第10話

 わたしを置いて逃げたお母さんを「母親失格」と罵ったお父さんは、わたしを連れて逃げたお母さんを「誘拐犯」だと言った。

 お母さんと二人で暮らし始めて、何週間か経った頃だった。転校した先の学校に、ようやく迷わずに行けるようになって、クラスでも少しずつ「お客さん」じゃなくなってきた時。算数の授業を受けていたら、急に先生がわたしを呼びに来た。おうちの人が来ているから、帰りの支度をして職員室までおいでと。

 周りの好奇の視線を感じながら、わたしはもたもたと荷物をまとめ、職員室に向かった。お母さんが来ているのかと思ったら、待っていたのはお父さんだった。驚きと戸惑いで喉がひゅっと縮んだ。何も知らない先生は、わたしの反応にどこか怪訝そうにしている。「ゆかり、帰るぞ」お父さんの声が怒気を孕んだものになっていたから、反射的に頷いて、わたしは急いでお父さんについていった。そのまま車に乗せられて、前の家に戻った。

 お父さんの言うことはコロコロ変わった。「お母さんとはちゃんと話すことになってるから。また三人で普通に暮らそうな。その方がゆかりだって嬉しいだろ?」と言ったかと思えば、「お母さんは誘拐犯なんだ。子どもを無理やり連れ去ったんだから。そんなクズと一緒に暮らすなんてゆかりも嫌だろ?」と言うこともあった。一貫しているのは、とにかくお母さんが全部悪くて、自分は何も悪くない、ということだけだった。お父さんは運転の間ずっとイライラしていて、前の車が思い通りに動かないと、すぐに舌打ちをした。

 車に乗せられている間、わたしは生きた心地がしなかった。何も言わないわたしにお父さんは不満そうだったけれど、車酔いで気持ち悪いからと言うと、「ゆかりは昔から乗り物弱いもんな」と、なぜだか嬉しそうに言った。窓をあけたり、ジュースを買ってくれたり、お父さんは大袈裟なくらいに世話を焼いた。そうすることが楽しくて仕方ないように見えた。

 家に帰ってから、しばらく学校には行かなくていいと言われた。毎日のようにピザやお寿司の出前をとってくれた。「こんなものお母さんの稼ぎじゃ食べられないだろ?」と。大袈裟に喜んだふりをしないといけないと思い、わたしは明るい声音を繕った。おいしいはずのピザもお寿司もちっとも味がしなかった。キッチンには日に日に容器のゴミが溜まって重なっていった。

 わたしがおやすみを言って部屋に行ったあとは、毎晩、電話での口論が聞こえた。相手がお母さんなのは間違いがなかった。「お前、自分が何をしたのかわかってないだろ」「お前のやったことは誘拐と同じなんだよ」自分も同じことをしたのに、お父さんは何度もそう怒鳴った。その矛盾にすら気づかないことがなおさら怖いと思った。

「明日、お母さんが来るからな」

 何日目か、夕ご飯を食べている時に、お父さんが言った。猫なで声の優しい声。お母さんが出て行った日の夜と同じ、雨が降る前の風みたいな、ぬるくて不穏な声だ。

「話し合いをするんだ。人間には口があるんだから、何も言わず連れて行くなんて卑怯だし最低なんだよ。本当はもっと早くこうしなきゃいけなかった。――家族の話だから、ゆかりもいるんだよ。わかったな?」

 わたしはこくんと頷く。お母さんの悪口を聞くのは、慣れるどころか、日に日に胸に黒いものが溜まっていく。否定をしないことは同意することときっと同じだ。少しずつ、身体の中に、黒い水が注がれていく。

「あいつは家族から逃げたんだよ。家族は一緒にいるべきなのに、逃げたんだ。逃げるならあいつだけが出て行くのが筋なのに、ゆかりも巻き込んだ。お前も辛かったよな。ごめんな、親の都合で振り回して」

 わたしは首を横に振る。「いいんだよ、気を遣わなくて」お父さんは優しく頭を撫でようとする。

 苦しさはもう限界だった。喉まで黒いものが押し寄せてきそうだった。

「違うの」

「何が違うんだ? 言ってごらん」

 言い方は優しいけれど、さっきまでと明らかに声色が変わった。

「わたしがね、お母さんと一緒に行きたいって言ったの」

 言ってしまった。取り返しがつかなくなってしまった。お父さんは続きを促すようにこちらを見ている。怒った顔ではないけれど、目が全く笑っていない。

「お父さんとお母さんが、一緒に暮らせることは、もうないんでしょう? だったらわたし、お母さんと一緒に暮らしたい」

 こんなことを言ったのは初めてだった。

 いい子でいなくちゃいけないと思っていた。お母さんに悲しい思いをさせるのが嫌で、わたしはずっと、いい子を務めないといけなくて。だけどこれ以上お母さんが馬鹿にされるのは、嫌だ。

 絞り出した勇気は、お父さんの目に射すくめられて、しゅわっと消えそうになる。けれどわたしは、膝に爪を立てながら、必死に自分を奮い立たせる。

「お母さんにそう言えって言われたのか?」

 お父さんの声音は意外にも穏やかだった。はっきりと否定すると、今度は「あいつと一緒にいたから洗脳されたんだな。可哀想に」と溜息をつかれた。わたしはぶんぶんと首を振る。

「お母さんは、なんにも言ってないよ。わたしが、自分でそう思ったから、言ったの」

 お父さんの顔は、少しずつ、怒りの色が濃くなっている。

 怖いけれど、元には戻れない。何を言われても、脅されても、わたしはもう、お父さんの味方のふりをするのは無理だ。

「何が不満なんだよ? 俺はあいつと違ってまともな生活をさせてやれるよ」

「……お父さんは、お母さんの悪口言うから」

「クズをクズって言って何が悪いんだよ」

「そういうのが嫌なの!」

 大きな声を出した途端、視界がぐるりと回った。

 目の前にテーブルの天板と自分の爪先。

 お尻と背中に衝撃。

 ものが倒れる音。

 わたしは床に転がる。

 椅子を蹴り倒されたのだとわかるまで、少し時間がかかる。気づくと父さんの身体が視界を覆っていた。襟首をつかまれて、お尻が床から浮く。苦しい。

「なんだてめえこの野郎」

 お父さんがお腹の上に乗った。首にかかる力が、ぎり、と強くなる。

「何様のつもりだよクソガキがよ」

 いたい、という言葉が口から洩れた。「そうか痛いかよ」お父さんは鼻で笑い、同時に頬を叩かれる。抵抗ができない状態で、何度も。叩かれる痛みより、その度に派手な音がする方が怖い。

 身がすくんで、動けなくなる。涙が目じりから零れて、耳に入りそうになる。

 わたしが身をよじると、お父さんは余計に力強くわたしを抑え込む。

「てめえも恩を仇で返すのか」

 しゃくりあげる自分の声が耳障りだった。俺をコケにしやがってと、もう一度平手が頬を打った。手のひらは水平に顔を打ち、直後、耳の中でびりっと衝撃が走った。直後、どろりと何かが流れ出る、すごく不快な感触がした。

 それからどうやって寝たのかはよく覚えていない。ただ、朝起きると枕に血がついていた。痛みは微かだったが、耳鳴りとめまいがひどかった。いつまで寝てんだと起こされて、支度をしている間、ずっと気持ち悪くて吐きそうだった。そう言ったら、大袈裟だとか被害者ぶってるとか言われた。悲しみはもう身体から湧いてこなかった。

 お昼のそばを食べた後、お母さんが家に来た。お母さんはわたしの顔色を見るなり青ざめて、「どうしたの?」とわたしの肩を掴んだ。朝起きたら耳から血が出ていたこと、昨日びりっと来た方の耳がもわんとして聞こえづらいことを言うと、話合いは中止になって、すぐに耳鼻科に連れていかれた。お父さんは不満そうだったが、このまま難聴になったら困るからと、お母さんが押し切った。大袈裟だと言いながら、またゆかりを勝手につれていくかもしれないと言って、お父さんも同行した。

「ゆかり」

 診察室に入る前、お母さんがいない隙に、お父さんがまっすぐわたしを見た。

 お父さんの要求していることは、口に出さなくてもちゃんと届いた。要するに、もしお医者さんに何か訊かれても、内緒にしろということだ。わたしは恐怖で操り人形になる。自分の意志はそこにないのに、頷いてしまう。

 診察室にはお父さんもお母さんも来た。片方の耳はよく聞こえなくても、もう片方の耳から、二人が言い争う声はよく聞こえていた。おばあちゃんのお医者さんは、耳に丸い機械を入れて耳の中を見た後、聞こえの検査をするからと、わたし一人を奥の部屋に連れて行った。

 小さな防音室に、お医者さんと二人で入る。そのまま検査をすると思ったら、お医者さんは丸椅子に座ったわたしと同じ目線に腰を落とした。

「ゆかりちゃん。ここは先生とゆかりちゃん以外、誰もいないし、外には何も聞こえない。だから、お父さんお母さんのことは気にせず、正直に答えてほしい。

 ――ゆかりちゃんは、右の鼓膜が破れているの。何か心当たりはある?」

 ひやり、とした。どうしたらいいのかわからず、思わず周囲を仰ぐ。何も助けになるものはない。耳は相変わらず唸るような音がして、気持ち悪い。

「……転んだの」

「本当に?」

 本当のことを言うかどうか、迷った。言ったらきっとお父さんはすごく怒る。病院から帰って、お母さんもいなくなってから、誰もいないところでわたしをめちゃくちゃに叩くかもしれない。肩が強張っている。うん、と一度頷くだけなのに、どうしても頭が動かせない。

 わたしはぎくしゃくと、首を横に振る。嘘をついたことを怒られるのではないか、と思ったけれど、お医者さんは「よく言えたね」優しく微笑む。その瞬間、はら、と涙が落ちた。一度溢れると止まらなくて、大粒の涙と共にたちまち嗚咽が漏れた。自由にならない呼吸の隙間で、お父さんが叩いた、という言葉が形になるには、長い時間がかかった。顎も唇も喉も震えて、もはやちゃんと発音できてなかったけれど、お医者さんはきちんと聞き取ってくれた。

 わたしはそのまま別室に連れていかれた。傷はそれほど深くなかったそうで、簡単な処置をしてもらう。耳を押さえていてね、と言われて待っている間に、お母さんが呼ばれる声と、「親権者は私ですが」と遮るお父さんの声とがした。「お母さんに、お話があります」とお医者さんはきっぱりと言った。それからしばらくして、お母さんがわたしと同じ部屋まで来た。

 お医者さんはそれから、大人向けの落ち着いた調子で、ゆっくりと話をした。わたしの鼓膜が破れていたこと。わたしが、お父さんに叩かれたと言っていること。本当なら、診断書を書いて警察に届けられること。お母さんはショックを受けた様子で、「本当なの?」とわたしの顔を覗く。わたしはこくりと頷く。

 お母さんは今にも泣きそうに「ごめんね」と言い、わたしを掻き抱いた。

 通報は病院の人がしてくれた。わたしとお母さんは、お父さんと別々に警察で事情を聞かれた。「自分に都合のいいことだけ喋りやがって」いつかすれ違った時にそう言われたのが忘れられなかった。被害届を出すかと訊かれて、お母さんは迷わず「はい」と言った。


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