理性が憎い。

「出て行くならさっさと出て行けよ。寄生虫が一匹いなくなって大助かりだわ」

 私はゆらりと立ち上がる。「まさかゆかりを連れてくなんて言わねえよなあ?」脅すような言い方が耳に刺さる。胸をきつく締め付けられながら、ずっしりとした荷物を肩にかける。

「離婚届は書いてあとで郵送するから」

 果たして夫がそれを役所に提出するだろうか。一度緑の紙を突き付けた時には、目の前で破り捨てられた。出来損ないだ愚図だと罵られて、仕事もしていないお前が一人で生きていけるわけがないと、何もできないお前のことなんかどこに行っても邪魔になるだけだと浴びせられた。

 夫は不機嫌を誇示するように黙っている。そうすれば私が屈するとでも言うように。

「おい、鍵は置いていけよ」

 言われるがまま鞄から鍵をむしり取った。「お世話になりましたの一言もないのか」と言われ、何も考えないようにしながら、オウム返しに口にした。玄関のドアを開ける。引き止められるかと思ったが、その様子はない。代わりに、「もしもし? なんかアイツ出て行くらしいわあ」と、おそらく義母相手に電話を掛けている声がした。何かと自分の母親と比較し、不備があれば逐一報告する夫、それを喜ぶように私を「困った嫁」だという義母。「あらまあ、ゆかりちゃんはどうするつもりなの?」という声が夫の携帯電話のスピーカー越しに聞こえた。「子どものことなんかどうでもいいんだろ、あいつは」

 そんなわけないでしょう、という言葉は、喉までこみ上げるのに声にならない。

 ゆかりのことを考えると、後ろ髪は痛いほど引かれる。しかしもう、この機を逃せば、私はこの家で死ぬか殺すかしてしまう。ゆかりの枕元に立って、この子を殺して私も死のうと思ったことだって、一度や二度ではない。

 年の割に幼いところのある娘は、十歳になった今でも、おねしょや爪を噛む癖が治らない。指しゃぶりをしながら寝ていることもある。いくら言っても忘れ物が減らない。心配なことだらけだ。仕事にかまけて子育てなど見向きもしなかった夫に面倒が見きれるとも思えず、置いていくことは身を裂かれるように辛い。

 けれど、経済的なことを考えると、この子に十分な生活と教育を与えてやれるのは、間違いなく私じゃなく夫の方だ。夫に繰り返されるまでもなく十分にわかっている。私と一緒に来ればこの子は幸せになれない。

 夫の視線がべっとりと背中にまとわりついている。意を決して家の外に飛び出した。門を出てからもずっと、今にも夫が走って追いかけてくるような気がして、足は自然と急いていく。すぐに息が上がって、胸が苦しくなる。それでも足を緩められなかった。

 バスに乗ってやっと、緊張がどっと解けた。私はふらふらとステップを昇り、二人掛けの座席に倒れこんだ。汗でまとわりつく髪をまとめ直す。寒いくらいの冷房が今は心地よかった。バスは低い振動を上げて走り出す。解放されたという気持ちと、娘を置いて家を出た罪悪感とが、交互に押し寄せて心を苛んだ。

 どうしてそんな人と結婚したの。夫のことを相談した人には、よく言われた。そんなことを言われても、結婚して子どもが生まれるまでは普通だったのだ、と言っても、「何か予兆があったんじゃないの」とたいていは信じてもらえない。

 そうやって疑われるたびに、私の中にあった確信も、少しずつ崩れて、揺らいでいく。こんな思いをしたのも気づかなかった私のせいで、自業自得なのかもしれない。私が愚かで間抜けだったせいなのかもしれない。自己否定を繰り返すのは、自尊心を嫌というほど削られてきたからだ。

 ――私さえ我慢していれば、家族は幸福だったのだろうか。

 嫌になるほどくたびれた女の顔が窓に映った。


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