第二章 蜂

第8話

「うーん、やっぱりアルバイトはねえ。おうちが母子家庭で大変だっていうのはわかるんだけど、ひとりだけ、特別扱いはできないからねえ」

「はあ……」

「勉強に支障があっても困るし……。水野さん、特講ひっかかってるでしょう。アルバイトよりそっち頑張った方が、お母さんも喜ぶんじゃない?」

 担任の深谷先生はそう言って、ふさふさの眉を困ったように寄せて、笑った。話が長くなりそうだったけれど、適当なところで切り上げる、というのができなくて、なんとなく聞いているうちに、昼休みは半分を過ぎてしまった。

「大丈夫、聞いてる?」

 ぼうっとしていたわたしの顔を覗きこんで、深谷先生が尋ねる。「水野さん、ちょっと抜けてるところあるからねー。しっかりね」これで話は終わり、の合図なのか、先生はそのまま、椅子をくるっとデスクの方に向けてしまう。

 よたよたと教室に戻ると、わたしを見つけた茉(ま)優(ゆ)ちゃんが、「おーい、ゆかり」と手を振ってきた。お弁当はもう食べ終わっていたようで、机の上に乗っているお弁当箱には、ギンガムチェックのナフキンがきゅっと結ばれている。傍らにこんにゃくゼリーの空き容器。

「おつかれー。面談、長かったじゃん」

「うーん。長引いちゃった。ご飯食べ終わるかなあ」

 机の横からお弁当箱を取り出す。「何がそんなに長引いたのさ。素行不良ってわけでもないのに」茉優ちゃんの隣に座っていた李音(りおん)が、スティックパンをかじりながら尋ねる。

「あのね、バイトしてもいいか聞こうと思って」

「え、聞いたの? ばっかだなー」と茉優ちゃん。「そういうのは普通、黙ってやるんだよ。聞いたらダメって言われるに決まってんじゃん」

「そうなの?」

「そうだって。ねえ」

 茉優ちゃんが李音に目配せをする。

「まあ、校則で禁止されてる以上は、先生はオーケーとは言えないよね。正面から聞いちゃうのがゆかりちゃんっぽいな」

「うーん」

 そうは言ってもお金は足りないし、家庭のことを話したら、わかってもらえると思ったんだけどな。なんて、言い訳にもならに言い訳を、お弁当の冷えたおかずと呑みこむ。

「いいから、ゆかりはさっさと食べなさい。食べるの遅いんだから」

「はあい」

 茉優ちゃんはしっかりしているから、わたしはまるで妹みたい。予鈴に急かされながら、わたしはもそもそとお弁当を食べる。途中、取ろうとしたミートボールがつるっと滑って落ちた。「おわっ」慌ててキャッチする李音。「もー、小学生かっ」茉優ちゃんが突っ込む。

 授業の三分前になって、教室の外にいた子たちもぱらぱらと戻ってきた。「ゆかり、もうあきらめな。授業始まるよ」「待ってよお」「先生は待ってくれないから。ほら」茉優ちゃんの手がわたしよりもてきぱきとお弁当の蓋を閉じていく。李音も横から手伝ってくれた。お弁当箱をしまい終わった時、先生がちょうど教室に入って来た。

「ギリギリセーフだったね」

 さえずりみたいに囁いて、李音はわたしの右隣の席に戻る。

 高校に入ってから初めてできた友達。だけどこれじゃ、友達というより、一方的にお世話をしてもらっているだけだ。ふがいない。頬でシャープペンシルをついていたら、にゅっと影が視界を覆った。化学の先生がじとっとした目でこちらを見ている。

「水野さん、教科書違うよ」

 人差し指でとんとんと叩かれた教科書は、今の授業の化学基礎じゃなくて、よく似た物理基礎の教科書だった。視線が集まっていることに気づいて、顔が熱くなった。わたしは顔を伏せながら教科書を探す。

 ばつが悪いことに、探しても探しても、教科書は見つからなかった。二つ前の人が当てられている。この先生の当て方だと、次の次はわたしだ。焦りで頭がいっぱいになる。

 つんつん、と背中をつつかれた。振り返ると、ないの? という形に李音の口が動いた。泣きそうな目で頷く。

 仕方ないなあ、という風に李音は笑って、黙ってこちらに机をくっつけてくれた。二つの机の真ん中に置かれた教科書には、あちこちにフィルムの付箋が貼られていて、しっかりマーカーが引かれていた。席が近くなって、肩と肩の距離も近くなる。

 九死に一生。わたしはまた助けられてしまった。



 入学したての時、わたしにはまるで友達ができなかった。わたしは何をするにも人より一歩遅れてしまって、焦るほどうまくいかなくなってしまう。そんなだから人のペースに合わせるのも苦手で、エネルギーたっぷりにはしゃぐ女の子たちの仲間には、最初、ぜんぜん入っていけなかった。

 男の子みたいなベリーショートとスラックス姿の李音は、最初、みんなからどこか遠巻きにされていた。名簿では女子に入っているし、背はわたしと同じくらい。けれど少年然とした姿は、先進的でスタイリッシュだった代わりに、みんなから敬遠される要因にもなった。「一人称がぼくなんてイタい」「キャラ作りすぎじゃない?」と陰口を叩く人もいた。みんな、どう接していいのかわからなかったんだと思う。だけど本人はどこ吹く風で、いつも堂々としていて、かっこよかった。足がすごく速くて、体育祭ではリレーの選手にも選ばれていた。

 そんな李音を遠くから眺めていたら、ある時、向こうの方から声をかけてくれた。「その本、いいよね。ぼくも好き」わたしが読んでいた文庫本の表紙を見て、李音はさらりとそう言った。好きなものを好きとあっさりと言えるのが、わたしは最高にかっこよく思えた。

 それから少しずつ李音と仲良くなって、移動教室や昼休みを一緒に過ごすようになった。李音はわたしを「ゆかりちゃん」と呼んだけれど、わたしは李音をなんて呼んでいいかわからなくて、最初、戸惑った。そうしたら李音は「ただの『李音』でいいよ」と爽やかに微笑した。あまりにも笑顔がハンサムで、眩しかった。

 そのうち、きらきらしたグループから抜けてきた茉優ちゃんが、わたしたちに混ざるようになった。茉優ちゃんは四人兄弟の長女で、兄弟の面倒を見なきゃいけないし、無駄遣いもできない。だけどそのせいで「付き合いが悪い」と言われていづらくなってしまったらしい。「まー、あの人たちは、放課後スイーツとか食べておしゃべりしてるのを『青春』だと思ってるから。そこに出し渋るような人間は『お友達』じゃないんだって」茉優ちゃんがそう言う時、まったく未練がなさそうなのが不思議だった。なんでも、「茉優はおしゃれだったから誘ってあげたのに」と言われたのが癪だった、らしい。

 ボーイッシュで飄々としている李音と、ちょっと派手でさばさばした茉優ちゃんと、どんくさい、とよく言われるわたし。高校生になってから初めてできた友達グループは、見るからに寄せ集めでちぐはぐで、だけどどこか心地いい。

 それはたぶん、皆の家庭環境がどこかしら似ているからでもあるのだろう。

 わたしは母子家庭。李音はお母さんがいなくて、父子家庭。茉優ちゃんは両親がいるけれど、いつも喧嘩をしてばかりで、茉優ちゃん曰く「お金だけ稼ぐけど、喧嘩と散財意外に何もしない」。お母さんは専業主婦だけどいつも習い事とお買い物で忙しそう。なのに参考書は「お金の無駄」と買ってもらえない。何もしない両親の代わりに、家の中はいつも茉優ちゃんが回している。

 周りの子は、そうじゃない。少なくとも、そうじゃない、ように見える。腐っても進学校なだけあって、みんな頭がいいだけじゃなく、育ちもいい。みんな仲の良いお父さんとお母さんがいて、塾やら予備校やらに当たり前に通っていて、お小遣いをもらえて、ねだれば必要なものは買ってもらえる。親は理不尽に怒ったり、暴れたりしない。お金がかかるからと進学に渋い顔をされたりもしない。茉優ちゃんみたいに、家事や兄弟の世話を請け負うこともなければ、李音みたいに生活費を自分で稼いでいたりもしない。だからわたしたちは、単なる友達というよりは、高校生活と言う名の戦場を生き抜く戦友みたいだと思う。



 今日も深谷先生は、ホームルームの話が長い。中身はたいがい同じで、皆さんが学校に通えて勉強できるのもおうちの人のおかげなのだから、サポートしてくれるご両親に感謝しましょう、というものだった。これは荒れるな、と思ったら、ホームルーム後、案の定茉優ちゃんはキレていた。

「あいつホントおめでたいよね。こっちなんか妨害しかされないのにさ、サポートしてくれるご両親なんかいねーよばーか」

「茉優ちゃん落ち着いて」この距離だと深谷先生には聞こえているはずだ。ひやひやするわたしを「落ち着いてられっか」と茉優ちゃんがバッサリ切る。

「どいつもこいつも親に甘えられると思ってんでしょあのジジイはさ。みんな両親がそろってて『よちよち勉強しようねーえらいねー』ってなんでもやってもらえると思ってんだよ。こっちは親をよしよししなきゃいけないのにさ。馬鹿じゃないの」

 茉優ちゃんの目は明らかに深谷先生の方を見ている。深谷先生は別の生徒の対応をしていて、こちらを見てはいないけれど、きっと聞こえてる。聞かせているのだ、とやっと私は気がつく。

「親だからってイコールまともなわけないのにね。子どもなんて生でやるだけで簡単にできんだから」

「ま、茉優ちゃん!」あまりに明け透けな言い方に、わたしの方が恥ずかしくなる。

 深谷先生が去ってから、茉優ちゃんは忌々しげに教卓を一瞥し、軽く爪先で蹴った。

 茉優ちゃんはきっと傷ついているのだと思う。先生の言うことはあまりにも一般論で、例外の生徒のことをないものにしてしまうものだから。けれど茉優ちゃんは気が強いから、傷ついた気持ちからうじうじ沈むわたしと違って、それが怒りに転化する。

 その姿が少しだけ、お父さんと重なって、ひやりとする。

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