第9話
お父さんは弱い人なんだよ、とお母さんは言った。中学生の時だったと思う。わたしたち二人の生傷だったお父さんのことを、やっと語れるようになったときのことだ。わたしたちは一緒に洗濯物をたたんでいた。
「弱い?」
お父さんの態度のそれとはあまりに結び付かなくて、わたしはまじまじとお母さんの顔を見た。お父さんはいつも強気だった。怒る時は怖いけれど、豪胆で、話がうまくて、普段はたぶん「いい父親」だった。自分は仕事ができるのだと事あるごとに豪語していたが、外の人に対してはたぶん、人当たりも評判もよかった。
「本当に強い人はね、自分の強さをひけらかしたり、認めさせたりするようなことをしないんだよ」
お母さんの手がきっちりとタオルをたたんで、重ねる。
「お父さんは、よく怒鳴ったでしょう」
「うん」
「怒り方もさ、自分のことを馬鹿にしてるのかっていうのが多かったでしょう」
「……そうだね」
お父さんは、一瞬でも、人から見下されている、と思うのが我慢できない人だった。言われたことを一回でできないだけでも、それは自分を見くびっているからだろうと決めつけて、怒鳴った。それで、威圧するみたいにモノに当たったり、「俺のことをナメてるなら出て行け」と理不尽なことを言ったりする。お決まりの流れ。
お母さんは、お父さんがそんな態度をとるのを、不安だからだと言った。不安だから強く出て、従わせて、自分の権威を確かめようとするのだと。そうすることで、自分が周りから大事にされていると思いたい人なのだと。
逆説的ではあるけれど、お父さんは人一倍強くあろうとする人だった。男なんだから強くあれ、と言われて育った人だったから、そうじゃないといけないと思っている。テレビを見ている時もそうだったけれど、なよなよしている男の人とかは、人間じゃないとまで言う。だから、自分の弱さを認められなかった。相手が思い通りにならないと、すぐに侮られていると思う。被害者意識は膨らむのに、傷ついた気持ちや悲しみは、全部が怒りになって表出する。
お父さんはいつもそうだった。お母さんが出て行った時は、特にそれが顕著で、ひどくて、わたしはとても苦しかった。
お母さんがいなくなってしまった夜、お父さんはものすごく、荒れた。日が沈んで真っ暗になってしまっても、リビングの電気もつけずに、普段よりたくさんのお酒を飲んで、顔を赤黒くしていた。グラスを置く音、氷をガラスのコップに入れる音、冷蔵庫を閉める音。全部が全部乱暴で、自分が怒っていることをアピールしているみたいだった。お父さんは怒るとよく大きな物音を立てることがあったけれど、この日はいつもよりずっとずっとそれがひどかった。この時のお父さんも、きっと傷ついていたのだろう。曲がりなりにも、お母さんが出て行ってしまったことが、悲しかったんだろう。今ならそんな風に思えるけれど、当時は恐怖を感じる以外に、なにも考えられなかった。
わたしは真っ暗な家の中で、ひっそりと息を殺していた。優しい時のお父さんは、明るくてとても楽しい人なのに、こうなった時のお父さんはまるで別人だ。できれば近づきたくなかった。
別のことを考えなきゃ。物音が聞こえるたびに心臓が跳ねる。週明けに提出だった宿題があるのを思い出し、机の上に広げてみたけれど、手を動かそうと思っても、全然集中できない。目が上滑りするばかりで、プリントの内容が全く入ってこない。
机の上には、誕生日にお母さんが買ってくれた新しい筆箱があった。うさぎのぬいぐるみの形の筆箱。「かさばるし、ペンもぜんぜん入らないし、すぐ汚れるし、こんなの高学年になっても持ってたらおかしいよ」とお母さんは言ったけれど、ねだってねだって、ようやく買ってもらったものだった。黒くて真ん丸な目がすごくかわいくて、ふわふわがすごく触り心地がよくて、とても気に入っていた。
心臓のどきどきを抑えるために、わたしは筆箱をぎゅっと胸に抱いた。たれ耳のうさぎの頭を優しく撫でる。大丈夫。お母さんはきっと帰ってくる。わたしを置いて行ったりしない。
今すぐお母さんと話したいと思った。
しばらく椅子の上にうずくまって、じっとしていた。じわりと涙が出てきそうで、出てこない。それが余計に苦しかった。
部屋から出ないように我慢していたけれど、そのうちどうしてもトイレに行きたくなった。お父さんに見つかりませんように。祈りながらトイレを済ませ、さっさと部屋に戻ろうとしたら、「ゆかり」と声がした。見えない手で掴まれたみたいに、身体がぎゅっと強張って、動かなくなる。
「引きこもってんじゃねえよ、感じ悪い」
「……ごめんなさい」
お父さんは「そこ座れよ」とリビングの椅子を目で示す。テーブルの上には、お父さんの飲んでいたお酒のコップの跡が、輪っかになっていくつも残っている。
「……あのね、今日ね、宿題が、あって」
言い切る前に、深い溜息が遮った。
「そんなの昼間のうちに終わらせとけよ」
「昼間からやってたんだけどね、」
「昼間からやっててまだ終わってねえの?」
お父さんの声が鋭くなって、わたしはまた失敗したんだと気づく。つくならもっとマシな嘘をつけばいいのに、咄嗟に出てくる嘘の精度が低くて、すぐにボロが出てしまう。
「そういう奴なんて言うか知ってるか? のろまって言うんだよ」
がたん、と音を立てて、お父さんが椅子に座る。そのままわたしの拒否権はなくなった。わたしは恐る恐る椅子を引く。わたしの一挙一動がお父さんを苛立たせてしまう気がしたけれど、そうやって怖がるのすら気を逆撫でさせることも知っている。知っていても、どうにもならない。
「今日お母さんが出て行ったよな。お前も聞こえてたんだろ?」
「……うん」
声が重くなる。「どう思った? 正直に話してごらん。何を言ったとしても俺は怒らないよ」絶対に嘘だとわかりきっていることを、お父さんは妙に優しい声で言う。
なんて言ったらいいのかわからなくて、わたしは言葉を探しながら、目を泳がせた。何も言わないでいると、お父さんがどんどん苛立っていくのがわかる。
「……ちょっと、寂しい」
お父さんはわたしがそう言った途端、また優しい顔に戻った。その穏やかさが不穏だった。「そうだよな。当たり前だよ」お父さんの大きな手が、頭をそっと撫でる。「お母さんがいなくなったら、寂しいよな」
我慢していた涙が、じわりと上がってくる感覚がした。泣くことがお父さんの期待にますます応えたらしい。満足そうに目が細まるのを見て、わたしはどうしてか、ぎゅうっとお腹が痛くなった。
鬼の首を取ったよう、という言葉を覚えたばかりだった。それってつまり、こういうことなのだろう、と直感的に理解する。
「あいつは、お前を寂しがらせるような、最低な親なんだよ。わかるな? あいつはお前を捨てたんだよ。あいつは母親失格なんだ」
違う、という言葉は、喉まで出て来るのに、声にならなかった。お母さんががんばっていることは、辛い思いをしながら耐えていることは、わたしが一番知っているのに。わたしは、お母さんが好きなのに。
「あいつが出て行く前、俺はなにか間違ったことを言ってたか? 洗面所のタオルかけにタオルがなかった。タオルなんて十秒もあればかけられるのに、家にいるだけのくせにそれをしてなかったあいつはなんだ? そう言ってやったらいきなり『離婚させてください』だよ。あいつは頭がおかしいんだよ、わかるだろ?」
唇をぐっと噛む。
だったらお父さんが、タオルを出せばよかったのに。せめて、「なんでこんな簡単なこともできないんだ」なんて、意地悪な言い方をしなくてもよかったのに。お母さんが我慢ならなかったのはきっと、お父さんの注意より、その言い方だ。それから後にずうっと、自分の失敗を責め続けられて、何時間も正座で怒られて、トイレすらいかせてもらえないことだ。その後に、「お前のせいで飯が遅れた。あーあ、腹減った」って当てつけのように言われることだ。ずっとずっと何年も、わたしが生まれる前から、それが続いてきたことだ。
言いたいことはたくさんあるけれど、それを言ったらお父さんは間違いなく、手が付けられないほど怒って、暴れる。お母さんを助けるつもりで口を出して、コップを投げられたことがあるから、知っている。ガラスのコップは簡単に砕けて、もう少しで怪我をするところだった。その後はなんでか、黙って破片を集めていたお母さんにも怒られた。「お父さんがああなった時は、下手に刺激したらだめなのよ」と。
「もう一度聞くよ。俺は何か間違ったこと言ってるか? タオル一つ出せない人間にそれを指摘したことは何か間違ってたか?」
――お父さんはいつだって、自分が一番正しい。
せめてもの抵抗に、首を横に振るとき、わたしは声を出さなかった。それでも、自分のした行為がひどく罪深いもののような気がして、お母さんを裏切ったように思えて、息が詰まりそうだった。
それからもお父さんは、お母さんがいかに人間としてだらしないか、お母さんがいかに弱い人間で、わたしを捨てて逃げたろくでなしで、母親失格のクズなのかを、言葉を尽くして説いた。わたしが本心から納得できないでいるのは感づいていたのだろう。お父さんの言葉はまるで、物わかりの悪い子どもに言い聞かせるみたいだった。自分の手中に入れようと、わたしを口説こうと必死だった。それでも怒鳴ったりしないだけまだマシかもしれなかった。
解放されたのは夜の二時近くだった。そんな時間まで夜更かししていたのは初めてだった。明日は学校なのに、いつも通り六時半に起きられるか、すごく不安だった。目を閉じるとチカチカするほど疲れていたけれど、眠気は全く訪れる気配がなくて、その夜、わたしは生まれて初めて徹夜をした。
次の日はまるで世界が変わってしまったように見えた。寝不足で身体がふらふらして、太陽の光が眩しい。登校の途中、お母さんと子どもの二人連れを見かけただけで、涙が出そうになった。誰にも、何も言えなかった。誰にも言わないでいたけれど、こんなにつらいのだから誰かが気づいてくれるかもしれないと思ったのに、誰も気づいてくれなかった。嫌になるほどいつも通りの一日だった。違ったのはわたしの家と心の中だけだ。雲の観察をしながら昨日のことを思い出していたら、「ゆかりさん、またぼーっとしてる。集中しようね」と先生が腰に手を当ててこちらを見ていた。先生はなんでもお見通しなんてことはないんだなとぼんやり思った。
どうしてわたしは、行かないでって言えなかったのだろう。じっと部屋に隠れてしまったのだろう。何度も何度も噛みしめた後悔は、何度噛んでもまだ苦い味がした。自分は世界で一番不幸な子どもで、同じくらい罪深い子どもだと思った。道徳の授業でやった、アフリカの飢えた子どもたちや、戦争で前線に立たされる子どものほうが、ずっとずっと可哀想だとは頭ではわかっているのに、誰にも憐れんでもらえない自分が余計に可哀想だと思った。そうして自己憐憫に浸ることでしか、わたしは心を守れなかった。
だから、お母さんが迎えに来てくれた時、わたしは世界で一番幸福な子どもだと思った。
一緒に来るかどうか訊かれた時、わたしは考えるまでもなく「うん」と頷いていた。友達と離れるのは悲しいし、できれば三人でまた暮らしたい。だけどそれが無理だとわからないほど、子どもではなかった。
滅多に乗らないバス。お母さんはわたしを迷いなく窓際に座らせる。しばらくすると、ガードレールの外に、きらきらする海が見えた。いつだったか、お父さんが釣りに連れて行ってくれたことを、その時思い出した。最初はわたしを喜ばせようと、釣りがいかに楽しいかを教えてくれていたお父さんは、わたしが餌のみみずが怖いと言うと、「もういいよ。わかったよ。喜ばせようと思った俺が馬鹿だった」と、途端に機嫌を悪くし、その一日はずっと最悪だったこと。
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