第12話

 ゆかりんとこは離婚してるからいいよね、と茉優ちゃんに言われた。

 放課後。教室で机をくっつけて、三人でだらだら課題をやっていた時だった。外から部活の喧騒が遠く聞こえていた。わたしたちの関われない、正しい「青春」みたいな音。

 茉優ちゃんはホームルームの時から、どことなく機嫌が悪い。それはたぶん、深谷先生のせいだけではないと思う。昨日何かあったの? そう訊くだけでいいはずなのに、機嫌を悪い人を前にすると、わたしの身体はどうしても強張ってしまう。

 茉優ちゃんはしっかり者で頼もしくて優しくて、だけどたまにこうなることがあるのが、少しだけ苦手だ。

 李音も気づいているみたいだ。目配せをすると、険しい顔の李音と目が合った。

「昨日、なんかあったの?」

 わたしの代わりに李音が訊いてくれた。

「別に」茉優ちゃんの反応はそっけない。

「いつも通りだよ。しょうもないことでギャーギャーわめいて、喧嘩して。物とか投げるしマジでうるさいし、母親は慰めてもらいたくて部屋に籠るし、チビたちは空気読まないし」

 茉優ちゃんは苛立たしげに、ノートにシャーペンを突き立てる。小さな黒い丸が余白にいくつもできていく。

「ヒステリーになった母親を宥めるのはいつもあたしの役目なんだけど。不幸話と父親の愚痴ばっかり聞かされるのがいい加減ダルくて、『そんなに嫌なら離婚すればいいじゃん』って言ってやった」

「言ったの?」

 驚いたわたしに、茉優ちゃんの鋭い視線が刺さる。「言ったよ」声音にはやっぱり苛立ちが滲んでいる。

「どうだったのさ」

 むすっとしている茉優ちゃんに、李音が水を向けた。

「だいたいわかるでしょ。それができたら苦労してないとか、そんなことできるわけがないとか、こっちは子どものために我慢してるのにとか、そんなこと言ってますます不幸に酔って泣くだけ。そうしているのが気持ちいいだけなんだよねあの人は。本当に不毛。生産性がない」

「……大変だったね」

「そ。だからゆかりが羨ましいの。ゆかりのお母さんはさ、目の前の選択肢をちゃんと見て選べる知能がある。ちゃんと会話も通じる」

 なんて返事をしたらいいのかわからなくて、わたしは曖昧に笑って受け流す。

 宿題の数学の問題集は、あまり進んでいない。わからない問題に突き当たってしまうと、考えても考えても解法が浮かばなくて、手を動かせなくなってしまった。

「ゆかりちゃんとこは親子仲もいいよね」

「そうかな」

「喧嘩とかしないの?」

「あんまり。……お母さん、わたしにちょっと遠慮してるとこあるから。甘いんだと思う」

 記入の必要な書類をギリギリに渡したり、ご飯を炊くのを忘れていたり、お弁当箱を出さなかったりで、ちょっとした小言があるのはいつものことだ。けれどお母さんは、あまり強く叱らない。お母さんが出て行ったあの時から、わたしとお母さんの間には、詰めることのできない距離がある。他人行儀なまでに気を遣おうとするお母さんに、わたし自身もどこか遠慮してしまう。だから、近すぎてぶつかり合うこともない。

「それに、お母さん、頑張りすぎて精神的に疲れやすいから。わたしが支えてあげなきゃ」

「それって共依存じゃない?」

「え?」

 唐突な茉優ちゃんの言葉に、わたしはぽかんとするしかなかった。「だからあ」うんざりしたように茉優ちゃんが重ねた。「仲いいのは結構だけど、べったりしすぎて共依存になってるんじゃないのって。お互いに、自分がいなきゃだめだ、ってさあ」

「茉優ちゃん」

 李音が強い口調で言って、茉優ちゃんを見た。茉優ちゃんはばつが悪そうに目をそらす。茉優ちゃんの頭から、ゆらり、と苛立ちが立ち上る。

「本当のことでしょ」

「さっきからゆかりちゃんに強く当たるの、やめなよ」

 李音はまっすぐ茉優ちゃんを諫める。茉優ちゃんが李音を睨み返す。わたしは何もできずに、はらはらしながら二人を交互に見た。

「……先帰るね。チビの保育園あるから」

 茉優ちゃんはノートと筆箱をひとまとめに鞄に押し込んで、そのままひったくるように鞄を背負った。掃き溜めのくせに、と呟く声が聞こえた。引き戸がフレームに強くぶつかって、大きな音がした。咄嗟に李音の方を見ると、ぞっとするほど目が暗く、冷たかった。



 下校時間ぎりぎりまで課題をやって、わたしたちは二人で帰った。帰りにコンビニに寄って、二人で七十円ずつ出し合って、アーモンドチョコレートの小さな袋を半分こした。李音はチョコレートを放り投げて口に入れるのが上手かった。わたしが真似をしようとしても、おでこに当たって落ちるだけで、まるで上手くいかなかった。

 李音の表情からは、いつもの明るさのようなものが消えていた。茉優ちゃんの言った「掃き溜め」という言葉が、わたしの中にも引っかかっていた。

 外はもう暗くなり始めている。路地に湿った風が吹く。学校の近くは立派なマンションが多いけれど、電車に三駅乗るだけで、煤けた集合住宅ばかりになる。その中の一つがわたしの家だ。その集合住宅群の中も、線路を挟むと随分様子が違う。

 わたしの家とは反対側、川のあるほうへしばらく歩くと、時々「掃き溜め」と呼ぶ人がいるエリアになる。表の方にはさびれた風俗街が並ぶ。貧困率が高くて、治安も良くないから、「女子どもは近寄っちゃいけない」場所だと、ここの大人たちは口々に言う。「あそこの子とは関わっちゃいけない」とも。実際、「掃き溜め」の子たちには、少年犯罪も、未成年の望まない妊娠も多い、らしい。「良くない場所」たる掃き溜めは、善意と保身というコーティングによって、暗黙のうちに遠ざけられている。

 そこに、李音は住んでいる。

 李音がどこか孤立しがちだったことと、「掃き溜め」という出自とは、決して無関係ではないのだろう。わたしはこの辺りの出身でないから、ピンとこない部分も多い。だけど中学の時、妙に襟ぐりの汚れた制服の子が、「あの子はあそこの集落だから」と耳打ちされていたのは、記憶に残っている。トラブルの多い子だった。誰かに揶揄われて問題を起こすたびに、「あの子は、ほら……」と目配せをされていた。

「茉優ちゃんのことなら、気にしない方がいいよ」

 不意に李音が言った。李音を気遣うつもりで言葉を探していたのに、逆に気遣われてしまった。

「八つ当たりしたかっただけなんだよ。ゆかりちゃん、優しいから。甘えてるだけだ」

「……でも、茉優ちゃんがわたしに言ったことは、そんなに的外れじゃなかったよ。たぶん」

 どうしてわたしは茉優ちゃんを庇っているのだろう。言葉の途中で我に返る。それでも茉優ちゃんを責める気にはなれなかった。今日はイライラしていただけで、普段の茉優ちゃんはちゃんと優しい。なんて、どこかで聞いたような口上ばかり頭に浮かぶ。

 今まで、お母さんとふたりで、寄り掛かり合いながら生きるしかなかった。だけど、これからもずっとそうしていくのが当然だと思っていたことに、わたしは気付いていなかった。茉優ちゃんはそれを指摘しただけ。

「人の善性を、そんなに簡単に信じちゃだめだよ」

 色も温度もない声。

 すっ、と気温が下がった感じがした。

 李音はこちらを見ないまま、話し続ける。

「ゆかりちゃんは、今までもたくさん苦労したけどさ、これからもきっと、人よりたくさん苦労するでしょう。そういう弱い立場にある人に、悪人は簡単につけ込むんだよ。警戒しなきゃだめだ」

「……うん」

 叱られている気分だ。李音がこんな言い方をするのを初めて聞いた。

「本当はぼくみたいなのとも、仲良くしたらだめなんだよ」

「李音は悪い人じゃないよ」

「だから、そうやってむやみに信用しちゃだめなんだって」

 そう言われると、わたしは口をつぐむしかなかった。

 向かいの歩道に、小さな男の子を連れたお母さんが歩いていた。幼稚園の制服を着た男の子は、だいたい、四歳か五歳くらいに見えた。傍らのお母さんは、ねこじゃらしをむしろうとする男の子に、優しく何か言い聞かせている。手と手とがしっかり繋がれているのが眩しい。

 お母さんがいなかった日、親子連れを見てぎゅうっと胸が痛くなったのを思い出す。羨ましくて、泣きそうで、世界の全てをはじめて憎いと思った日のこと。

 お母さんのいない李音は、どんな気持ちであの人たちを見るのだろう。

「万引き、したことある?」

 当惑気味に、わたしは首を横に振る。だよね、と李音は皮肉っぽく笑う。「この学校の子たちはほとんどそうだよね。育ちが良いもの」李音が最後のチョコレートを口に投げ入れた。ごりごりとアーモンドの砕かれる音がする。

「ぼくはあるよ。最初は五歳の時。あの子と同じくらいだね」

 男の子はねこじゃらしを振り回しながら、大きな声でおしゃべりをしている。男の子がお母さんの周りを飛び跳ねるたびに、四角い鞄についた上履きの袋が揺れる。

「親が毎日律義にごはんを与えてくれないなんてあの辺りでは当たり前だからさ。子どもはみんなやり方を知ってるんだ。お金もなくて、ひもじくて苦しいし、それを親に言ったってぶたれるだけだしね。親に万引きさせられる子だっていたよ」

 圧倒されるばかりのわたしに、李音は畳みかける。自嘲的な笑みを張り付けたまま。

「人間は、放っておけばどんどん悪に転がり落ちる。それって、悪そのものが楽しくて愉快だからなんだって。――ぼくね、それ、すごく身に覚えがあるんだ。必要だから泣く泣く、良心の呵責に苛まれながら、ってほど現実はきれいじゃなくてさ。ぼくは確かに楽しんでた。スリル満点の面白い遊びだったんだよね」

 まるで別の国の話みたいで、流れ出てくる情報のスピードに、理解が追い付かない。昔の話だよ、と李音は茶化すように言う。わたしの顔はよほど強張っていたのだろう。

「ぼくは幸い、外の世界に触れられて、矯正できる機会があった。それでもたまに苦しくなるんだよ。発作が出るんだ。鞄が空きっぱなしだったりするとさ、つい手を伸ばしたくなる」

 こんな風にね、と距離を詰められて、わたしは咄嗟に後ずさった。鞄の蓋が閉まっていなかったことにその時気がつく。李音はそっとチャックを閉めて、硬直しているわたしに、例の自虐的な笑みを向けた。

「……ね、ぼくはこういう人間なんだよ」

 どうして今日の李音は、こんなにも露悪的なのだろう。わたしは泣きそうになりながら、確かに怖いと思ってしまったことが、とても悲しかった。


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