第6話
「おばさん。あたしね、お腹に赤ちゃんいるの」
バス停。日陰にいてもうだるような暑さの中で、不意に美波が口を開いた。手には、先ほどの売店で買ったサイダーの瓶。玉のような雫がガラスを滑り落ちる。
私の動揺は顔に出てしまったのだろう。美波はおかしそうに笑う。
「だからね、今日は、半分は死んでやろうって気持ちで出てきた。相手は雲隠れしやがってどうにもならないし。産めるわけ、ないし」
「……もう半分は?」
「お母さんに会いたい」
父親と、お母さん。呼び方の、ニュアンスのあまりの違いに、私は驚く。
「お母さん、もうあたしのこととか覚えてないかもしれないけど。何年も会ってないから」
「そんなことないよ」
今度は美波が驚いたようにこちらを見た。
「絶対にない」
私は重ねる。
そっか、と美波は肩を落として薄く笑う。
「向こうは再婚して子どもいるらしいし、もう新しい人生始めちゃってるんだよ。父親と血が繋がってるあたしの顔なんて、見たくもないかも」
軽口のような口調。だけど不安なのだろう。飲み干したサイダーの瓶を、手が落ち着きなく弄ぶ。
「大丈夫だよ。母親は、子どものことを忘れたりしないよ」
そんな欺瞞じみた言葉が口をついた。私の立場で――家に子どもを置いてきた立場で、言えることではないかもしれない。客観的に見れば、私はこの子の母親と同じだ。その負い目はわかっているが、だからこそ、確信していた。私なら、ゆかりのことを片時も忘れたりしない。できるはずがない。
「……おばさん、この後忙しい?」
迷子になった子どものような、不安げな表情。美波は躊躇いがちに目を伏せた後、もう一度こちらに目を合わせた。
「お母さんの家まで、一緒に行ってくれない? 途中まででいいから」
母親の家の場所を、美波は紙に書いて持ってきていた。隣の県の小都市。ここからだと、バスと電車を乗り継いで一時間くらいだろうか。そう遠くはなさそうだった。「こうしておけば、携帯取り上げられても大丈夫でしょ?」くしゃくしゃになった紙を撫で、美波が言った。それが、彼女が身を守るために身に着けた知恵なのかと思うと、また切ない。
「ずっと行きたかったんだけど、勇気が出なくて。お守りみたいに鞄に入れてたら、こんなに汚くなっちゃった」
馬鹿みたいだよね、と自虐的な笑み。そんなことないよ、という声が宥めるようになる。大人びているようで、かと思えばひどく幼くて、美波はアンバランスだ。それがどこか危うい。
かき氷と冷房の冷えなどすっかり身体から消えた頃、ようやくバスが来た。私と美波は二人掛けの座席に並んで座った。
「おばさん、ここ大丈夫?」
何のことかと思ったら、美波は私の手首の痣を見ていた。治りかけの、青と黄緑色が混ざった痣だ。いつできたものだろう。この頃、痣が治るのが遅くなった。少し考えて、いつだったか、夫に突き飛ばされた時のものだろう、と気づく。
確か、ゆかりの水筒を出しっぱなしのまま洗っていなくて、夫が腹を立てた時だ。なんてことはない、肩を力任せに押され、バランスを崩した拍子に、手首をドアノブにぶつけたのだ。こんな力でよろめく方が悪いと、夫はばつが悪そうに言い、自室に戻っていた。
「転んでぶつけちゃっただけだよ。もう治りかけだし。大丈夫」
無意識に庇ってしまうのはすっかり癖になっていた。美波は「ならいいけど」と呟き、自分の手首の、ちょうど私が痣を作った辺りを、そっと撫でていた。
「男なんてさ、あてにならないよね」
吐き捨てる声は、私が取り繕ったことなどゆうに見透かしているようだった。
「そう言い切るのはどうかと思うけど」私は苦笑する。
「そう? おばさんの旦那さんもうちの父親もクズ野郎でしょ。『俺が守ってあげるよ』とか調子いいことばかり言ってたうちの彼氏もさ、いざとなるとさっさと逃げちゃったよ。馬鹿みたい」
本当馬鹿みたいだ、と再度呟いた声は、バスのエンジン音がやわらかくかき消した。馬鹿みたい、という声は誰に向いているのだろう。彼氏だった男に向かっているようにも、美波自身に向かっているようにも、どちらにも聞こえた。
汗が冷え、冷風が少しずつ肌寒くなってきた。ぷつぷつと立った鳥肌を、手のひらで撫でおろす。
「元彼さ」目はバスの外を眺めたまま、美波が言った。
「初めて色々相談できた人だったんだ。家のこととか。真剣に聞いてくれて、嬉しかったの」
「うん」
「予備校の先生で、大学生なんだけど、同い年のどうしようもない男子とかよりよっぽど大人びて見えて。素敵だなって思って。そうしたらね、初めて好きだって言ってもらえたの。本気にして、舞い上がって、相手が『大丈夫だから』って言うのをまんまと信用して、そしたらこのザマ」
美波の手が、下腹部のあたりをとんとんと叩く。家のトイレでひとりで検査薬を使った時は、絶望しかなかった。だけどあの人と家族になれるなら、結婚してあの家から逃げられて、好きな人との子どもを育てるのなら、きっとできると思った。なのに、逃げられた。
顔をゆがめることすらなく、美波は淡々と呟く。
苦境にある高校生の少女、それに手を出した大学生の男。そんな人はろくでもない、というのは、大人の立場だったらすぐにわかる。けれど彼女は高校生で、人生経験に乏しく、その上どこにも逃げ場がなかった。縋れるものが、そこにしかなかった。
彼から差し伸べられた手は、救済の光だと思ったのだろう。
「好きなんて言葉、簡単に信じるんじゃなかった」
何度も反芻した言葉なのだろう。感情はとっくに枯れていて、嚙み始めてから時間の経ったガムみたいに味気なかった。
バスのドアが、空気の洩れる音と共に開く。誰かが整理券を取る音。再びドアが閉まり、バスが走り出す。
「その人のこと、好きだったんだね」
美波は「うん」と小さく頷いた。蚊の鳴くような、小さな小さな声だった。
「……まだ好きかもって言ったら、馬鹿だと思う?」
「思わないよ」
美波は八の字に眉を寄せ、かすかに微笑んだ。おばさんは優しいね。そう言ったきり、美波はもう、何も話そうとしなかった。
窓の外の景色がひとりでに流れていく。海はもうとっくに見えなくなっていて、辺りにはビニールシートのかかった畑と、古い民家ばかりが広がる。時折、朽ちかけた空き家と、日に焼けて白くなった看板が見える。駅まではまだ少しかかりそうだ。
会話がなくなってしまうと、思い出すのはゆかりのことばかりだった。今週、あの子は給食当番だったはずだけれど、給食着はきちんと出しただろうか。まだ暑いのに、何度も玄関に水筒を忘れるゆかり。自転車で小学校まで持っていってくれる人がいなくなって、熱中症で倒れないだろうか。
親がいなくても子どもは育つ、と人は言う。学校で、毎日、ゆかりは私の知らないところでも、すくすくと大きくなっている。夫はきちんと娘を育ててくれるだろうか。年頃になったゆかりがもし反発するようになっても、あの人はきちんと受け止めてくれるのだろうか。のんびり屋のあの子が、そんな風になるのは想像がつかないけれど。
ゆかりを連れてきた方がよかったのだろうか。迷いはいくらでも頭を満たす。だけどあの時、ゆかりを連れて行こうとしたところで、そんなことができただろうか。夫は絶対にゆかりを手放さないだろう。
それに、あの子にだって生活がある。何も居場所は家だけではないのだ。学校には友達もいるし、あの子にはあの子の社会がある。親の都合で振り回すのは気が引ける。
もし一緒に連れてきたとして、私にゆかりを養うほどの余裕はない。ひとりならどうにか、何か月か暮らしていけるだけのお金は、口座に残っている。ひとりならいくらだってひもじい思いをしても平気だ。けれど、ゆかりにまで同じ思いをさせるのは、やはり忍びない。
結婚する直前、母は私にひとつ通帳をくれた。「このお金は旦那さんに内緒にしておきなさい」口うるさく何か言うことなど滅多になかった母が、珍しく、何度も念を押していた。何かあった時にあなたを助けるものになるからと。「大丈夫だよ、いい人だから」何も知らなかった私は無責任にそう言った。できれば仕事もやめちゃいけない、と母は言ったけれど、子どもができてから、「子育てと仕事、両立できるの?」という夫の圧に負けて、私はまんまと仕事をやめてしまった。
母はいつかこうなることをわかっていたのだろうか。家から離れられる後ろ盾があればと、母も後悔に苛まれたことがあったのだろうか。傍目からは、両親の夫婦仲はそれほど悪くないように見えていた。自分の気持ちなど言葉にしたがらなかった母の真意は、今となってはもうわからない。四年前、ゆかりがまだ小学校に上がったばかりの時に、母は膵臓を患って亡くなった。今、実家には父が一人で住んでいる。母が死んで間もなくは、心配だから、と月に一度は実家を訪れていたものの、「どうしてそこまでしてやる必要があるの?」「ゆかりと俺のこともあるのに」と夫は不満げで、いつしか実家に足を向けることもなくなっていた。「美和ちゃんがいるから、うちの介護のことは安心ね」別の日に義母は平然と言った。自分の親のことは許されないのに、義両親のことは当然のように私の役割となる。私はこの家の人間になったのだからと、その時は納得しようと努めていたが、今になってやりきれない気持ちが湧いてきていた。
傷と言うのも憚られるほど小さな傷は、けれども一つ一つを鮮明に覚えている。
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