第13話

 わたしたちは黙々と駅への道を歩く。いつもなら静かな小さな駅なのに、今日に限って妙に騒がしかった。どこか胸騒ぎがした。

 駅のロータリーの前には、数人が列をなして立っている。おじさんが多い。メガホンを持った男の人の一人が、何か大声で訴えている。そこまでなら、時折ある、募金や政治活動の類だと思って、何事もなくやり過ごせたはずだった。

 垂れ幕と旗の文字を見て、心臓が凍り付いた。

『親子絆の会』の大きなロゴ。実子誘拐反対、共同親権推進、親子断絶防止。並ぶ言葉の既視感にめまいがする。

 お母さんがしたことは誘拐なんだよ、とお父さんは言った。あいつの被害妄想のせいで家族の絆を壊した、とお母さんを何度も悪し様に言った。

 子どもに会うのは父親の権利だ。

 どこかで聞いたことのある言葉を、目の前の人垣が繰り返す。

 目の前にある現実と、過去の記憶との境界線が、曖昧に混ざり合っていく。今目の前にあるのはどちらなのだろう。何も考えられない。

 頭が真っ白になった。力が抜けそうになる足を、無理やり動かす。李音が怪訝そうにこちらを見る。大丈夫と去勢を張って、わたしは歩く。

 自分は父親としては子どもを誰より愛しているのに、妻が子どもを引きはがそうとする。断じてひどいことなどしていない。衣食住も愛情も与えていた。DVをでっちあげられた。子どもは虐待だと言わされている。子どもだって父親に会いたいと思っているはず。子どもの未来のために、共同親権で両親からの愛情を注がなければ、健全に育たない。親子の絆を壊すべきではない。父親に合わせないのは子どもへの虐待だ。子ども目線の親権と政治を。

 涙ながらに訴える声。人垣。みぞおちを押されたみたいな気持ち悪さに襲われる。メガホンの声が何倍にも増幅して、頭の中で反響する。どうして、自分は被害者だと、あれほど盲目的に思い込めるのだろう。

 改札に行くためには、横を通り抜けるしかなかった。逃げるように足を速めたが、強引にチラシを渡された。子どもを探しています、という文字の横に、シャボン玉を吹いている女の子の写真があった。人探しの体で、子どもの写真をばらまいているのだ、と思うと鳥肌が立った。突き返すこともできないまま、小走りで改札を抜けて、エレベーターホールの前で、すとんと腰が抜けた。

 右耳がぎりぎりと痛む。

「大丈夫?」

 近くにいるはずの李音の声が遠い。逆に近く聞こえるのは、遠くにいるはずのあの人たちの声だ。美辞麗句と子どもへの愛を並べ立てる、実子誘拐被害者たちの声。いったいあの中の何人が、妻や子どもに手をあげ、感情をぶつけ、身を守るために逃げられたのだろう。言葉から滲み出る加害性にはよく身に覚えがあった。

 立つのって、どうやるんだっけ。差し出された手を取っても、足の動かし方がわからなかった。心臓が脈打つたびに痛かった。耳の内側で甲高い音がする。外ではまだメガホンの声がしている。増幅される不協和音の波。

「とにかく向こういこ、立てる?」

 李音に身体を支えられて、ようやく立つことができた。お父さんから逃げた時のことを思い出していた。あの人たちの気配があるような気がして、何度も振り返った。駅の奥へ奥へと潜って、ホームに降りると、ようやく耳鳴りがマシになった。

 ほっとすると、また腰が抜けてしまった。壁際にしゃがみこみながら、ひとりでに涙が出てきた。わたしたちは平穏に暮らしたいだけなのに、それすら望んではいけないのだろうか。関わり合わないことを望むことすら許されないのだろうか。親子だから。混乱の中で、そんな意識だけが頭を占めた。李音が冷たいペットボトルの水を買ってわたしにくれた。手が言うことをきかなくて、水は何度もこぼれてスカートを濡らした。

「怖かったね」

 声を出さずに頷くのがやっとだった。落ち着くまで李音は傍にいてくれた。電車に乗っているときもずっと手を握ってくれて、帰りもわたしの家の前まで送ってくれた。ありがとう、とわたしが言うと、こんなの何でもないよ、と肩をすくめて笑った。

「やっぱり李音は優しいし、いい人だよ。悪人なんかじゃない」

 李音はひどく悲しそうにはにかんで、「じゃあね」と踵を返した。線路の向こうに歩いていく李音の背中を、わたしは見えなくなるまで見送った。



 暗い部屋でうずくまりながら、お母さんを待った。あの時と同じように、わたしはうさぎを抱きしめて、ふかふかの頭に顔を埋める。気づくとメガホンの声が頭に響いてきそうになって、わたしは音楽を耳に詰め込んだ。お母さんのお下がりの音楽プレイヤーには、わたしの好きな曲のほかに、お母さんのお気に入りの曲も、茉優ちゃんが勧めてくれた韓国のアイドルの曲も、李音が貸してくれた昔の歌手の曲も入っている。心は簡単には鎮まらなかったけれど、目の前の現実の時間をやり過ごすにはちょうど良かった。

 いつもより少し遅い時間にお母さんは返ってきた。「どうしたの電気もつけずに。具合悪いの? ご飯食べれる?」わたしは曖昧に笑顔を作って、「大丈夫」と答える。パート先のお惣菜を袋から出しながら、「ゆかり、またご飯炊いてなかったの」とお母さんが言う。ご飯を炊くのはわたしの仕事だ。

「ごめん」

 わたしの返事には自分でわかるほど覇気がなかった。お母さんは何か聞きたそうだったけれど、何も言わなかった。そのままてきぱきとお米を洗って、高速炊飯のボタンを押す。

 話したいことはたくさんあるはずだった。仲の良い友達がわたしのせいで喧嘩をしたこと。李音の告白のこと。駅で嫌なものをみたこと。いつもみたいにお母さんに吐き出したいのに、どうしても言葉が出てこなかった。依存、の二文字が頭をよぎる。お母さんは洗い物をしながら、「お弁当箱、出しなさいよー」とこちらに呼びかける。

「何これ、補講? また引っかかったの」

 キッチンに立ちながら、お便りに混ざっていた補講の連絡を、お母さんが目ざとく見つけた。

「ごめんね、塾行かせてあげられないから……」

 お母さんが悲しそうな顔をするから、わたしも余計に悲しくなった。お母さんは時々、こんな風に、やたらと自分を責めたがる。

 炊飯器の電子音。形式的にごはんを盛って、お惣菜を温めた。今日に限って苦手な切り干し大根がある。煮物から、油揚げと人参だけを拾い上げて、白いご飯を消費する。

「大学のこととか、ちゃんと考えてる?」

「……家から通えるとこにする。お母さんに負担かけたくないし」

 こういう会話をしていると、わたしとお母さんの会話は、ひどく芝居じみていると思うことがある。お母さんは母親という役を、わたしは娘という役を演じて、会話をする。気を遣い合うことが高じて、どこか茶番めいた、嘘っぽいものになる。

 そんな風に思ってしまう自分が、わたしは一番嫌だ。

「ゆかりがそれでいいなら、いいけど……」

 歯切れ悪く言うお母さんを尻目に、わたしは「ごちそうさま」と席を立つ。ちゃっちゃとお風呂入っちゃいなよ、とお母さんの声が追いかける。


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